2023年3月23日木曜日

WBCに思う;栗山という大監督

今年のWBCの決勝は最終回の最終打席にトラウトが立ち、投手大谷と対決するという全く夢のような場面だった。 大谷がトラウトに速い直球で空振りさせた後、スライダーで空振り三振を取り、劇的な勝負にけりがつき 日本が優勝した。

若いプレイヤーが躍動していた。若い投手陣がアメリカの強力打線をねじ伏せた。 不調をかこっていた村上が最後に本来の力を取り戻した。いやあえて言えば打撃技術は取り戻した。 しかし彼はこの間にさらに今までより大きなものを心の中につかんだに違いないと思う。

このWBCで栗山監督が第一の目標としたことは、優勝ではなく、若い人の目を世界に向けさせ、世界に向かって 羽ばたけるよう、大きく育てることではなかったろうかと感じている。うまくいけば優勝はついてくると。 そのように考えて腹をくくってプレイヤーの陣容を作った。
ダルビッシュを中心に投手サークルが出来、大谷、吉田(鈴木がいれば彼も)が打撃陣を引っ張る。選ばれなかった 人たちの中にヌートバーより技術的に優れた人がいたかもしれないが、彼の参加はムードメーカーというだけ でなく、若い選手の目を世界に向けるという隠れた役割を監督が目論んだに違いない。果たして、ヌートバーは 若い選手の中に溶け込み、言葉とか文化の違いで引っ込み思案になりがちの若手の心をほぐした。

栗山氏の狙いは見事に結実し、若い人たちが躍動した。日本の野球に対する世界の目もかわったであろうが、 それよりも何よりも、若いプレイヤーの意識の中で世界との距離感は縮まったに違いない。
開拓者野茂以来徐々に日本を飛び出して活躍するプレイヤーが増えているが、 サッカー同様、より多くのプレイヤーが世界にはばたく日はそう遠くあるまい。

栗山監督の人物の大きさに敬服する次第である。

2021年11月16日火曜日

思い出の中の二刀流プロ野球プレイヤー

昨年93歳で亡くなった関根順三さん。日本球界の話だが、オールスター戦のファン投票で、投手と外野手の両部門で同時に第一位に選出された最初の人。
大谷翔平君のようにホームランバッターではなかったが、自分のヒットで勝利投手になったなんて話を読んだか聞いたかした記憶がある。
残念ながら近鉄(今の楽天の前身球団)と云う弱小球団に属したこと、ホームランバッターではなかったので、あまり目立たず、語り継がれていないが、ピッチャーで中軸を打つプレイヤーとして素晴らしいプレイヤーだなと思っていた記憶がある。川上の読売ジャイアンツ監督としてのV9の最初の年、彼はジャイアンツに外野手として招かれて、活躍した。そして引退後、幾つかの球団にコーチや監督として招かれ、多くの優れたプレイヤーを育てた。野球の殿堂入りを果たしている。
大谷君の凄さには到底及ばないように思うが、昔、こういう人がいたことを記憶しておきたいものだ。
私には野球界が二刀流を永い間封印してきたように見える。大谷君が二刀流をやるとチャレンジを始めたころ、やめときゃいいのに、何やかんやネガティブなコメントをした重鎮と目される人たちがいたが、だいたい、高校野球でピッチャーで4番バッターなんてことはざらにあること。このような才能の人が(強靭な体力を要するでしょうが)チャレンジしたらいいのではないかと思う。大谷君とその背中を押した日本ハムの前監督、栗山氏に敬意を表しつつ。

2021年10月20日水曜日

鉛筆まで消毒、そして持って帰る??

投票所で使う鉛筆を消毒して渡し、持ち帰るようにする?????
信じられません。鉛筆を消毒するための人件費、時間、鉛筆を投票者の人数分買う費用も無視できないほどの額のはず。無駄な金を使わないでほしい。鉛筆は共有し、使用後の手の消毒は各自がやるので十分ではないか!!!
こういうのは自己責任で良いのです。

2021年10月16日土曜日

「KYな人」

もう古臭い表現になってしまったが、「KY」という文字が人々の間ではやった時期がありました。「空気を読む」というやつです。いやなフレーズで、嫌いでした。まさに「同調」者のベタベタした感じがして嫌いでした。私は自分の名前(苗字ではない)にちなんで、E-メールアドレスなどに、KYを時々使います。気持ちは「空気を読まない」のつもりで。
現役の頃の話ですが、授業が終わってから良く質問に来る学生がいました。時にとても良い質問で、他の学生達も共有出来たら良いのにと思い、「良い質問だと思うので、他の人とも共有したかったね、質問は出来るだけ授業中にしてくれないか、他の人にとっても参考になると思うんだが。」と促したのですが、彼は拒否しました。目立つからいやだというのです。彼は空気を読んだのでしょう。でも社会の改善へのほんのちょっとした一歩にも寄与してくれませんでした。すごく残念な気持ちになったことを思い出しました。
子どもの世界のいじめも、同調者同士が群れて、群れに馴染まない異質な人を疎外し傷つけたりするということのようです。質的には上記の事と同じなのかなと思います。

我々の社会はどうも、異質を嫌う傾向が強いようです。でも異質は社会にとって、とても大切だと思うのです。異質な存在があると、多くの人が気付かない別の観点に気づく可能性が多くなるはずです。
何度か紹介したことですが、「アリの世界の話で、働きアリの軍団とは別に何処をホッツキ歩いている分からないようなはずれ者のアリがいる集団の方が、優秀な働きアリだけの集団よりも栄える」というコンピュータシミュレーションがあります。ホッツキ歩いているアリが、セッセとエサを運ぶ働きアリと無関係に新しいエサの在りかを見つけてくるというわけです。

少しづつ社会の様子は変わりつつあるようですが、少しでも早くオープンな風潮の社会になってほしいとつくづく思います。特にイジメによる悲話を聴くたびに強く思います。大人がオープンな心で接する社会を形作ろうと努力し、身を持って子ども達を教育していくしかないのではないかと思うのですが。

2021年10月7日木曜日

内橋克人 未来への遺言を視聴して

少し遡るが9月23日にNHKTVによる「追悼 経済評論家 内橋克人 未来への遺言」という25分番組がありました。氏の若いころからの活動の軌跡が25分に纏めてありましたが、幾つか心に残る言葉がありました。

「人間復興の経済学」、現在社会に吹き荒れている市場原理主義=新自由主義からの脱却です。社会がそう云うことが無理なく出来る状況で無いのに、自己責任という言葉が先走っていることに私自身腹立たしい思いがしていました。

「人間の命のために経済があるのであって、経済のために人間の命があるのではない」と表現されていたと思いますが、上の話と関連して印象に残る言葉でした。

「習熟し、深く知ることから、新たな発想、創造する力がでる」ネットを通して、一日毎に契約して、それ毎に仕事をこなす、一日契約社員の在り方への警鐘です。これは効率的かもしれませんが、習熟は失われます。そう云う社会状況は社会の実力を下げるだけといえるでしょう。このような形態が若い層に浸透していくことは大変危険で、未来社会の姿を思い浮かべるのが怖いぐらいです。

NHKが最後に選んだ言葉は
「頂点同調主義への警鐘」社会の先頭に立ってる人(頂点)の言うことへ疑問を述べる勇気が中々出ない、頂点へ同調してしまう心です。これは戦前に在って、この心の傾向が戦争へ突き進むことを許してしまったわけですが、果たして戦後今まで、変わっているでしょうか。戦後もずーっと頂点同調の傾向は相も変わらず我々の中に在ると思います。異議を述べることを恐れる心、異質であることを恐れる心、これを脱却しないと、もと来た道を歩むのではないでしょうか。
権力の側には立たず、何時も背筋の通った話をしておられた、内橋さんならではの重い遺言ですね。心して常に社会の在りように流されず、おかしいと思うことはおかしいと言う勇気を持たないといけないとつくづく思いました。そうしないといつまでたっても、日本人は学ばないと云うことになってしまうと思うのです。「戦争は嫌だ」と言うつぶやきはよく聞きますが、言うだけでは力にならないと思います。頂点に同調しない強さが問われているのだと思います。

さて、折も折、岸田新首相は「新自由主義からの脱却」を標榜しました。時機を得た発言とも言えます。ちゃんとやってくれるかどうか、池田勇人さんのようにちゃんとやるかどうか、我々はしっかり見張りましょう。

古い人の名前が出たのでついでに、池田勇人さんの少し後に首相になった佐藤栄作さんは退任するとき、記者会見をして、自分の実績、経済的繁栄を誇りつつ、それでも社会にある不満に苛立ち
「繁栄の中の貧困感」と社会の状況を評しました。私は違うと瞬間に思いました。人々の心はちっとも豊かになってない。佐藤さん間違ってるよ、「貧困の中の繁栄感」だよと思いました。
岸田さん、「人間復興の経済学」を実践してくれますか?

2021年10月3日日曜日

首相がまだ決まってないのに!

衆院は未だ開かれてなく、首班指名も行われてないのに、TVの速報で「xxxx氏のyyy相での起用が固まる」なんてやってる。自民党総裁は決まったのだから、首相も決まったようなものだけど、でも未だ正式に決まったわけではない。なのに、yyy相内定とはこれいかに???
自民党の中で、総裁が首相になったら、xxxxさんがyyy相を担当すると、決めるのはおかしくないけど、表に出すことではないと思う。決まったようなものではあっても、緊張感はしっかり持ってやってもらいたいように感じる。自民党の奢り、弛みはちっとも改まってないし、それを容認して放送してしまう、TV局の緊張感のなさにも困ったものだ。
けじめと云うか、慎みと云うべきか!

2021年9月28日火曜日

ブレークスルー

最近メディアでブレークスルー感染なる言葉が流行っていて、すごく戸惑っている。
ブレークスルーって元の英語で書けば、breakthrough、何か困難や障害を突破する事を表す。 例えば研究開発において、前に進めなくなった状況に、新たな局面を見いだせたようなときに 使うものと思っていた。
ブレークスルー感染とは何ぞやと思って、ネットで調べたら、新型コロナウイルス感染症においては、ワクチンを接種して、十分な免疫が獲得できた後でも感染する可能性があり、それを「ブレークスルー感染」と呼ぶのだそうである。
そうか、私はbreakthroughの主語を人間にのみ固定していたが、医学の世界では、ウイルスさんを主語に考えたのか。ウイルスがワクチンの防御網を打ち破って人を感染させることを指して言ってるのか!でもなー、breakthroughって画期性を感じる肯定的な感覚で使いたいのに、ウイルスさんに軍配をあげるようなことに使ってほしくないなー。
我々の仲間内で、この頃やたらにカタカナ語が横行してる事への違和感が語られた。昔、戦時中に、敵性語なる言葉で、敵の言葉、英語を用いることが憚られた時期があったが、そんな感覚で言った話ではない。なぜ、「ワクチン接種済み感染」てな直截な表現が出来ないのだろうか。確かに 「ワクチン接種済み感染」とか「ワクチン接種後感染」と言っても、ウイルスに軍配を上げる言葉だけど、医学界はブレークスルー感染なる言葉で誤魔化したいのかなーなんてかんぐりたくなる。
後記)英語でもbreakthrough infectionと立派に使われているらしいですね。「打ち抜き感染」と訳してるそうです。