2012年12月31日月曜日
年越しソバなど人並みに食せむものと
買い物に出かけた。お正月用の買い残しの物をかごに入れた後、海老天の売り場に、曰く「ほらここも298、どこへ行っても298なのよ」。私、吟味を任せてそっと離れて見てると、かみさん、知らない奥さん二人と論じ始めた。
海老天は 何処へ行っても にっきゅっぱ
えびの大きさ 気になる3人
一人が、「そうだ他所へ行こう」、もう一人が「そうだ、内にとろろ芋があるからそれにしよう」、つられて内のも、「やめたやめた」。さーて、ネギとお揚げを買ってたけど、何が出てくるかと思ってたら、ざるそば+とろろの模様。さてテーブルへ運ぶ役だけでも果たさんと出向いて、油揚げ+ほうれん草のお浸し、そしてそして、ソーセージ&ベーコンの野菜煮込みの残りも運ぶことに。たんぱく質も摂れたねー。そして、下手な海老天そばより美味しかった
満腹!
2012年12月21日金曜日
リヒテンシュタイン華麗なる侯爵家の秘宝@新国立美術館
リヒテンシュタイン侯国はオーストリアとスイスの境目にある小さな国、ハプスブルグ-オーストリアの重臣のリヒテンシュタイン侯爵家が治める国。その秘宝は絵画、家具調度品等々、オーストリアの首都ウイーンにあるリヒテンシュタイン侯爵家の夏の宮殿に展示されている。今回天井画まで含めて日本に139点が引っ越してきた。左図はクリックするとおおきくなります。
いつだったか美術番組で言及していたのを思い出し12月23日までやってることに気づいて、本日見に行って来た。
17-18世紀の豪華な絵画、彫刻、家具、調度が見事だと思ったが、特にルーベンスのコレクションは見事で楽しめました。
フランチェスコ・アイエツが描いた「復讐の誓い」の憂いを含む目の中に凝縮する怒りに満ちた美形の女性の凄絶な表情に釘付けになり、その隣のアメリングが描いた「マリー・フランツィスカ・リヒテンシュタイン侯女 2歳の肖像」の寝顔の愛らしさにはこちらの頬が緩む思いであった。
残念ながら22日、23日を残す展示期間ですが。
2012年12月18日火曜日
かなっくホール
20代のころに歌いたいと思った、オペラのアリアや歌曲を、死ぬまでにどうしても、ある程度まともに(心の中ではプロ歌手と競えるほどに、無理なこと言ってる!)歌えるようになりたいと、71才になって一念発起してしまった。今は二人の先生について練習している。70の手習い。
かなっくホールはJR東神奈川駅と京浜急行、仲木戸駅を結ぶペデストリアンデッキに接続する、両駅から1分で行ける、300席のホール。このホールで先生Aが演奏会をされた時、聴きに行き、とてもよく響く良いホールだと思った。これが横浜市神奈川区民文化センター所属の施設と言うのだから驚く。その後、孫娘が所属するハンドベルのクラブがここで演奏会を開いたのを聞きに行って、やはりこのホールの音響の素晴らしさを体験した。ハンドベルと言うのも中々良いもので、音域によってはオルガンの音を聞いてるような気分になった。
実は先生Bもこのホールで、今までに交流のあった人々を招いて演奏会をされるのだが、私はお手伝いを買って出た。12月12日にそのリハーサルがあり、参上した。先生の練習が始まる前は「どうぞ遠慮なく声出して、歌ってみて」とおっしゃったので、とにかく発声練習のようなことをやってみたが、ものすごくよく響く。こんなところで演奏が出来たらなーと思った。
横浜には関内にも優れたホールがあるが、かなっくホールのホールカレンダーに気を付けていて、面白そうな出し物があれば、行ってみるのも一興かもしれない、
朝もや
暖かい朝だったが、あまり早く起きられなかった。7時15分ごろカーテンを開けて、外を見たら靄がかかっていて100m先の家がうすぼんやりとしか見えない。相模原ー田名線にかかる国道129号線の陸橋の上は上下線とも、常ならざる渋滞模様だった。
2012年12月15日土曜日
METオペラ ライブビューイング テンペスト
テンペストの上映最終日の14日に見に行って来た。行こうかどうしようか随分迷ったのだが、イギリスが生んだ名バリトン サイモン・キーンリサイドを是非視聴したいと思って行くことにした。
このオペラはイギリス産の作曲家アデスがシェイクスピア最後の戯曲テンペストに基づいて32歳の若さで(今は40才くらい?)作った新しいオペラ。
解説的なインタビュー。
テンペストと言えば、去年、真夏の夜の夢とテンペストのストーリーを混ぜ合わせ、バロックの名曲を抜粋し編曲して作り上げたオペラThe Enchanted Island(魔法の島)という幻想的な、ミュージカル風のオペラを視聴した。その中では、主役級の歌手による聞かせどころがふんだんに盛り込まれていてとても楽しかったが、今回テンペストはそういった、主役向きの聞かせどころといったところは無かったような気がする。そんな印象。
18世紀のラ・スカラ座の中で演じられる歌劇の観劇に、プロスぺローを演ずるキーンリサイドがMETの聴衆を誘いながら、プロスぺローの役を演ずるという手の込んだ構成で、最初にこの台本(コード)を手にした時まったくパニックだったと、キーンリサイドがインタビューに答えていた。こちらもまだ、こなしきれてなくって、知らない間に終わってた感じ。お隣の私よりはかなり若いオバさん、遠慮会釈なくいびきをかいてたなー。そのくせ幕間に向こう側の隣の人と交わす評はそれほど頓珍漢ではない!!!寝ながら聞いてたのかな―??
舞台の上につりさげたきらびやかな飾りがついた装置でのアクロバティックな踊り、
舞台の下からのせり上がりがあったり、黒子二人に支えられた妖精が空中を泳ぐようなシーンがあったり、なんとなくミュージカルを見ていたような感じでした。
練習風景?をどうぞ。
私は、キーンリサイドがのびのびと歌っていたのを聞けて、満足だった。
2012年12月7日金曜日
新温室@新宿御苑2012_12_05
新しくつくりかえた温室。綺麗にまとまっていました。絶滅危惧のランなどの保全などに努めている様子。
きそうてんがいと言う名の植物、”しまくわずいも”なんて名のいも、フトモモ科なんて言うのを始めて知りました。非常にたくさんあるかと言うとそうでもないが、案外楽しめます。
2012年12月6日木曜日
新宿御苑にて2012_12_05
用事があって、ちょっと新宿へ。ついでにMETライブビューイングのテンペストのチケット購入。ふとしばらく行ってないなーと思って、新宿御苑を訪れました。
なんと写真家さんが多いこと、何の小道具もない小型デジカメ一丁の私、何か肩身が狭く感じるくらい沢山の小道具を持っているのですねー。静かに散歩できるかなんて期待したのは認識不足。画家もちらほら見受けました。
あっちこっちとさまよいあるいてきました。冬支度の中の紅葉がとても綺麗でした。
新装なった大温室は次に。
2012年12月1日土曜日
傑作風刺漫画
新聞の風刺漫画で面白いのが少なくなったなーと思っているのですが、今日(12月1日)の朝日新聞の針すなお氏の”「八策」改め・・・・・”は思わず笑いました。前に立つひんまがったピストルを持つ竜馬まがいの〇下君らしき人のキャラクターは薄く、後ろから竜馬まがい君を抱え込むX原氏と思しき人のキャラクターはとっても濃く描いてある(絵の出来もなかなか)。
維新変策ですか・・・・
2012年11月27日火曜日
道保川公園_2012.11.25
11月25日は吾が連れ合い殿、娘と孫娘とのデート(お買いもの)。私は家で仕事だが、駅まで送って行った後、ちょっと寄り道して、道保川公園を訪ねて見た。
鳥のさえずり、せせらぎの音、やすらぎのひと時でした。
良いところですよー。
2012年11月22日木曜日
2012年11月20日火曜日
METライブビューイング2012~2013
メトロポリタンオペラの映画によるライブビューイングに味をしめて、今シーズンも足を運ぶことにした。幕開けは、今をときめくソプラノAnna Netrebkoが出演する「愛の妙薬」だったが、残念ながら忙しい日が続いてパスした。19日から、今シーズン第2作「オテロ」。朝7時40分に家を出て新宿ピカデリーへ。(左写真:クリックするとちょっと大きくなります)
来場者、シニアが多かったが、7分どおりくらいの入りだったろうか。
予想外に素晴らしかった。初めて聞くオテロ役のヨハン・ポータ。当たり役との触れ込みだったがまさにオテロを演じるに足る素晴らしい声だった。体格がすごい、立ち姿は衣装をうまく使って見えなかったが、床に倒れこむシーンでは、ビヤダルそのもの。歌の先生は「さ―、体がドラム缶か、ビヤダルになった気持ちで歌って」っておっしゃるけど、彼はその気持ちになる必要はない。若き日に見たマリオ・デル・モナコのオテロの姿が未だに焼きついて離れないせいか、ポータが横になった時はチト幻滅だったけど。
ルネ・フレミングのデスデ-モナは響きを効かせてこれもよかった。最終幕の”柳の歌”、引き続き歌う”アベ・マリア”。いろんなソプラノが歌うのを聞いたが、やはりトップクラスだろう。
悪漢イヤーゴ役のバリトン、ファルク・シュトックマンも初めて聞いた。歌も演技も達者だった。見ごたえ聴きごたえのある3時間半だった(休息一回)。
上映スケジュールはこちらへ。
2012年11月17日土曜日
耐え そして 育てなおしの努力をするしかないのかな
私は、中曽根康弘さんの政治姿勢が好きだったかと問われれば、好きではなかった。だけど今までの首相を客観的に見て、宰相らしい宰相だった人としては中曽根さんが最後の人だったと思う。その人物を見抜いて、自分の派閥に属さない、しかも自分の厳しい批判者になりうる後藤田正晴さんを内閣の支柱に選んだことも素晴らしかった。後藤田さんは中曽根さんを立派に支え、暴走しないようにそっと助力された。氏は中曽根さんの後を継いで首相になることをのぞまれたが、自分はその器ではないと固辞された。だけどその後、首相になった人たちのうちで、後藤田さんを超える人物はいただろうか?私はいなかったとみている。今もそのような人物はいないと思う。
野田さんは衆議院を解散しなきゃならない状態に追い込まれてしまったけど、選挙をしている暇があるのだろうか。野党を説得して、各党からましな人物を拾い上げて挙国一致内閣を作ろうとしなかったのだろうか。まあ、それを受け入れるほど許容量のある野党指導者はいないとは思うが。自分の党の貧弱さには目をつぶり、自分の党、或いは自分のことしか考えられず、人物払底の状況下で、世界の荒波の中の日本をどう導くか、そのためにどう力を尽くすべきかなんて視点はないのだろう。
選挙民は、立候補者から議員を選ぶよりほか無いのだけれど、各党の指導者、所謂第三極と言われる集団の指導者達も、国を託するに足るスケールを持った人物はいないように思う。ましてや、指導者と言われない人たちの資質たるや推して知るべしである(大化けする人がいれば良いのだが)。少しでもましな人を探し、選んで、投票するしかあるまい。結果は見えているような気がする。結局変わり映えしない状態になるだろうということである。それでも、一国民としてはそんな状態を引き受けて耐えるしかあるまい。
ただ、耐えるだけではしょうがない。何とか打開せねばならない。皆が国に対して危機意識を持たないといけないような状態と思う。人が払底してしまっている以上、育てねばならない。いろんなレベルで、国民の育て直しをする必要があると思う。教育機関での教育の方法、仕組みの改革に真剣に取り組むことは論をまたない。それだけでは足りない。実社会に目を移してみると、こども達がかなり放っておかれて、丁寧に見守られていないように思う。昔は血縁者が互いに近くに住んでいて、血縁者間の普段の面倒見がうまくいっていた面があったが、今はそれが難しい社会になってしまった。私は地縁と云うものをもう少し大切にして、互いに周囲に気を配り、こども達に時に優しく、時に厳しく接する必要があると思う。大人に反発して、どうしようもないように見える子も少なからずだけれど、放っておかれた状態にあることが大きな原因の一つではあるまいか。こども達には大人と接して大人から構われたい気持ちがある。自分の経験に照らして、これは間違いないと自信を持って言える。
選挙と云う行為は民度が問われていると云う意味がある。選ばれる人たち、選ぶ人たち、皆しっかりせねばなるまい。しっかりものごとを捉え、観察し、考え、行動する人たちを沢山育てねばならない。普段の生活に於いて、大人、年寄りからの地縁を通した知恵の継承も大切なのではあるまいか。
2012年11月13日火曜日
種モデルグライダー:アルソミトラ
あるこどもセンターでアルソミトラの種のモデルグライダーを作ってあそびました。
館長さんの発案で、外に出て階段の上から飛ばしてみることになりました。室内で飛ばすのと違って風に乗ったりして、面白い飛行を見せてくれました。
残念だったのは風で高く舞い上がり道路の側に設置した網のフェンスの高い所に当って落ちるという大飛行があったのですが、撮りそこないました。
実物は1Km以上飛ぶというのもうなずけるなーと思いました。
2012年11月11日日曜日
2012年11月4日日曜日
ドーナッツ買ってきたら 再び
今年3月6日にたくまずして私と背の君がおなじようなドーナッツを買ってきてしまった。あれを思い出したわけではないが、郵便局に行った帰りに歩き足りないとて、もう少し歩いたらドーナッツ屋さんの前に。ほぼ8カ月ぶりの衝動買い。パンプキンの種がついている。
帰宅して待つこと約1時間、背の君が帰ってきた。「ドーナッツ買って来たよ」と私、「エ―、そんならそうと早く知らせなさいよ、私も買って来た!」普段喧嘩ばかりしてるのに、何と云うコインシデンス!3月以来買っていないのだから、8か月ぶりに同じことをしてしまった。何なのだろう!!
今朝、私が買って来たのを食してしまったので、一袋残り、明日食べるか!!!
そういや、パンプキンパイが食べたいなー。食い意地ばかりはって、いよいよあぶないか??
2012年10月30日火曜日
錦秋@日光中禅寺湖付近(10月27日)
26日朝、日光へは行ったことが無い我が君にくっついて日光へ出かけました。相模原ー八王子ー大宮ー宇都宮ー日光の鉄路(JR)を利用して。
着いた日の午後は東照宮などにお伴。先ずは日光山輪王寺 大猷院へ。階段をきつく感じてしまう歳になってしまったようです。ここは徳川家光の廟所。お江の方、秀忠、家光の位牌が並んで祀ってありました。
そのあと、東照宮へ。
眠り猫のところから奥院に入れたので、背の君を置いて行ってきましたが、まあ階段のきつかった事、嘆きながら戻ってきました。日光の街中の紅葉はこれからの感じ。
翌日は現地の観光バスツアー、中禅寺湖、半月山往復、に乗りました。お客11人。乗ってから判明したのは、あるTV会社の取材記者が乗っていて、インタビューされる。背の君丁寧に対応するも、私少しそっけなく対応。取材拒否でカンカンに怒りだす人もいました。
本日朝9時ごろに放映だろうと聞いてたので、まあ背の君は映るだろうと思って見てたら、私まで映ってた。
もうこの歳になりゃ、どうでもいい事ですが。
行きは第二いろは坂をのろのろ登ります。上にいくにつれ、紅葉がきれいになって行きましたが、見とれていて写真を撮るの忘れました。中禅寺湖に出て視界がぱっと開けたところで、お客の若い女の子が、”あっ!ウミ!!”と歓声あげたので一同どっと沸いて雰囲気は和みました。
その辺までは視界もよく見えていたのですが、終点半月山に着いたら乳白色の霧の中。中禅寺湖周辺の錦のような光景は眺めることは出来ませんでした。帰りは中禅寺ー華厳の滝ー第一いろは坂経由で帰ってきましたが、下のビデオをご覧ください。紅葉はきれいでしょう。
帰路の鉄路は、東武線の特急に乗って大宮ー(埼京線乗り入れ)-新宿ー町田でした。
2012年10月13日土曜日
スズランの実@横山公園
横山公園では毎年5月に
スズランが咲くが、今年も咲きました。
花が咲きゃ、実がなるのが普通だが、スズランの実のことはすっかり気がつかないままでいました。
今年、あれっと気がついて、写真を撮ってきました。橙色した可愛い実でした。
写真をクリックすると、ちょっと大きくなります。
2012年10月7日日曜日
スロベニア・クロアチアの旅_7 (プリトブィツィエ湖群国立公園(世界遺産))
旅の終わりにプリトブィツィエ湖群国立公園を訪れた。滝あり、何段かになっている大小さまざまな湖沼からなっている。右図(クリックすると大きくなる)のA地点から始めて、大きな滝(B)に寄り、段々と上に歩いて行ってC地点から船でD、Eと渡った。奥にもっと綺麗なところがあるらしいが今回は半分だけ。でもとても澄んだ良い空気を吸って、ほどよく歩き、気持ちの良い森林浴だった。
この旅行の最後の晩はザグレブだった。
夕方近くに、ザグレブに着いた。ザグレブはクロアチアの首都。見所が多いのだが、今回は旧市街を少し歩いただけだった。何だか物足りなかった。東欧圏の首都巡りでも考えたいと思った。
翌朝早く発って、クラーゲンフルトへ。そこから飛行機でウイーンで乗り継いで帰国した。
かなりきつい旅程だったので、体は疲れたが、心は軽くなった。行く前かなり気持ちが重い状態だったからだろう。心も、目も洗われた感じがしている。
2012年10月5日金曜日
スロベニア・クロアチアの旅_6 (モスタル 戦禍の残る)
9月21日に海辺を離れ内陸に入り、ちょっとボスニア・ヘルツェゴビナに入ってモスタルを訪れた。この国はキリスト教徒とイスラム教徒がすむ国で、紛争時には宗教上のぶつかりでもあった。紛争時、確かこの国のことだったと思うが(モスタルかどうかは覚えていない)異なる宗教に属す恋人同士が(どっちがどっちか記憶はない)両宗教の人々が住み分けていた境界域で、二人とも撃たれて倒れているが、誰も助けに行けない。という新聞記事を読んだことが忘れられない。
モスタルは修復されたところと、悲惨な状態のまま残されたところもあった。
この街には古くからあった橋があった。時々テレビにも出るが、飛び込む競技と云うか度胸を競い合う行事が行われるが、この橋も粉砕された。水の中から破片を拾い上げ一部補って修復したと云う。下のビデオの中ごろに映るが、橋のたもとにDon't forget '93と書いた石が置いてあった。
出入国手続き:旅のさなか陸続きの国境越えを何度か経験した。どの国の人が、どの国から入出国するかによって取り扱いに少しの差があるようだが、観光のバスが続いたりすると随分待たされることもあった。最長1時間半待つことがあった。
通貨も複雑だった、スロベニアはユーロ圏オーストリアとの間の出入国のチェックはなかった。
クロアチアもユーロ圏に入ろうとしているが、今の通貨はク―ナ(KN);1KNは15円前後。
ボスニア・ヘルツェゴビナではマルカ(KM);1KMは約60円ぐらい。ユーロを使う事が出来た。
呑み助ではないんだが、見栄張ってかなり濃い赤ワインDingacを買ってきてしまった。正月に弟と呑むことになるのかな~。
2012年10月3日水曜日
スロベニア・クロアチアの旅_5 (アドリア海に沿って旧市街めぐり)
クロアチアはカソリックのキリスト教の土地。多くの教会、大聖堂を見た。またそれ以前のローマ帝国の皇帝の要塞宮殿跡も。世界遺産が3件。
城壁に囲まれた街。これが意味を持った時代には門限が厳しく設定され、間に合わないと翌朝まで外で待つほかなかった。そのための吹きっさらしの小屋みたいのも用意されていた。
モンテネグロのコトルの街も世界遺産。
これら観光地には、紛争の爪痕は目立たないほど修復されていた。修復、世界遺産保持といった面もある。それでも、小さな教会の壁の一方は穴があいていて、もう一方に砲弾が当たって石が砕けた跡があったりした。ドゥブロブニクの記録も想像するだに悲惨なものであったろう。20年以上たった今もその様子を聞くのははばかられるめんがあるようだ。
2012年10月2日火曜日
スロベニア・クロアチアの旅_4 (NAUTIKAと云う名のレストランもあった)
宮崎駿は旧ユーゴのあたりを取材して作品「紅の豚」へのヒントを得たとの話。
NAUTIKAという名のレストランがあったが、もしかして・・・。
私は旅行に出ると、その土地で出る食べ物は出来るだけ貪欲に食べることにしているが、今回お肉料理はそれほど美味しいとは思えず、お魚系がおいしかった。下の写真集には出てないがトロギールで食べたタラのフライも決して悪いとは思はなかった。
ビュフェ形式の朝食は、どこも似た内容ではあったが、パンも美味しかったし、ハム、ソーセージ、チーズ、野菜、暖かい副食も、果物もどれも美味しく、取り過ぎ、食べ過ぎの感があった。
以下では主に昼食(リゾットは夕食)の一部を写真に撮った。
街場ではマロニエ(西洋栃の木)の木をよく見かけた。マロニエのイガイガした皮をむくと、栗のような色形の実が出てくる。栗(マロン)とのかかわりが気になって調べたら、”マロンとは本来はマロニエの実を指したが、マロングラッセに使うマロニエの実をクリで代用したことから、クリのこともマロンと呼ぶようになったと言われる”とか。日本でも栃餅を食べますね。西洋では今は食用にはしないらしいが。
我々の仲間で、飛ぶ種が話題になっているが、これも西洋漆の一種だろうか、一つ一つがくるくる舞いながら落ちてくる。ひとかたまりで落ちていた。(クリックすると大きくなります)
2012年9月30日日曜日
スロベニア・クロアチアの旅_3 (アドリア海に沿って)
リエカ-シベニクードブロブニクと泊り、ドブロブニクは2泊して、モンテネグロのコトルまで足を延ばした。
アドリア海の眺めを纏めてみた。下手な写真から本当の美しさを想像するのは難しいかもしれないが。
石灰岩主体の陸地と青い海の対比は鮮やかで、とても美しかった。
2012年9月28日金曜日
スロベニア・クロアチアの旅_2 (概観とスロベニア)
9月15日、午前11時15分に成田を発ち、空路ウイーン―>クラーゲンフルトそしてバスでスロベニアに入ったことはスロベニア・クロアチアの旅_0で述べたが、その後の旅は食ってはバス、食ってはバス、食っては寝の連続で、また好き嫌いなく何でもおいしいと食べてしまうので、帰り着いたときは2kgも増えていた。
それはともかく、左図の地図中(クリックすると大きくなります)にグリーンで示した経路で、旅の大部分はクロアチアで過ごした。風景、旧市街を見る旅だった。どれだけ国をまたがったかと云うと、スロベニアの後、クロアチアに入り、アドリア海沿いに南下、途中でほんの一部だけ、ボスニア・ヘルツェゴビナが楔のように海辺に出てくるのを通り越して、またクロアチアに入ってドブロブニクで2泊、その間に半日だけ、その南のモンテネグロに入ってのコトルを訪れまた元来た道を戻り、途中から北上して、ボスニア・ヘルツェゴビナに入って、モスタルを訪れ、またクロアチアに戻って北部のプリトブィツェ国立公園(中国の黄龍みたいなところ)、クロアチアの首都ザグレブをまわっての旅だった。以上概観。
ここでは、スロベニアの綺麗なブレッド湖周辺の景色とスロベニアの首都リュブリヤ―ナの写真を動画に編集してみた。ブレット湖ではエンジン付きのボートは一切禁止で、中にある島へは手漕ぎボートで渡る。ここの出身者が種目名は忘れたが、オリンピックの手漕ぎボートで金を含むメダル取得者3人だったかを輩出しているとか。水の色が素晴らしくきれいな湖だった。
このブレッドには2泊したがその間に首都リュブリヤ―ナを訪れた。新市街と旧市街を分ける川は小さかったが観光船が走る。そして川岸にはオープンカフェが並ぶ。スロベニアはハプスブルク・オーストリアの支配を長い間受けただけあって、東欧圏ではあるが、どことなく中央ヨーロッパにいるような感じがした。
ブレッドを発って、クロアチアに入る前におとずれたのが、ポストイナ鍾乳洞。ヨーロッパ最大級のもだそうなのだが、内部は撮影禁止。右図のようなトロッコ列車で内部まで行き、その後大規模な洞内を歩いて見て来て又トロッコ列車で戻ってくる。そのトロッコ列車、くねくね曲がった線路をかなりのスピードで走り、大きな石筍等を見ながら進むのだが、まるでインディ―ジョーンズの世界。注意してないと岩盤に頭をぶつけそう。スリリングなひと時。内部の徒歩コースもかなりの高低差を歩く。疲れた人にはショートカットが出来るようなコース設定がなされていた。我々は勿論、ガイドが率いる全コースを歩いた。ひざを痛めてる背の君はちょっと大変だった。徒歩の最後、列車に乗る直前にコンサートホールと名付けられた広場に出る。本当に演奏会を開くこともあるらしいが、ここは撮影可。一部を3枚の写真を重ねてワイド写真のようにしてみた。
動画を除く写真3枚はクリックすると大きくなります。
2012年9月23日日曜日
スロベニア・クロアチアの旅_1
旅も今日は最終日。一昨日は今回の旅の南端、モンテネグロ国のコトルで半日過ごし、この日の夜と前の晩はコトルの少し北のクロアチア国のドゥブロブニクに泊りました。ここまではずーとアドリア海に沿って風光明媚な地域でした。(左はコトルからドゥブロブニクに戻る車窓からの眺め。ボケてますが、クリックすると大きくなります。)
旅の前の2/3の部分は、見ている限り、内戦の爪痕をはっきり見ることはできませんでしたが、天候に恵まれて、壮大な鍾乳洞、美しいアドリア海と、橙色の屋根の並ぶ街並みの数々など見てきました。しかし実際には例えば、ドゥブロブニクには2千発に及ぶ砲弾が撃ち込まれ、街はめちゃくちゃになったそうです。復興にはこれら海沿いの観光地に先ずお金が注ぎ込んで修復を行い、観光客を呼び、落ちたお金を内陸部の復興に使うと云った戦略がとられたそうです。
昨日、ボスニア・ヘルツェゴビナ国の内陸部モスタルに寄りましたが、叩き潰され、再建された立派な教会を見たり、修復された建物を見ることが出来ましたが、一方で弾痕が残ったままの痛々しい姿をとどめたまま使われている建物、これだけは内戦を忘れないために残した、ほとんど骨だけの建物なども見る事が出来ました。
さて、昨夜はクロアチア内陸部ブリトビィツェ湖群国立公園の近くに泊り、この美しい水郷地帯をほんの少し見て、今晩はザグレブ泊、そして明朝5時発で帰途につきます。
ちょっときつい日程で肉体的な疲れはありますが、心は自由にいろんことが考えられて、解き放たれた感じです。帰国したら日を追ってではなく項目ごとに整理して書いてみようかななんて思っています。
今ホテルのロビーで書いてます。ネットにはこのあたりからしかつながらないのです。結婚式の披露パーティーをやっているようです。「美しき青きドナウ」が流れています。
「旅は命を洗い、景色は目を洗う・・・」なんて言葉をどこかで目にしたような・と
はなむけの言葉をくれた友に多謝。
2012年9月18日火曜日
スロベニア・クロアチアの旅_0
少し遡りますが、8月に入って、9月は後半には何もイベントはなく暇である事が判明。背の君が待って
ましたとばかり、どこかえ出かけようと云いました。と云っても万全の計画を
立てて、出かけるゆとりはないので、ツア―で出かけようと云う事になりました。
それなら、個人旅行はチート不安な場所を選ぼうと云う事になり、ヨーロッパの火薬庫
、バルカン半島に足を踏み込もうと云う事にしました。
成田を9月15日の11時ころに発って、オーストリア航空のボーイング777でウイーンへ。
そこでは、全く休む暇なしで双発プロペラ機DASH8 でクラーゲンフルトへ飛びました。
オーストリア国内ですが、アルプスの南側で、静かな村みたいなところ。そこも休むことなく
バスで、スロベニアのブレット(Bled)にむかいました。
クラーゲンフルトは細長い氷河湖の傍にあって、飛行機
が着陸する少し前あたりから、眺めは素晴らしく、遠く
に雪をいただくアルプスも見え、
また着陸後バスからの
眺めも気持ちよいものでした。
途中、オーストリアからスロベニアへ国境を超えましたが、同じユーロ圏であるので、
出入国検査もなく、日本時間16日午前2時半、ブレットに着きました。
ここは湖がきれいな所です。
この地域、古代から民族大移動でいろんな民族が吹きだまった地域。
そのうえ、東ローマ帝国・オスマントルコ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国といった支配を
も受けたりして、多民族国家の時代が長かったことから諸民族が混在していました。
このため、ヨーロッパの単一民族による国民国家の概念に触れると、たちまち諸民族同士の争いが勃発したわけです。バルカン半島の民族問題が第一次世界大戦勃発の原因であり、第二次世界大戦後、チトーがこの地域をユーゴスラビアと云う連邦にまとめ上げたけれど、彼が亡くなると、内戦状態となり、これが収まった後も宗教・民族問題を多くのこっていることは記憶に新しいところです。
4,5世紀の民族大移動が未だに尾を引くと云う所に興味がありました。見ることが出来るのは、ごく一部ではありますが、楽しみにして、見聞を広げたいと思います。徐々に書いていきます。
2012年9月12日水曜日
Kさんの折り紙万華鏡
理科で遊ぼう会のKさん、折り紙名人。こどもセンターで授業があるたびに傑作を持ってきてメンバーに披露したり、センター職員にあげたり。悦に入ってる次第。
今日も今日とて、「あんたが気に入ると思って持って来たよ」といって折り紙万華鏡と称する物を見せてくれた。私はつくるよりも動画に取ってみようと、頂戴してきた。下手くそな手繰り方ですが、ご覧ください。
セロテープを使ってるそうで、ハサミも何も使わない折り紙を売りにしてる彼としてはどうかなーーー?
彼のバラは見事なのだが、今日はパスしよう。
2012年9月11日火曜日
大野北公民館にて
朝夕は涼しげな風が吹きますが、日中は相変わらずに暑さです。
夏の疲れが表面化する頃。お大切にお過ごしください。
さて9月5日に、大野北公民館の工作室に集まって、モーター
作成授業に使うキットの部品作りをしました。
さながら、小さな工場(こうば)の感があります。
興味を持ってくださった方、
http://tanuq.com/hprika/
をお尋ねいただけると幸いです。
歳を経し
父の13回忌。東横線都立大学駅から歩いて数分の東光寺へ。そうだ、都立大学は南大沢に移り、名前も変わってしまっているのに、この駅名は変わらない。
駅を降りてふと目に入ったのが古ーい駅周辺の写真。昭和20年頃とのことだが、この地は学芸大学駅(当時は第一師範という駅名だった)から坂を下りてきて、今度は自由が丘方向に坂を登る、その谷底に都立大学駅はある。(当時は都立高校前駅だったと思う。父が府立高校と云ってた事を思い出した。東京府だったころはそうだったはずだ。)今では線路は高架化して、プラットホームも上にあがってしまっているが、私は高架化する前のこの駅をしょっちゅう利用していた。この写真は渋谷側から撮ったものである(写真はクリックすると大きくなる)。もうこんな景色は戻ってこない。
13回忌の法要のあと、兄弟そろって、夫々の仕事の定年を迎えたし、それをも寿ごうと、食事を共にしたのだが、”最長老”が話題になり、弟達に笑われてしまった。事の発端は数日前、従妹から電話がかかってきたのである。父の世代がやっていた、いとこ会を次の世代もつづけようという。”もうそんなことやるの・・・・・”と遠慮を申し出ようと思いながら応対していたら、彼女はこちらが思っていたより遥かにてきぱきと話を進め、「京都の○○さんがちょっと体調がすぐれないので参加いただけません。そうなると、きよしさんが男性の最長老、必ず出席いただく必要があるので日取りをご都合に合わせます。」と。”ぎょえー!! サ、サイチョウロウ!!”。全く自覚なかった。○○さんや二つ上のはとこのAさんとはこどものころよく遊んだのだが、Aさん去年、パット逝ってしまった。そうか、あらがえない。何か、急に足元がふわふわしたような、別世界に追いやられてしまったような気分になってしまった。
2012年9月5日水曜日
山の中の藤野北小学校
中央線藤野駅のちょっと東側のあたりで、甲州街道から別れ、北へ約10分、相模原の我が家から約1時間で、山の中の学校、藤野北小学校に着きました。もうちょっと奥へ行くと陣馬山登山口があって、この道は高尾、八王子への裏街道であったとのこと。
10月に行う理科の実験、出前授業の打合せが目的でした。午後3時に担当の先生にお目にかかる約束だったのですが、2時半には着いてしまい、もう放課後でしょうか、こども達が、大きな子も小さな子も、校庭を走り回っていました。ちょっと早いと思い、写真を撮ったりしていたら、お会いすることになっていたN先生から声がかかり、あいにく校長先生はお留守ですがと、校長室へ。
10月中旬のある日の、3,4校時に4年生(7名)対象にヘロンの噴水、午後の5,6校時に5年生(9名)対象に二極モーター作成の授業をすることになりました。先生のお話の端々に、素朴なこども達の様子がうかがえて、都会のこども達とは一味違う子たちと出会えそうで、楽しみになりました。「昼食時には給食をこども達と一緒に食べてください」とのお申し出、喜んでお受けしました。
こどもたち一人一人が取り組む手作り教材を紹介し、どのように授業を進めるかを打合せ、理科室を拝見、使用設備などを見せていただきました。やりたい子がいたらハンダ付けもさせてくださいとのこと。約小一時間で辞去することにしました。帰りがけに、思いもかけず、「こども達が収穫した野菜ですが、持っていってください」と茄子とピーマンを沢山。こども達は家に沢山あるので、持って行ってくれないそうで、先生方が分けるのだそうですが、沢山余ってるのでと、最後に、無農薬です、と注釈がつきました。嬉しいお土産でした。
2012年9月3日月曜日
真駒内に羆
ニュースによると、藻岩山南麓や、真駒内それも地下鉄真駒内駅のすぐ東側に出没と。後者はちょっと丘になっていて樹木が茂るところ。秋には時々こども達を連れて散歩に行った。更に道路を隔てて西岡に繋がる森林地帯が広がり、小川も西岡に繋がる。
藻岩山南麓や、真駒内駅の周辺といえば人は歩くし、自動車はひっきりなしに走るし。去年生まれたばかりの”世間ずれしてない”熊だろうと云う話だが、その辺には知人が多く住んでいる。お見舞い申し上げます。
2012年9月1日土曜日
月寒あんぱん
懐かしい名前の入ったお菓子を背の君が買ってきた。月寒とは地名で、もともとはツキサップ。昔は旧陸軍の部隊が駐屯していた地域で、月寒公園はかつて駐屯部隊の演習場であった。
ほんのしばらくだったが公園のすぐ傍に住んだ。春は桜、秋は紅葉が楽しめた。冬はしばしばクロスカントリ―スキーを楽しんだ。何のことはない細いスキーで滑らせながら、歩いたり走ったりで、傾斜のところを登るのはともかく、滑り降りるのはすいすいとはいかなかった。エッジが無いのである。
月寒あんぱんである。この頃パン屋さんで見るアンパンとは異なり、アズキ餡のお菓子と云う方が近い。特別おいしいものとは思はないが、懐かしさが、これを口へと運ぶ。
このお菓子は、月寒の駐屯部隊が勤労奉仕に出て、道路の工事に協力した際、配られたとか。作っていたのは部隊に出入りしていたお菓子屋さん。今までずーっと続いている。
2012年8月25日土曜日
2012年8月24日金曜日
新しいスタイルの教室;相模原市立のある小学校にて
ある新しい小学校のサマースクール(8月22日ー8月24日)の理科教室のお手伝いと云う事で、3,4年生にポンポン船、5,6年生にY字振り子の授業をしてきました。学校を訪れて、その作りが従来の作りとずいぶん違う事に驚かされました。廊下が広い事にはすぐ気がつきましたが、教室が面白い。左図は6年生の教室で、とても広い。この中に三つのクラスが入っています。各クラスはパーチションで仕切られてるだけで、ドアで隔てられることはありません。オープン。違うクラスの子たちの間の意識の隔ては少なくなるのではないでしょうか?クラス替えがあると疎遠になるなんて事もないようなきがします。(2枚の写真を重ねてますが、クリックすると大きくなります)
ある女性の先生が、隣のクラスの男の先生が、大声で叱ると、こちらのクラスもピリッとするんですよ、なんて仰っていました。アメリカではそんな作りの学校を30年前に見ました。アメリカのやる事がいつでも良いとは思いませんが、新しい試みを通じて良い点が得られれば、今後の改善に役立つことかもしれません。ずーっと同じつくりの学校ばかり見て来たので、新たな息吹を感じました。
ついでながら、右図は玄関から入ったばかりの広場で、とても広く取ってあります。そしてそれが中庭に面しています。とても気分のいい空間でした。われわれは、この広場にブルーシートを敷いて、プールを置きポンポン船の実験を行いました。
2012年8月19日日曜日
相模原北公園
橋本西にあるホームセンターから、発注しておいたアルミパイプが届いたとの報が入った。取り急ぎ朝一番で出向き購入。帰路、久しぶりに相模原北公園に寄ってみた。カメラを持って出るべきだった。緑したたる木陰をあるくと、そよ風が頬をなでる。実に気持ち良いひととき。
蝉はないてるんだけど、抜け殻が木や枝にしがみついてるのを全く見ない。高ーいところまでエッチラ登って行って羽化するのだろうか。
さほど広くもない公園なのだけど、レイアウトのうまさだろうか、広い公園を歩いたような気になって帰って来ました。アゲハなど蝶もたくさん舞ってましたよ。
蝉はないてるんだけど、抜け殻が木や枝にしがみついてるのを全く見ない。高ーいところまでエッチラ登って行って羽化するのだろうか。
さほど広くもない公園なのだけど、レイアウトのうまさだろうか、広い公園を歩いたような気になって帰って来ました。アゲハなど蝶もたくさん舞ってましたよ。
2012年8月16日木曜日
閑谷学校
8月上旬に、あるNPOの関係で、閑谷学校に2泊3日の行程で行っていました。江戸時代に岡山藩主池田光政が命じて作った、庶民の学校(庶民のためと云う意味では日本初)。幕末近くになって、庶民の教育が大事と気がついた、多くの他藩が、この閑谷学校から多くを学んだようです。
昔寄宿舎があったところに建てられ、つい最近まで学校として使われていた古い建物が資料館として使われていました。
光政と言う人は幼くして家督を継ぎ、どうやって藩を治めていくか大いに悩み、最終的に学問でもって藩を統治しようと考えたとのこと。その境地を若いうちに切り開いた事は素晴らしい人だったのでしょう。 藩の郡方にも庶民のための寺子屋を建て、その頂点に閑谷学校を庶民の学問所として位置付けたと書いてありました。
国宝の講堂はいまも威風堂々とした雰囲気。儒教に基づく教育がなされたのでしょう。
上は国宝の講堂(左)と、その内部(右)。下は資料館(左)と「楷の木」(右)
写真はクリックすると大きくなります。
「楷の木」:閑谷学校では『学問の木』とも呼ばれ、孔子墓所にあった「楷の木」から採集された種から育てられた木で、閑谷学校のほかにも日本国内の孔子や儒学にゆかりのある学校(湯島聖堂、足利学校、多久聖廟など)に配られたとありました。
閑谷学校のそばの岡山県青少年教育センターの広い部屋に布団を並べて泊る合宿でした。何年ぶりでしょうこのような事するのは。
昔寄宿舎があったところに建てられ、つい最近まで学校として使われていた古い建物が資料館として使われていました。
光政と言う人は幼くして家督を継ぎ、どうやって藩を治めていくか大いに悩み、最終的に学問でもって藩を統治しようと考えたとのこと。その境地を若いうちに切り開いた事は素晴らしい人だったのでしょう。 藩の郡方にも庶民のための寺子屋を建て、その頂点に閑谷学校を庶民の学問所として位置付けたと書いてありました。
国宝の講堂はいまも威風堂々とした雰囲気。儒教に基づく教育がなされたのでしょう。
写真はクリックすると大きくなります。
「楷の木」:閑谷学校では『学問の木』とも呼ばれ、孔子墓所にあった「楷の木」から採集された種から育てられた木で、閑谷学校のほかにも日本国内の孔子や儒学にゆかりのある学校(湯島聖堂、足利学校、多久聖廟など)に配られたとありました。
閑谷学校のそばの岡山県青少年教育センターの広い部屋に布団を並べて泊る合宿でした。何年ぶりでしょうこのような事するのは。
2012年8月14日火曜日
蝉の幼虫捕り
昼少し前、自動車で横山公園のそばを通ったら、クマゼミがないていました。クマゼミの北限はもうとっくに東京を越したと云うから、不思議でもなんでもないのでしょうが。
今日は夕方遅く散歩。横山公園に行ってみました。一周してメタセコイヤが並ぶ辺りに来て、ハタと奇妙な数人の人たちに出会いました。歳かっこうはどう見ても、殆ど私に近い年齢らしい。釣り竿みたいな細長い竿を持っている。そして、強力な懐中電灯をかざして、上を見たり地面を見たり。
おじいちゃん、おばあちゃんが孫のために採集してやっているようなのんびりした雰囲気ではない。もっと切実感が漂う。なんなのだろうか???
私も数匹の幼虫が地面を歩いてるのを見つけた。”オイオイ踏みつぶされちゃうぞ”と木の幹につかまらせたが、見つかって竿でおとされちゃうかなー。
今日は夕方遅く散歩。横山公園に行ってみました。一周してメタセコイヤが並ぶ辺りに来て、ハタと奇妙な数人の人たちに出会いました。歳かっこうはどう見ても、殆ど私に近い年齢らしい。釣り竿みたいな細長い竿を持っている。そして、強力な懐中電灯をかざして、上を見たり地面を見たり。
おじいちゃん、おばあちゃんが孫のために採集してやっているようなのんびりした雰囲気ではない。もっと切実感が漂う。なんなのだろうか???
私も数匹の幼虫が地面を歩いてるのを見つけた。”オイオイ踏みつぶされちゃうぞ”と木の幹につかまらせたが、見つかって竿でおとされちゃうかなー。
2012年7月31日火曜日
鉢植えのアボカド
昨年末に水栽培を始めたアボカド(<=クリック可)鉢植えにするのが遅かったのかな―、ちょっと発育不全気味ですが、葉を茂らし始めました。もう少し幹が太くなるはずなのですが、まだ細いです。
2012年7月30日月曜日
昨日は上溝夏祭りでした
2012年7月27日金曜日
アルソミトラ;本物と模型たち
アルソミトラというインドネシア原産の植物の種が話題になっています。一旦気流に乗ると数キロメートル先まで飛んで行ってしまうらしいです。そこまで到達して子孫を増やすのですね。
この種を種にして、教材に使ってこどもたちに何か考えてもらうきっかけにしようと仲間が考えました。
そのこどもセンターでの授業の様子は、お仲間のブログにも見ることが出来ます。
飛ぶ植物の種を聞くと、案外面白い答えを云う子たちがいます。よく知ってるねーと感心するのもあります。
だけど私の興味は再現模型そのものに行っちゃいます。
以下のビデオでは本物の飛翔をお見せしてから、仲間が考えたスチロール材のお菓子のカバーに使ったりする
材料による”ゴンベ”号。プリンター用紙だけで作った軽い奴、更にレジ袋とプリンター用紙を組み合わせた
より本物に近い模型を紹介します。
こおゆうのを考えて、工作してる時って何にも代えがたい楽しみです。安定して飛ぶようにするための翼の調整も楽しいです。マニアックな代物ですが、誰かもっと面白いモデル考えて!
2012年7月24日火曜日
モナの丘でルバーブ購入
友人の写真集を見ていたら、店頭にルバーブを置いた店の写真があった。そこで、去年モナの丘で我が背の君が購入してきた事を思い出した。今年も売っているかと、早速、電話で聴いてみた、ハイお売りしますと。
あそこのカレーとナンはなかなかおいしいので、昼食+珍しい野菜物色を兼ねて、昨日、出かけた。
建物の中ではなく外のテラスで、緑を眺めながらそよ風とともに食べる野菜カレーとナン、カレーは幾種類かあり、日本人向けに少々マイルドになっているけれど、なかなか美味。
食事の後、野菜売り場へ。ルバーブは取り置いてありました。ナント1Kgも。茎の部分を食べるのですが、外見は蕗に似た格好をしています。でも質は全く違い、ジャムにします。その他に青茄子、赤玉ねぎ、バジルなど購入してきました。帰りがけに、昼食時にもらった水が、なんとも軽いいい香りをしてたので、尋ねたら、クールミントを水の中に漬けてあったとかで、あげますよって、ハサミでチョキチョキ切って少々いただきました。早速今朝からクールミントの微香を放つ水を楽しんでいます。
書きながら思いついたんだけど、ルバーブをジャムほど甘くせず、もともと酸っぱめなので、砂糖、レモン、白ワイン少々混ぜて、煮つめない程度にして、焼いたあつでの豚肉の上にソースとしてかけたら、美味いんじゃないだろうか?焼いた豚肉の上にリンゴおろしをかけて食べると美味い事からの思いつきです。
2012年7月17日火曜日
横浜関内にて
先日も、わがボイストレーニングの先生の演奏会を聞きに関内ホールへ来たばかりなのだが、今日もその近辺をぶらつくことになった。
久しぶりに横浜へ行くと云う背の君にくっついて行くことにした。先ずは書をなさる方なら知っておられる方が多いかと想像するのだが、横浜キョ―和という店についていくことになった。店員さんとの話を聞いていると、筆一本、ええっと思うような値段の話をしてる。こっそり、そんなの相模原の市内のどこでも、もっと安いのあるんとチャゥ?ときいたら、吾非弘法 選筆 と云うことらしいが、オンやマーと驚いた。
中華街で昼食?と思ったら、21世紀国際書展を教育文化センターに見に行くので、ごく近場で昼食を済ませたいとのこと。教えてもらって行った蕎麦屋さんが大当たりだった。
利久庵という関内駅すぐそば海側の蕎麦屋さん、十勝蕎麦を使っていて、こしのきいたおいしい蕎麦。
我々は夏野菜そばを取ってみた。、そうめん南瓜、南瓜、ジャガイモ、人参、牛蒡、冬瓜、椎茸、うり、茄子をあっさりと味付けしたかどうかぐらいに調理して、そばの上に載せ、更に生の芋茎、そば芽、茗荷、水菜、ネギ
がちょっとづつ載っている。鰹だしのきいた実にあっさりした、上品なそばを堪能した。今日はもうこれで来た甲斐あり。お勧めのお蕎麦屋さんです。
さて、21世紀国際書展、撰者クラスの方々の作品となると、私には、どれがどう良くってと云った、差はさっぱりわからないが、見ていて案外飽きなかった。上の写真に二作品が映っているが、左側のは特別展示とかで、東郷平八郎元帥 87歳の時の書。87歳と思うと、その力のみなぎる様子には驚く。21世紀国際書展の全ての作品は教育文化センターに収まりきらず、桜木町でも展示会が行われている。しかし二人とも疲れてしまったので、関内からぶらぶら桜木町まで歩いて、そこから直ぐ電車に乗り帰ってきてしまった。
2012年7月15日日曜日
田名に新パン屋さん
上田名近く、田名中学校の向かい側に新しいパン屋さんが開店しました。パン食派の我々いそいそと出かけました。
ふにゃふにゃ柔らかいパンじゃなくって、堅めのパンがあるだろうかと覗いてみたのですが、ありました。これは盛りたてて行かないと。
2012年7月5日木曜日
粗悪電池
このごろ、粗悪電池によく出くわす。+-がひっくり返ってるのである。電池で動くおもちゃの電池を取り換えたけど動かないと云って持ってこられるものの中に、電池を調べると+とーがひっくり返ってるのを見かける事がある。しかも起電力は小さい。理科実験支援のモーター授業のために大量に電池を買うと、その中にそういう粗悪品にぶつかる事がある。
先日、お仲間からスイッチを入れると歌うはずのおもちゃを預かった。確かにならない。中の回路を調べるとなると手術が必要かもしれないと思いながら、先ずは電池を調べてみた。4つの単2電池が入ってたのだが、その一つが粗悪品だった。左上の写真、電池の-極にテスターの黒の線、+極に赤の線を取り付け電圧を測れば新品で正常なら+1.5ボルト強を指すはずだが、-0.59ボルトを指している。
電池変えたら動作するかどうか、これから電池を買ってきて調べるが、交換だけで済むと云いがなー。(ちなみに内部のハンダ付けが粗悪で外れやすくなっていたり、プッシュ式のスイッチの接触が悪くなってたりとか、あり得るんですよね)
電池変えれば問題なく動いたなんて話は、もう昔の事のようです。
2012年6月24日日曜日
小山内裏公園
上高地ではありません。小山内裏公園の大田切池です。多摩境近くのスーパーにお供したついでに、ちょっと寄りました。公園のほとんどの地域は雑木林で、動植物サンクチュアリー。人は入れなくなっていますが、主に外側をぐるーっと回ってくることが出来、要所要所に休息が出来るようになっているようです。北側の真ん中あたりにビジターセンターがあって、バーベキューコーナーがあり、3グループが楽しげに過ごしていました。またビジターセンターの前には里山広場があり、若い家族連れが楽しげに過ごしていました。
水が湧き出し、大田川の源流をなし、大栗川と合流して多摩川に流れ込みます。
右は里山広場で見た、タイマツ草。コロコロのバンブービー(?)が2,3匹せっせと働いていました。
さて、”内裏”です。ビジターセンターに入って館員の方にその由緒を尋ねてみました。実はこの辺は、昔から落人が隠れ住んだ地域だそうで、その中に公家さんがいたとのこと。公園の東方にある内裏谷戸あたりに住み、当初は公家谷戸と言われたらしいが、そのうち内裏谷戸と呼ばれるようになったとのことでした。そういえば最近はずいぶん開発されてしまったが、小山田から長池公園あたりだって、平成の初めころは未だ、隠れ里のような雰囲気がありました。
緑豊かで、休息の場所として絶好。きっと紅葉の時期も良い雰囲気になるに違いありません。 お連れがあまり調子よくないようだったので、又いつか来ることにして、長居はせず帰途に就きました。
右は里山広場で見た、タイマツ草。コロコロのバンブービー(?)が2,3匹せっせと働いていました。
さて、”内裏”です。ビジターセンターに入って館員の方にその由緒を尋ねてみました。実はこの辺は、昔から落人が隠れ住んだ地域だそうで、その中に公家さんがいたとのこと。公園の東方にある内裏谷戸あたりに住み、当初は公家谷戸と言われたらしいが、そのうち内裏谷戸と呼ばれるようになったとのことでした。そういえば最近はずいぶん開発されてしまったが、小山田から長池公園あたりだって、平成の初めころは未だ、隠れ里のような雰囲気がありました。
緑豊かで、休息の場所として絶好。きっと紅葉の時期も良い雰囲気になるに違いありません。 お連れがあまり調子よくないようだったので、又いつか来ることにして、長居はせず帰途に就きました。
2012年6月17日日曜日
2012年6月13日水曜日
セザンヌ展&エルミタージュ美術館展@新国立美術館
セザンヌ展の最終日だとて、絵画大好きの人にくっついて行って来た。めったにないことだが、高校の同期生と大学での先輩にばったり出会ったのは驚き。
それはさておき、セザンヌ パリとプロバンスと名打った展覧会。大作こそ来てなかったが、初期、風景、身体、肖像、静物、晩年と分けて整理して展示してあった。初期の作品には、絵具を盛り上げてナイフで削って描いた作品があるのを知って驚いた。サント・ビクトワール山を描いた絵がいくつかあったが、晩年に描いたという一枚はまるで水彩画のように見えて印象的だった。以上は既に終わってしまった展覧会であったが、2階の別の部屋で大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年と題した展覧会が7月16日まで開催されている。何度も足を運ぶのはどうもというので、ちょっときつかったが入場した。大美術館の集めた絵画の内、89点が、16世紀(ルネッサンス:人間の世紀)、17世紀(バロック:黄金の世紀)、18世紀(ロココと新古典派:革命の世紀)、19世紀(ロマン派からポスト印象派まで:進化する世紀)、20世紀(マティスとその周辺:アバンギャルドの世紀)と分けて展示されている。
比較的地味なものが多かったように思うが、巨匠たちの作品もかなり並び、楽しめた。レンブラントの「老婦人の肖像」、ベルネの「死の天使」に強く惹かれるものがあった。ピカソの「マンドリンを弾く女」は初期の作品らしいが、頭部はデフォルメされているが、座っている椅子や背景の書棚や本は一見してそれと分かるように普通に、描かれていて、大変面白かった。
終わったあと近くのデンマーク料理の店で、遅い昼食。スモー・ブローで軽くと思っていたら、私がイメージしてるタイプのは無く、残念。
それはさておき、セザンヌ パリとプロバンスと名打った展覧会。大作こそ来てなかったが、初期、風景、身体、肖像、静物、晩年と分けて整理して展示してあった。初期の作品には、絵具を盛り上げてナイフで削って描いた作品があるのを知って驚いた。サント・ビクトワール山を描いた絵がいくつかあったが、晩年に描いたという一枚はまるで水彩画のように見えて印象的だった。以上は既に終わってしまった展覧会であったが、2階の別の部屋で大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年と題した展覧会が7月16日まで開催されている。何度も足を運ぶのはどうもというので、ちょっときつかったが入場した。大美術館の集めた絵画の内、89点が、16世紀(ルネッサンス:人間の世紀)、17世紀(バロック:黄金の世紀)、18世紀(ロココと新古典派:革命の世紀)、19世紀(ロマン派からポスト印象派まで:進化する世紀)、20世紀(マティスとその周辺:アバンギャルドの世紀)と分けて展示されている。
比較的地味なものが多かったように思うが、巨匠たちの作品もかなり並び、楽しめた。レンブラントの「老婦人の肖像」、ベルネの「死の天使」に強く惹かれるものがあった。ピカソの「マンドリンを弾く女」は初期の作品らしいが、頭部はデフォルメされているが、座っている椅子や背景の書棚や本は一見してそれと分かるように普通に、描かれていて、大変面白かった。
終わったあと近くのデンマーク料理の店で、遅い昼食。スモー・ブローで軽くと思っていたら、私がイメージしてるタイプのは無く、残念。
2012年6月6日水曜日
言葉の大安売り;責任という言葉
”感動”という言葉が大安売りされて、何かというと”感動した”、と言う言葉を聞き、なんだか居心地が悪―イ思いをした時期があった。このごろ少し下火になっているようだ。
感動なんて心の底から揺り動かされた時に使うのじゃないかと思っていたからだ。でもこれは個人の心の中のことだから、まあそんなに気にすることもないと思う。
”責任”という言葉が簡単に使われているように思う。首相が、自分の”責任”で原発の再稼働を決めようとしている。首相は国民の負託を受けて、国の運営を行っており、その双肩には重い責任が掛っていることは確かだ。
しかし、彼が今”責任”を持って実行しようとしているのは、今後大きな問題が起これば、国を滅ぼしかねないことになるかもしれない原発の再稼働である。責任を持つと言っても、後で取り返す事が出来ることと、出来ないことがあるではないか!もし再稼働して、もしものことがあった時、彼はどんな”責任”を取るつもりなのだろうか!!
先の大戦の敗戦で、国を取り返しのつかないほど打ちのめされた状態に導いた、指導者達は、戦争犯罪者として裁きを受けた。
原発再稼働で、もしものことがあった時、彼にはどんなことが待っているのだろう?大事故が起こったとして、おそらく法に触れるということは無いだろう。しかし、大きな大きな不幸に国を導くことになる、彼どんな責任の取り方をすると覚悟して決定するのだろうか?
再稼働しない場合に国にもたらされるダメージが、再稼働して大事故が起こった場合のダメージと同じくらいであると言うのなら、話は別だ。だがそんな話は聞こえてこない。
感動なんて心の底から揺り動かされた時に使うのじゃないかと思っていたからだ。でもこれは個人の心の中のことだから、まあそんなに気にすることもないと思う。
”責任”という言葉が簡単に使われているように思う。首相が、自分の”責任”で原発の再稼働を決めようとしている。首相は国民の負託を受けて、国の運営を行っており、その双肩には重い責任が掛っていることは確かだ。
しかし、彼が今”責任”を持って実行しようとしているのは、今後大きな問題が起これば、国を滅ぼしかねないことになるかもしれない原発の再稼働である。責任を持つと言っても、後で取り返す事が出来ることと、出来ないことがあるではないか!もし再稼働して、もしものことがあった時、彼はどんな”責任”を取るつもりなのだろうか!!
先の大戦の敗戦で、国を取り返しのつかないほど打ちのめされた状態に導いた、指導者達は、戦争犯罪者として裁きを受けた。
原発再稼働で、もしものことがあった時、彼にはどんなことが待っているのだろう?大事故が起こったとして、おそらく法に触れるということは無いだろう。しかし、大きな大きな不幸に国を導くことになる、彼どんな責任の取り方をすると覚悟して決定するのだろうか?
再稼働しない場合に国にもたらされるダメージが、再稼働して大事故が起こった場合のダメージと同じくらいであると言うのなら、話は別だ。だがそんな話は聞こえてこない。
2012年5月28日月曜日
蒔田&弘明寺
この一族の一部が別れ、世田谷豪徳寺辺りから奥沢のあたりまでを領有したようで室町時代には、関東では鎌倉公方(足利氏)、関東管領家(上杉氏)に次ぐ家格を有していたらしい。世田谷勝光院や目黒の東光寺に一族の墓がある。
しかし戦国時代末期になると、小田原の後北条家に組み込まれることになり、横浜の蒔田に城を作って本拠を移し、蒔田御殿と呼ばれたらしい。城跡の丘には横浜英和という学校がたっているが、丘のふもとには竜禅山勝国寺が菩提寺としてなごりを残すこの吉良氏は、江戸時代には蒔田氏と改姓して徳川家に高家として仕え、吉良上野介義央の代で吉良の本宗家が断絶した後は、蒔田氏が吉良に復姓した。
蒔田の地をちょっとブラっとした後、弘明寺に出た。弘明寺は座間の星谷寺と同じく坂東三十三観音の一つで、第十四番霊場であるが、それとは知らず、私は小学校にあがった頃はこの辺をかけずり回っていたのだった。
門前をまっすぐ伸びる商店街も、アーケードつきとなって賑わっていたが、ちょっと東にあった、立派な太ーい欅が無くなってたのは残念至極。
2012年5月21日月曜日
金環日食、雲のおかげで写真
曇天で駄目だろうなーとあきらめてたら、日食眼鏡を持ってゴミを捨てに行った我が君が、バッチリ見えてると下から呼ぶ。
下まで走って降りて、雲のおかげで日食眼鏡なしで見えました。素晴らしいタイミングで雲が少し薄くなり、バッチリ!!
下まで走って降りて、雲のおかげで日食眼鏡なしで見えました。素晴らしいタイミングで雲が少し薄くなり、バッチリ!!
2012年5月18日金曜日
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