2011年6月28日火曜日

野中広務氏の言葉

社会が混乱し、それにまつわるいろんな事象にかまけて忘れかけていた事に、国旗、国歌にまつわる処罰問題がある。6月28日の朝日新聞の争論と言うページに”君が代起立条例”が取り上げられ、野中広務氏と橋下徹氏の意見が掲載された。前者は条例にX、後者は条例にO。
野中氏と言えば、今は引退しておられるが、あるときは自民党、国政において中心的な働きをした人である。いろんな評価があるであろうが、私には氏が発した今も忘れない、一言がある。どういう問題を議論していたのかもう覚えていないが、「大政翼賛会のような事になってはならない」という趣旨の言葉だった。当時の権勢意のままに政治を手繰っていた自民党の重要人物の言葉だっただけに、忘れないのだが、このページにおいても、一貫した氏の意見を読むことが出来た。
一方、条例を推進する、橋下氏の議論はルールを軸にし一見目をひくが、実は底の浅い議論のように読んだ。

野中氏の意見は”「起立せなんだら処罰する」なんてやり方は権力者のおごり。教育者を処罰してまで従わせようというのは、国旗・国歌法の制定に尽力した者として残念です。”で始まる。国旗・国歌に関する法的根拠がないことが論点となって、教育委員会と教職員組合の板挟みとなり、ある高校の校長が自殺した。当時の官房長官として、氏は義務や罰則のない「国旗は日章旗とする」、「国家は君が代とする」という二つの条文からなる法律を作った。
野中氏は学校で国旗・国歌を教えて自然に浸透していってほしい、が、強要する筋合いのもんじゃない。各地の教育委員会が起立する、しないで教職員の処罰を繰り返していることを不本意と思っていると述べている。

実際、日本はアメリカ合衆国のように多民族が集まって暮らす国の場合と違っており、無理やり国旗に向かって起立させなきゃならない社会的事情があるのかどうか、自然に郷土愛が育まれて行くような教育は重要のように思うが。

昭和の初期の暗い戦争の時代に強く裏切られた思う人たちの中には日の丸・君が代にたいして、負の感情を抱く人がいることに、野中氏は思いをはせる。氏の中には、あの戦争の暗い記憶、国民が一色に染め上がってしまうようなことに対して、受け入れがたいものがあるようだ。「大政翼賛会のような事になってはならない」の発言と一致している。

野中氏は”日本人は一色に染まりやすい。小泉改革の時も、民主党が政権をとった時も、国中が熱病に侵されたようになってしまった。分かりやすい敵をつくり、徹底的にたたいて支持を広げるポピュリズム政治がはびこる土壌がある”と指摘する。
氏の議論は政治と教育にも及ぶが、それは置いておこう。

最後に、この条例に対して”決して些細なことだとは思はない。誰が立たなかったかチェックするなんて、そんな社会は嫌だねえ。橋下さんは発信力の強い人だけに、日本全体が悪い方向に変わって行かなきゃいいがなと心配してます。”と結んでいる。
全く同感です。こういう混乱した時期だからこそ、このご意見は大変重要と思ったしだい。

2011年6月22日水曜日

京への期待、ソフト開発者への期待

前首相が首相時代にのり出して、事業仕分けで凍結された予算を復活させた、ス-パ-コンピュ-タ-京、来年完成予定だが、今年の段階でダントツの世界1位の処理速度を実現して見せた。日本の技術力に改めて大きな喜びを感じた。でもまだ手放しで喜んでいるわけにはいかない、これからはこのマシンをどのように活かすか、もう既に十分な準備をしていることであろうが、各研究分野における科学者、ソフトウェアー開発者の力が試される。世界にはすぐに、京を追い抜くぞという開発が進捗しているのだ。

計算機の処理速度には当然、電流の速さもかかわる。しかしこの速さはどんなに抵抗の小さい物質を作っても、光の速さを越えることはあり得ない。一つの処理機には自ずから限界がある。限界を越える手法として沢山の処理機を並べて同時に処理する並列処理が考えられ、今のスパコンはどれも基本的にはこの手法をとる。

もし、一つの処理機で与えられた分担処理が他の処理機の計算処理と無関係に処理しきれるなら、タダ沢山並べればいいじゃないという事になるが、一般にはそんなわけにはいかない。一つの大きな計算問題、例えば気象の問題で、地域を切り取って一つ一つの処理機になすべき計算処理を分担させるとしても、一つの地域に関して、他の地域の情報なしには正しい計算は出来ない。処理機の間のコミュニ‐ケーションの速度とコミュニケーションをとるべきタイミング(例えばある処理機の計算が終わり、データを受け渡すまでに、他の処理機の待ち時間の長さが著しいと、並列処理の効率はひどく落ちてしまう)が大問題となる。処理機の間のコミュに‐ケーションの速度は計算機開発の側にゆだねられるが、後者は如何に効率良い算法(アルゴリズム)を用いて、処理プログラムを書くかということに尽きる。

計算機科学の各分野(気象だけでない、宇宙、天文、医薬品なども含むいろんな物質科学、生命科学、等々多岐にわたる)に従事する研究者のアルゴリズムに関する研鑽、開発力に大いに期待したい。処理プログラムが出来れば、それをどんな問題を対象とするかを計画して、計算を実行する人たちの存在も勿論重要になる。しかし、よりよい成果がどれだけ早く取り出せるか、言わば井戸を掘る人達(処理プログラムを書く研究者、ソフト開発者)の発想力にかかっている。

3,4年前になってしまうが、ある分野の、ある方法に関して、計算処理理論を作り、実際に並列処理プログラムを書き、その問題については世界最速のプログラムを書いた者として、若い人たちの活躍に期待し、胸躍らせている。

2011年6月16日木曜日

四国にて4

終わりに、高知の街を。着いた10日の午後は今にも雨が降りそうな様子。五台山の展望台からちらっと周りを見て、一休みして四国霊場第31番札所の竹林寺へ。本堂の文殊堂は改装らしく、ほろをかぶっていました。ほろをかぶってないと右のようになるようです。本尊の文殊菩薩に理科で遊ぼう会の試みが何らかの効果をもたらせるよう見守りをお願いして隣の牧野富太郎博士を記念する県立の植物園へ。
この植物園、山の中のすり鉢状になったような所の上辺に温室や展示室などを配して、その内側に花、樹木を配すると言う按配になっています。翌日から、新たなイベントが催されるようで、職員が忙しく立ち働いていました。園の中心に牧野博士の銅像、その周りに花壇が沢山配してありました。雨にぬれてとてもしっとりした雰囲気で楽しめました。ゆっくりひと時を過ごすには良い植物園です。(上の写真2枚、クリックすると大きくなります)
中を歩いていて、タイサンボクに似てるが、花がだいぶ小さい木に気づき、そばに行って説明を見たら、ヒメタイサンボクとのこと(クリックすると大きくなります)。

最終日も午前中は雨模様、でも予約してあった観光バスに乗る。運転手さんと、ガイドさんと我々二人のみ。超贅沢観光バス旅行。桂浜、竜馬生誕地等を見てきました。桂浜では雨がしょぼしょぼ降っていましたが、構わずぶらっと浜を一周。
竜馬の像は太平洋のはるか彼方をじっと眺めているがごとくでした。去年の放送では、彼が切られる前に、家族や仲間と一緒に船で世界を回るなんてことを言っていましたが、この像を見ていて、彼は本気でそう考えていたのだろうなーと言う気がしてきました。大政奉還が成った後、もし生きたまま国内にとどまっていれば、彼は間違いなく、政略、権力争いに巻き込まれたことでしょう。でも彼は権力争いからは対極にいた人。そのままだったら不幸になったに違いありません。明敏な彼の事、キット気付いていたに違いないのです。残念ながら船出することかなわず、切られてしまいました。権力争いからはまぬかれはしましたが。
最後に、三大つまらない所の一つ、はりまや橋を裏横から眺めた写真と、なかなか面白いひろめ市場の写真を。
ひろめ市場では昼食をとりました。中にはいろんな食品をサーブする店がいろいろあって、各自思い思いに気にいったものを買ってきて、用意されてるテーブルで食べることが出来る仕組み。我々はおすすめの明神丸の行列に並んで、カツオの塩タタキ定食(タタキとご飯とみそ汁)二人分+ウツボのてんぷらとアオサのてんぷらを一皿づつ取って分け合いました。カツオが新鮮で脂が乗っていて、たれをつけて焼くなんてことはせず、塩を振って藁の火で焼いてくれます。それにゆずが入ったたれ、塩、ニンニクを好みに合わせてちょっと振り、ご飯と食べるのですが、今回の旅行で最高のご馳走でした。ウツボのてんぷらもなかなか美味。
夕刻、空弁を買って飛行機で帰ってきました。

2011年6月14日火曜日

四国にて3

四国は歴史的には群雄が割拠して、なかなか統一されにくい土地でした。地形が影響してると思います。豊臣秀吉が関東以南を抑える直前に、ようやく四国全土をまとめたのが、高知を拠点とした長宗我部氏。それをゆるさじと統治に乗り出したのが秀吉でした。堺を拠点として四国に出て行くのですが、かなり難渋したらしく、”太閤が四石(四国)の米を買いかねて今日も五斗買い(御渡海)明日も五斗買い(御渡海)”なんて狂歌が堺の街に張り出されたらしいですね。
それはそれとして、徳川時代に高知に入って、高知城を造り幕末まで続いたのが山内家。去年上士とか下士とか言ってましたが、坂本竜馬らの下士は一般には長宗我部家の家臣から続く人たち。
松山は最初秀吉配下だった加藤嘉明が入り松山城を造り始め、直ぐに会津に転封され、そのあとに入ったのが蒲生氏。でもすぐに絶えてしまい、そのあとに入ったのが、徳川家康の異父弟(離縁された家康の母が久松家に嫁して生まれた子)久松定勝の子、定行が久松松平氏として松山に入り、その家が幕末まで続いた。

松山についた翌朝、天主に上ってみようとリフトの方に歩いて行くと同年輩の男性に呼び止められ、ボランティアで城を案内してるとのこと、お願いした。松山のことだけでなく関連する土地の事もよく調べておられて、説明を聞くのが大変楽しかった。引退後の話にまで話が弾んで意気投合、最後はお茶屋さんで一緒に一服。それはそうと天主閣はなかなか立派な構造で、すっかり山城と思っていたら、三の丸は平地にあって川と掘と山に囲まれている、二の丸は山の中腹にあるとのこと。
高知城は松山に比べるとこじんまりしているがかっこは良い。追手門と天守閣がピタッと一緒に写真に収まる。雨が多い土地柄、城壁には石の戸井が飛び出していて途中から水を吐き出す形にしていた。


松山は四国で一番大きい都市だが、高知は3番目か4番目。でも何かと対抗している所がうかがえた。両方とも路面電車が走っている。各地で不要となった電車を購入して使っているが、ヨーロッパの街で走っていた車両も両市で見かけた。上は高知、下は松山。


松山では俳句甲子園と称して、俳句の投稿を呼びかけていたが、高知では短歌の投稿を呼び掛けていました。面白いですネ。

2011年6月13日月曜日

四国にて2

「あなた何書いてんのよ間違ってるでしょう。」四国1を読んだつれあい殿の指摘。そう高松でなくって高知でした。「牛にひかれて・・・・・の気持ちだから間違うのよねー」ですと。
私にとってはそれなりに癒しの旅だったのだが、計画は全くおんぶでした。
さて、道後では道後温泉をゆっくり楽しみました。2階でひと涼みして、ホテルへ帰り路、商店街を歩くと”竹屋”というお店。いろんな竹細工を売っていた。笛を売っているのに気づいて早速吟味。いずれも8本調子の横笛。4千円級は作りもきれいだし音色もいいが、音階がいまいち。2千円級はちょっと音が軽いかなと思ったが、音階がかなり確かなのを見つけ、それを買った。写真手前は自作の、後ろが今回購入のもの。ツートーンカラーだ。上手に塗れない私は表も筒の内部も透明のカシューで逃げている。

二日目は午前中松山城を見て、午後、特急列車で宇和島、そこからバスで宿毛へ向かった。宿毛は夕焼けが綺麗な土地だそうだが、夕焼けにはちと早い。駅舎で海産物や野菜果物を売っている。この土地から時々文旦を取り寄せているが、そんな話をしながら海産物の解説をしてもらい、ちょっと買い物。別れ際にお店の人が、食べて下さいと、果物3個持たせてくれた。物がほしかったわけではないが、とても楽しい気分で、有難く頂戴した。宿毛から列車で中村(いや、今や四万十市となった)へ出た。
海辺を見る機会が多いと思いきや、松山からずーっと、ほとんど山また山である。翌日の中村から高知までも、海辺よりも圧倒的に山また山だった。
それにしても、太平洋側の何とカラッとした気候であることか。瀬戸内海側の松山は蒸して温度も高かった。

中村に一泊して、翌朝四万十川の舟遊び。直前の雨で水は少し濁っていたが、水量豊かでゆったりと水が流れていた。
沈下橋といって、出水時には川面に沈む。橋には欄干がない。
急峻な山々から流れ出る沢山の支流からの水を集めるので、豪雨の時は大変らしいが、一方でこの川は地域に多大の恵みをもたらす。
30cmぐらいの魚が跳ねる。ボラだとのこと。海から上がって来ているのだ。左の写真に映る淵のあたりは水深20mとか。


最後に高知駅のモダンな姿を紹介しよう。ヨーロッパで見たような感じである。木製で採光にも工夫がされている。

2011年6月10日金曜日

四国にて1

実は、6月8日から11日帰着の予定で四国を旅してます。
8日お昼頃松山空港着。午後松山の真ん中あたりから道後まで歩くプログラムに参加、と思ったら我々だけ。9日午前中松山城の本丸を見せてもらい。午後中村まで移動:松山-((特急列車))-宇和島(ここは残念ながら素通り)-((バス))-宿毛-((列車))-中村。
10日午前中四万十川で舟遊び11時ごろ特急列車に乗って高知へ。この移動で四国は山また山の土地で、昔は移動が大変だった事だろうと思いました。今でも宇和島から中村へ移るのに列車を使うと遠回りで、バスの方が良いという具合でした。

初日の松山-道後walkをかいつまんで。この町はまさに「坂の上の雲」一色でした。




左上の写真は松山-道後間を走っていた列車を引っ張っていた機関車が展示されてました。この町そして高知では路面電車が今も活躍しています。坊っちゃん列車と称して、上のような機関車を模した列車も走っていました。右上は秋山兄弟生誕地にある道場の庭に建てられた兄、好古の騎乗銅像。城の搦め手側にある徒組の居住区にありました。陸軍大将を退いて後は、松山で中学校の校長をされたとのこと。
中左:道後温泉の湧き出し口に使った湯釜が道後温泉の直ぐそばにあった湯築城址北側に展示されてました。中の右;子規展が行われてました。そして5番目の写真;道後の街の入り口にからくり時計塔があり、人形が姿を現して時を告げるとのこと、その足元に足湯があって、若い人たちが一休み。

再び秋山兄弟生誕地の写真です。今度は弟の秋山真之のこと。左の写真はその胸像で上の兄の騎乗の像に対峙して立っています。そしてこの部屋に真之の揮毫が掲げてありました。真之は兄より先に49歳で逝去しました。感銘を受けたのは兄、好古が次のような内容のことをいっておられたということでした。:”弟に関して兄として誇るべきことは何もない。しかし、ただ一つだけ申し上げたいことがある。それは弟は常に日本のことだけを考えておったということです。”胸に迫るものがありました(兄の弟への哀惜の念もふくめて)。

2011年6月9日木曜日

魚肉ソーセージ作り@大野南公民館

今年に1月に魚肉ソーセージの実験会を会員だけでやったのですが、子供たちの興味の動向とどんな説明の仕方がいいか、どんなことに注意を要するか、ということに着目する内部実験会を会員の知り合いのお子さんを招いて行いました。小学中学年から高学年の女の子ばかりでした。どんな風につくるのか、子供たちの興味を引き付けたようで、一緒に参加した保護者の方、我々の会員も、講師のTさんの話を一生懸命聞いていました。子供たち、お互いにコミュニケーションをとりながら、真剣に手を動かしていました。

詳しくは会員の方が理科で遊ぼう会のwikiに書いてくれた報告(クリックしてください)のニュースのページをご覧ください。

 


講師のTさん、手ごたえを感じたようでした。こうゆうこじんまりした実験会もいいなと感じた次第です。

2011年6月3日金曜日

呟き

何時から、首相たるにたる人が不在の国になってしまったのか。今度のことを見ても、
菅:国を守るのでなく自分を守ることのみ頭にあった。
鳩山:自分が勧進元になって作った民主党を守る形で自分を守った。この人が首相だったのだ。
小沢:これにいったっては権力回復しか頭にない。相手にする必要ない。
谷垣:過去の自民党の施政に関して、党首としての自己批判を聞いたことがない。それゆえ当然のことながらどう日本を導くのか表明できていない。不信任案が可決したとしたらどうするか準備もないまま突き進んだ。首相たる人材とは思えない。

わが国には、もう何年も真の意味の首相は長い不在だったのかもしれない。小泉氏はちょっと長く続いたが、自民党をぶっ壊すと言ってそれをするのが関の山だった。
我々は覚悟せねばならないのだろうか:国民の地力でこつこつとやっていくしかないと。なし崩し的に何かが出来上がるかもしれないが、それは無計画のままに構築された姿として出来あがるのだろうが!

気をつけねばならない!!!”ヒットラー"が現れないように。