2008年6月30日月曜日

横山公園のタイサンボク

昨日、雨に降り籠められてしまって、運動不足。買い物もあって横山公園経由、中村書店、星が丘の文盛堂、ZOAへ散歩。びっしり汗をかくことができた。
横山公園の体育館の向いをふと振り返ると、全く知らなかったのだが、タイサンボクがひっそりと4本も並んでいるではないか。うかつだった。ほとんど終わりかけているが、二本の木には数個の花が残っていた。

星が丘ではOKの作り替えがほとんどおわりそうだ。(写真をクリックすると大きくなります)
帰路、そうだ自転車屋さんに寄ってみようと、上溝廻りで自転車屋さんに寄ってみた。要は自転車のベルの廃品はないかと尋ねることであったが、店のご主人曰く「あれは取り替えるときには、みんな捨てっちまうだよねー」。新品は400円、上のリンの部分だけしか使わないんだったらモッタイナイよねーと一致。また寄ってよ気をつけとくから、と言ってくれたので、お願いして帰ってきた。蒸してたので家に着くなり、じわーっと汗汗汗!

2008年6月27日金曜日

廃物利用でベルを作ってみました

子どもたちと紙飛行機を作る前に、電磁石で遊んで、その後でベルを作ったのですが、ベルが鳴った時のびっくりしたような顔と、そのあとの破顔一笑がなんとも言えません。この気持ちをずーっと持ち続けてほしいものです。
彼らの作品の一つです。コイルは子供たちがそれぞれ全部自分で巻き、部品もねじまわしで取り付け、はんだ付けだけは私がやりました。本当は彼らにやらせたかったのですが。

私は同じものを作っても能がないなーと思い、身近なもので何とか鳴らせられないかと考えました。空き缶、糸鋸の古いもの、遮蔽板に使った発泡スチロール板の残り、あと釘4本、押しピン約10本。電池ケースは上の写真に出ているものと同じものを使いました。買って来てすべて使ったのは、ハードウェアーの店で買ったエナメル線だけでした。空き缶と糸鋸の端っこの取り合わせが悪く、釘の接点と糸鋸がぶつかる音もかなり強く入っています。糸鋸と空き缶の取り合わせが非力でした。

原理的にはまさしくベルですが、来週子供たちに見せたら何というでしょうねー。”オッ”て言ってくれるかな、それとも”ダセー”かな?
後で自転車のベルの蓋を利用して作って見ました。ここをクリックしてください

2008年6月23日月曜日

紙飛行機

小さな第一歩として、近所の子供たちと週一のペースで、夕方に遊んでいます。先週から紙飛行機を作り始めました。今週はもしできたら近くの広場で飛ばしてみようということになっています。晴れるといいのですが。
私もせっかくだから作ってみました。左は二宮康明氏が設計したRacer525で、数枚の紙を張り合わせています。垂直尾翼が機体の下側についてますが、よく飛びそうです。真ん中のは私が以前に、見よう見まねで線を引いて作ったものです。垂直尾翼の上に水平尾翼を載せてみました。仮に権兵衛号です。思ったよりもよく飛んでくれます。右のは折り紙式の紙飛行機で案外飛びますよー。(クリックすると写真が大きくなります)

子どもたちには、沢山の紙を張るタイプはちょっと難しいかなと思ってもう少し簡単で飛びそうなモデルを選びました。先週は悪戦苦闘してました。
細かい仕事を根気よくやることと、工夫するとよく飛ぶんだということを体感してほしいものです。沢山いろんなことに気付いて、私を困らすような質問をしてくれるといいのですが。

2008年6月22日日曜日

テレビドラマの作るイメージの力

篤姫さんのドラマが放映されたが、鹿児島は今和泉でのガイドさんの軽妙な話に思わず噴き出したことを書いてみる。
このドラマが放映されることが決まって、ボランティア―の観光案内が組織され、ドラマが放映されている期間は申し込みに応じて案内するそうだが、以下の2つの話はともに若いご夫婦を案内した時の話とのこと。

1)私が知る限り、篤姫さんの写真は少なくも2枚はある。後家となってからの写真で、髪を下したお姿。宮崎あおいさんは、誰だか区別がつかない、今様の’美人’女優とは一味違うが、綺麗だ。
篤姫さんの実像に接したある若夫婦の第一声「イメージ壊れた―」。
(私は少し斜め前から撮った一枚に、覚悟を秘めたその人の清々しさを感じたのだが。篤姫さんは徳川家にとっては忘れ難い重要人物、その活躍ぶりはドラマで見ることができるのでしょうね~。)

2)「今和泉には篤姫のお父さんの忠剛さんの側室が住んでました」と話したら、別の若夫婦の奥さん「エエー、あんな素敵な奥さんが居たのにー、どうして側室が!」
(そりゃー、樋口可南子さんは美しく、素晴らしい奥方、母親を演じてました。そして実物(お幸の方)もそうだったかも知れませんが・・・。テレビのイメージって影響力強いんですねー!)

その夫が思わず「昔はよかったんだなー」、若妻「えっ!今なんて云ったの」
(一般にお殿様は後継ぎや予備軍をもうけねばならず、側室を持たざるを得ない面もあったのですねー。良かったかもしれないし(内緒)、そうじゃない場合も・・・。男子を沢山持つと、周りを巻き込んで内紛も。養子という手もあったのですが、血筋なんてのも気になったのでしょう。
下級武士の婿入り話は、藤沢周平の小説に沢山でてきますが、厄介叔父にならないために養子口を探すのも大変だったらしいです。
いや、やっぱり今に生きてよかったんじゃないでしょうか)

2008年6月20日金曜日

額あじさい、山あじさい、柏葉あじさい+タイサンボク

我が家から横山公園に行く途中、横山公園、そして相模原北公園で撮ったものをスライドにしました。










額あじさい、山あじさいに加えて最後の2枚が柏葉あじさいです。最後から3,4枚目はヒチダンカで日本原産の山あじさい種だそうで、江戸時代愛されたものとか。今は神戸にしかなく、相模原が分けてもらったものだそうです。北公園で撮りました。

家の近くでついにタイサンボクに出会いました。水曜日午後4時ごろは蕾でした。残念ながら木曜日は見に行けませんでした。行くべきでした。
今日(金曜日)午前10時半ころにはもう終わっていました。写真をクリックすると大きくなります。

2008年6月19日木曜日

ブルーベリー農園

薄曇りの火曜日の朝、田名のブルーベリー農園に行こうという。すぐ近くなので、気軽に出かけた。空は晴れ渡ってはいなかったが、どんよりしてるわけでもない。相模原は本来こんな畑がずーと続いてたのだろうなというような一隅に住宅街と接してブルーベリー農園はあった。








まだ熟してない木もあったが、かなり大きい熟したものを採取出来た。決して安くない。なのにである、わが連れ合いさんは楽しげに採集している。帰ってきて、いそいそとお出かけの用意。
そうか、そうだったのか、一時間かけて娘のところへ届けるのだ。たまには会いたいだろうな~と送り出した。あとでジャムを作ってくれたのは勿論のこと。

丹沢がかすむ相模野の畑。

2008年6月16日月曜日

(伝)野部(矢部)義兼 館址 (上矢部)

(写真を撮り直しましたので投稿します)
上矢部の境川近くに、鎌倉時代のものと考えられる土塁が辛うじて残っています。この土塁は矢部義兼の館の備えの土塁と考えられています。矢部義兼は平安期から鎌倉時代初期、八王子から北相模に根を張っていた武士団、横山党の一族で、野部三郎と名乗りました。和田合戦に参戦して討ち死にしました。










御嶽神社; スライド1)-2)
土塁の北側の方、境橋手前をちょっと西に入った所;矢部氏居館裏鬼門に当たる。神社に鐘楼があるのは神仏混淆のなごりか。

矢部氏居館土塁跡; スライド3)-6)
横浜線矢部駅北口から真っ直ぐ境川方向に進んで右側、上矢部5丁目-1にある。合併前の市域では唯一、明確に(辛うじて)残る土塁。道路側はコンクリートで固めて崩れないようにしてはある。ほんの少しでよい、文化財の維持管理に予算を回せないものだろうか?箱モノを作る予算からちょっと譲るだけですむはずであろう。

薬師堂; スライド7)
土塁の南側の方、上記道路の右側;矢部氏居館鬼門に当たる。図師の長慶寺の末寺。鐘楼はない。

上矢部街道; スライド8)
薬師堂の門前を通る道。境川へ水を汲みに通った道。それゆえ水汲み街道ともいう。

画像板碑; スライド9)-12)
矢部義兼の追善供養につくられたと考えられている。この板碑は丁寧に維持管理がなされていた。

和田合戦; 北条氏を中心とする鎌倉政権は比企氏、畠山氏、小山田氏、梶原氏など政敵や武門の誉れ高い人々を次々と倒していきましたが、その最後の決戦が和田合戦でした。三浦半島の和田氏を中心とする勢力と八王子・北相模の横山党を中心とする連合は鎌倉で北条政権に戦いを挑み、横山党本隊の鎌倉到着が遅れたり、味方のはずの三浦氏に裏切りがあったりして、利あらず敗れました。矢部義兼は横山一族として、和田氏と共に戦ったのでした。京都志向が強かった、源氏も実朝までの3代で終わり、北条執権政治が安定化し、ついには承久の変で京都公家政権を抑え、真の意味の坂東武者の政権が確立したとも言えましょう。
和田氏は坂東平氏の名族、三浦氏の一族でした。三浦氏の行動も一族が生き残るための判断だったでしょうが、結局、後に北条によって滅ぼされています。

2008年6月15日日曜日

高島屋へ古着の寄付(自動車の断熱材などに再利用)

連れが久しぶりに横浜に行こうと誘う。何のことはない、父が残した、あるいは私や彼女が着なくなったウールが入った古着を高島屋に届ける荷物持ちである。高島屋はこれらを自動車の断熱材などの再利用にまわすという。電車賃を出すだけで何の利得もないが、古着をごみとして出して燃やしてしまうよりはましかもしれぬと行くことにした。

「おじいちゃんごめんなさい」と連れが言いながら納めたバッグを持つのは勿論私。届けた後は、ぶらぶら見るのを付き合うのも面倒で、私は椅子にすわり本を読んで待っていた。連れは気がすんだのか少しいい顔をしてやってきて、気前よくアイスクリームでも食べて帰ろうという。

横浜駅をくぐって、そごうを素通りして横浜ベイクオーターへ。港付近の新しい建築群を眺めながらアイスを食べる。建物群はうまく配置され形状も悪くない。
ただランドマークタワーの傍のDoCoMoのビル裏の不細工な高いアンテナ塔は何とかならなかったのだろうか。まったく計画性がない!どうせアンテナが必要となるはず、早いうちから計画を立て、ランドマークタワーと一体化させるて格好よくするようなことを考えるべきだった。役人の先見性のなさか?写真はランドマークタワーもうまく撮れてないが、直ぐ傍の高い鼠色の塔がアンテナ塔。知恵がないなー。

2008年6月12日木曜日

アロエに蕾が

アロエに蕾が出てきました。昨日は気がつかなかったのですが、今夕連れが教えてくれたので早速写真に撮りました。奥の方にも小さいのが顔を出しています。
アボカード(アボカド)には芽が出てきたのですが、残念ながら花芽ではありませんでした。気長に待ちましょう。(二つの写真ともクリックすると大きくなります。)


本日あじさい大学の歴史に出席。原先生は訥々と話されるが、注意してるとユーモアありでなかなか面白い。鹿沼公園にちなむ伝説の巨人デイラボッチは何でこんな名前と思っていたが、「大太良法師」がこんな呼び方になったとのこと。この巨人伝説は東京の代田橋にもあるとのこと。向こうは地名に結び付いてるのですね。

2008年6月9日月曜日

鹿児島(3) 桜島

シリーズの最後です。最終日は朝8時50分からJR定期観光バスで鹿児島中央駅を出発。市内はそこそこに桜島にフェリーで渡り桜島を一周してまたフェリーで帰ってきました。朝8時過ぎで、陽射しも強くないのに日傘をさしているご婦人をずいぶん見かけます。雨でもないのに傘をさすのは降灰か痛いほどの陽射よけとか。多分陽射が強いことを予見したのでしょうね。西郷さん像で始まって大久保さん像で終わるスライド15枚を、もしよければ御覧下さい









鹿児島では西郷さんはやはり特別で、バスガイドさん初めから最後まで”西郷先生”でした。つくづく思ったことは島津斉彬という人の素晴らしさで、人材を育てるのに思い切ったことをしたことに尽きます。2番目のスライドのモニュメント「若き薩摩の群像」は国禁を密かに破って、ヨーロッパに留学した若者たちの像で、オランダ商人グラバーが協力していました。バス観光の後、空港へ移動する前に「維新ふるさと館」に寄ったのですが、西郷、大久保のみならず、ずいぶん沢山の人たちが官民いろんな分野で、明治をリードしたことが分かります。感嘆の念を禁じ得ませんでした。バスはまず鶴丸城の前を通過して城山へ向かいました。鶴丸城と言ってもいわゆる城の形を取らず、館の形だったそうで、人をもって城となすの考えから来るとのこと。城山からの眺めは靄のため遠望は利きませんでした。西郷さんが最後に立てこもった洞窟(スライド3右側)は城山からの帰路にバスの窓から見ました。次に寄ったのは鹿児島の北東に位置する仙巌園。殿様の別邸とのことで、居間から正面に桜島が見えます(4)。それを借景としてと説明されたのですが、京都のお寺の借景を見慣れた者には、エエー!と一瞬思いました。こだわりのなさは大胆で面白く、スケールが大きいです。5番目も仙巌園の殿様の居間のある館。(6)は仙巌園にある反射炉跡でここで大砲も作りました(7)。8番目以降が桜島です。鹿児島港のあたりから桜島を包むあたりは実はカルデラ状をなしていて、桜島は内輪山の意味を持つそうです。桜島はたびたび爆発して溶岩が流れ出し大変だったようですが、8)溶岩に埋もれた鳥居が顔を出しています。9)桜島南側の景色;大正の溶岩流のなごりは緑がかってますが、昭和に出来た溶岩流の跡はまだ茶色っぽい。10)押し寄せてきた溶岩のなごり。11)飛んできた巨大な噴石。12)桜島を後にする。13、14)維新ふるさと館そばで見たマメ科の変わった木;カイコウズ(ナンバンアカアズキ)15)大久保利通像(西郷と袂を分かって明治政府にとどまるが、西郷死後1年とちょっとで暗殺される。西郷からの手紙を身につけていたとのこと)。

2008年6月8日日曜日

鹿児島にて(2)

6日遅くに帰宅しました。知覧平和祈念会館では新たな経験をしましたが、総じて良い旅行でした。知覧に寄った5日は、朝、指宿を出て台風のメッカ枕崎、知覧そして、鹿児島へと移動しました。
スライドはi: ホテルで見た見事なブーゲンビリヤ、ii: JRの最南端駅(無人)西大山、iii: 枕崎の遠望、iv~vi: 知覧の武家屋敷にて、vii: 鹿児島のホテルから見た桜島 です。









朝方は薄靄がかかっていて西大山駅(ii)からみた開聞岳もぼんやり写っています。知覧の街は全体に大変きれいに整備されていて、まず電信柱と電線がないことが驚きでした。この地は上質のお茶の産地としても有名です。知覧も薩摩藩の武士団が統治していたわけですが、その武家屋敷街がきれいに保存され、お庭まで見ることできました。この一帯が野外博物館で、入るにあたって一人500円でした。やはり城下の街らしく道が鍵状になっています(iv)。生垣は犬槇(地元ではヒトツバと呼ぶ)の木です。その下の石垣は左右で違っています。左の丸石のと、右の四角い石で作った石垣は厳然と家格の違いを表すそうで、四角い石の垣は50石以上だったそうです(近くを歩いてた団体さんのガイドさんの説明)門を入っても直接には玄関に行かぬようになっています(v,vi)。面白いのは厠が門の傍にあったということです(v)。午後4時ころには鹿児島に着きました。ホテルの窓から見た桜島は右の南岳が蒸気を発している筈ですが、見えているのは雲なのか、煙なのかよくわかりません。さすがに南国午後7時ころでも真上の空は青みがかって明るいのが印象的でした。

2008年6月5日木曜日

鹿児島にて

こんばんは。当地での出費だけで済ますことが可能と言う計画が出来たので、思い切って4日の早朝に出発して、12時少し前には鹿児島空港に着きました。その足で指宿へ行き、一泊し、今朝、枕崎から知覧を廻って、現在鹿児島に居ります。初日と、本日知覧の特攻平和会館で強く感じたことを記します。4日朝は曇っておりましたが、安定した飛行の窓から富士山が雲から頭を出すのが見えました。鹿児島空港から指宿、山川への直行バスに。杉の植林が盛んであった様子が良く見えました。案外目立ったのが、槙の木で生垣や街路樹に使われていました。勿論ハイビスカス、ブーゲンビリアや色んなヤシの類も目立ちました。指宿の少し手前の今和泉でバスを降りました。そう、篤姫さんの生まれ故郷です。
ボランティアーのガイドの方の軽妙なお話を聞きながら約1時間半町を巡りました。もともとは熊本との境を固めていた出水(いずみ)島津家が途絶えたのを惜しんで、再興して立てた家が当時の”今”をかぶせて今和泉とし、知行地を指宿の近くに定めたそうで、屋敷跡は今和泉小学校になっていました。写真の階段は裏門から浜辺に出るところで、この石垣は実は更に2メートル下まであり、道に隠れてるのだそうです。この裏門の真正面の対岸に雲を深々と被った櫻島が見えてました。
篤姫のお爺さんの隠居所跡地には武家の子孫が今でも住んでおられるとのこと。田の神様を見たり、今和泉島津家の墓地を巡って今和泉駅に戻ると、ちょうど列車が着たので、乗って指宿まで。ホテルでは砂蒸風呂に入りましたが、暑さがジワーと体を包み、足の裏までカーとしてきて、大変気持ちがいい、しかし約10分強で逃げ出すことになりました。
今日は朝九時から出発したのですが、その話は別にして、知覧の特攻平和祈念会館で感じたことを鮮烈なうちに記しておきます。この会館に近づくにつれ、気持ちは重くなって行きました。中では会館の壁に沿って出撃者の顔写真と書き残されたものが、出撃の次数に従って展示されていました。そのほかに飛行機や軍装等々。最初の展示枠で、辞世の歌や遺書その他を読み進むにつれ、眼鏡に水溜りが出来、読むのが難しくなりました。純粋な気持ちで書かれたものと思うだけに、堪らないものでした。あと10数個の同様の展示枠は写真を見るだけにしました。深い感動を覚えたのは事実です。でもその後にこみあげて来たものは強い怒りでした。何の見通しも無いまま、ずるずるとなすところ無く戦争に入って行き、或いは煽り、果は御聖断を仰ぐまで明確な指針を出し得なかった、無責任極まる人達が、或いは一団が更にこのようなことまで命じていた。そのこともまた事実だと思います。この記念館の大切さを心に刻みましたが、外に出て、特攻平和記念館の写真は撮る気がせず、胸に深く納めることにして、その場を辞しました。

2008年6月2日月曜日

わだ坂

亀が池八幡宮の北側のT字路の傍を斜めに番田から上溝駅の方へよぎる道があります。この道は今は一応舗装されていますが旧道であったようです。斜めの道を姥川のほうに進むと緩やかな下り坂になります。その根元にわざわざ「わだ坂」と言う道標があります。この坂の行く手には姥川を渡る藤橋が架かっていますが、これ今はコンクリートの橋ですが、もともとは藤の蔓を用いた橋だったそうです。(右の写真をクリックすると大きくなります)
伝承に曰く、源頼朝~実朝までの鎌倉幕府において初代侍所別当だった和田義盛が藤を用いて渡ったとか。この坂にそって、大榎があってそれを和田榎と呼んでいた、それゆえこの坂を和田坂と云っていたとのことです。私は大榎には気づいていません。「和田榎」の由来には荒唐無稽の話がありますが、省略します。亀ヶ池八幡宮にも和田義盛が武運長久を願って参拝したという伝承があるようです。和田義盛は自身だけでなく嫡男も横山党から嫁さんをもらって、絆を結んでいたので、この周辺に実際に姿を現したのかもしれません、あるいはと言うより多分、和田義盛に心を寄せる人たちがここに住み、言い伝えてきたのでしょう。この溝の地域には、和田合戦のあと、北条の被官だった横溝五郎太夫と言う人が御家人となって、丸山(横山公園のあたり)に居館をたててしばらくの間ここを治めたといいます。きっと北条にとって上溝の辺りは重要拠点だったのかもしれません。それでもこの伝承は守られたというのはどういうことなのかなーとふと思うのです。
(参考資料は「相模原の史跡」座間美都治著)

2008年6月1日日曜日

ウツギだったようです

5月27日付けのブログで県立相模原公園の駐車場そばで見た、名前が分からなかった白い花はウツギだったようです。もう一度アップします。
ウツギと名のつく花は4種類の科にわたっているみたいですね。ウツギはユキノシタ科に属します。ユキノシタはアジサイの仲間ですから、花の仲間がかなり広がるのですね。いつだったかOさんが見せて下さったニシキウツギはスイカズラ科だそうで、ユキノシタ科とスイカズラ科がウツギの名がつく花の属す科の有力どころだそうです。
”卯の花の 匂う垣根に 時鳥 早も来鳴きて 忍び音もらす 夏はきぬ”(佐々木信綱)
ウツギの花の名前の由来も諸説あって面白いらしいですね。