2011年12月31日土曜日

「理科」で歴史を読みなおす、伊達宗行(著)

昨日の何処かの局のモーニングショーで、五木 寛之 (著)の「下山の思想 」(幻冬舎新書) が紹介され、関心を持ったので、郵便局へ行った帰りに本屋に寄って探したら在庫がないという。相当売れているらしい。本当は店頭でちょっと眺めて見たかったが、こりゃネットで注文することにせねばと思いながら、ぶらぶら眺めてたら、表記の本が目に飛び込んだ。ちくま新書:「理科」で歴史を読みなおす、伊達宗行(著)である。

伊達先生と言えば、私が修士の学生として、研究らしい事を始めたころ、既に東北大で磁性に関する研究を引っ張っておられた。物性物理、若手の夏の学校にお出でくださって講義をして下さったことを思い出す。私は磁性物理には進まなかったが、大変面白いお話しをうかがったと言う感が深かった。

背表紙に:歴史を動かしてきたのは、政治や経済だけではない。数学的知識、暦の作り方、冶金技術など広い意味での「理科力」こそ、人間を人間として進歩させてきたものなのだ。・・・・・・・。人類の「これまで」と「これから」を理科の視点から眺望する。とあった。

第1章 縄文の空の下で-天、地、数
第2章 古代文化の形成と科学-鉄、数詞、記数
第3章 現代数詞の成立-日本語創世の中で
第4章 金銀銅の社会史-取り尽くされた鉱物資源
第5章 数遊びの東西-数比、魔方陣に見る理性と感性
第6章 アルスの世界-科学と芸術の原点

学問上の足跡は素晴らしく、日本物理学会の会長もされたり、多くの重要な役職を歴任されているが、このような書物をお書きになっているとは知らなかった。
他に読むべき本もあるのだが、これも年が明けての楽しみとしよう。

2011年12月29日木曜日

アボカド水栽培:12.29+金のなる木に花


7日に見た時は芽が出たかどうかぐらいだった、アボカド君、今日、幹の長さは16cmに伸び、双葉が出てきている。(クリックすると大きくなります)



金のなる木(花月)に久しぶりに白い花が咲きます。勿論、お金はならない!

2011年12月28日水曜日

御墓掃除

秋のお彼岸の折に弟夫妻と墓参りして以来、行ってないので、お掃除でもしてこようと二人で出掛けた。家を出てから、長津田、溝口、自由が丘経由で都立大学駅までほぼ2時間で到着。お花を買って数分歩くと太陽山東光寺。
お寺の北側には昔、都立大学があったのだが、今は南大沢に引っ越してしまって、名称も変った。凧あげをしたりしたグランドや校舎があった辺りには、団地が出来てるみたいである。

お墓はどうせすぐに落ち葉でちらかるだろうが、お掃除をすると気持ちが良い。
今日の天気のように清々しい気持ちになった。
背の高い樟が二本見える。境内には、あの樟より大きな欅が沢山あったのだが、欅は水辺に向かって根を張り、お墓の基礎を壊しかねないとかで、大かたを切ってしまった。親父はこの大きな欅の下で眠るのもよかろうと言っていたのだが、残念である。

電車はずいぶん空いていて、往復の時間はゆったりと読書で過ごせた。

2011年12月21日水曜日

アボカド水栽培:12.21

12月7日にはほんのちょと芽を出していたアボカド君、2週間で10cmぐらいになりました。根の方もそれらしくなったきたみたい。

2011年12月18日日曜日

おもちゃの病院+今年最後の合唱練習

忙しい一日でした。

午前中はある子どもセンターで開催された、おもちゃの病院に参加。私は野球ゲーム板の修理を行いました。玉が出てこないのです。前にも同じようなゲーム板を修理したことがありますが、この板の下にはバネやら金具やらが、いくつかのプラスティックの部品(一部に磁石も付いてる)に取り付けてあって、プラスティックの部品を操作して遊ぶのです。今回も、バネが外れ、プラスティックの部品の一部が外れていました。そしてなくなってた部品も。おもちゃと言うのは壊れた時にどう直すべきか、部品がどうゆう役割を果たしてるか、全く説明がないのが普通で、それゆえに、パズルと取り組むような場面が多いのです。

午後、家でちょっとやらねばならないことをして、急いで大和市のサイエンスフェスティバルへ。でもたどり着いたのは終了まじかでした。仲間の一人が、極低温の世界を子供たちに演示して居られたのですが、申し訳ないことでした。
後日、意見を言ってもらうことを期して、我々のモーターキットを手渡して帰途に。

夕方からは、海老名文化会館の練習室で今年最後の合唱練習。来年4月15日に、小ホールで、モーツアルトの小ミサ曲 ヘ長調 KV192。合唱組曲 やさしい魚 (川崎洋 作詞、新実徳英 作曲)、ロジェー・ワグナーの世界と称して、ケンタッキーのわが家、おおスザンナ、埴生の宿、愛の喜びなど、全7曲。以上を演奏します。今日はその一部の練習で、年が明けると猛練習が始まりますが、その前哨戦。鞭が入った感じがしました。

今年は、未曽有の大災害、大事故に遭遇し、来場下さる方々のなかに、心痛あるいは憂慮の日々を過ごして来られた方もおいででしょう。私たちも団として何が出来るかということを考える日々でもありました。
演奏会では、音楽を通して、祈りと、やすらぎのひと時をご来場下さる方々とともに過ごせたら、嬉しいことと思う次第です。

2011年12月11日日曜日

月食撮影、寒かった

皆既月食、一度くらい写真でも撮ってみようと、三脚を用意して撮影したが、それでも2重に映っていたり、もっとぶれた写真があって、随分捨てた。11時ころから上空に雲が流れ始め、月が顔を出すのと月をとらえる作業とで大変だった。
写真が小さくってあまりに貧相なので、姥沢でアメリカ・インディアン・ラブソングのpale moonのさわりの部分を録音してきて写真と一緒に組み込んでみた。



本当は皆既月食から段々顔を出した月が白くパアーっと輝きだす時がとても美しいらしいが、残念ながら雲と寒気と眠気に気持ちは萎えてしまい、観測はしなかった。

この土地で、こんな皆既月食は生きてるうちにはもう見られないかもと、双眼鏡を持ち出して眺めてた、背の君、”ねえねえ、どうして月の面が赤っぽく見えるの?”と聞きたもう。

1)夕焼けや、朝焼けと同じように、太陽光のうち、波長の短い(青い方の)光は空気中の塵に散乱されるのに対して、波長の長い(赤の方の)光は散乱されにくく空気中を通り抜け易い。
でもそれだけじゃ月は地球の陰にいるんだから変と思うかもしれないが
2)光の進路は真空から空気の層に出入りすると曲がる(屈折する)ので、実は太陽と地球の球の外側を結ぶ線より内側入って行くため、地球の傍を通りぬけた赤っぽい光が僅かだけど月に届くノ。
なんて話をした。
背の君、何を思ったか娘にメール。娘は1)は分かっていたが、2)については怪しそう。おかげで、久しぶりにいろいろ忙しい孫と話が出来た。楽しいもの。

2011年12月7日水曜日

12月7日

12月7日、日本人にとっては忘れがたい日である。あんなに多くの犠牲を払った戦、我々後進は、そこから沢山の事を学ばなければなるまい。確かに学び、学んだ効果が表れていることも少なくない。でも、諸外国との付き合い方の下手さ加減は相変わらずだ。日本人の特質なのだろうか?学ぶと言うと、バブル崩壊後、その処理は見事だったのかもしれない。技術的にはしゃんとしてるらしい。しかし、あのようなばかげたことを二度と繰り返さない心構えが根付いているのだろうか?
水栽培してたアボカドの実から芽が出てきた。しばらくは、あの広い葉をたのしめそうだ。

12月7日は実は、私たちが7カ月ぶりに同じ年になる日でもある。5カ月すると私が再び先行する。お互いに、少しづつ気になる部分も出始めてるが、まあ、健康な部類だろう。低空飛行になるのは仕方ないとして、航続距離は長くしてもらいたいものである。
おととい見た姥沢のもみじがきれいだった。今日も午後4時ごろに、姥沢で笛の練習をしに行き、写真をとってみた。


2011年11月26日土曜日

うがい薬で理科あそび

小学校での出前授業で、ビタミンCを含む液体を薄めたうがい薬にたらしていくと、茶色の液体が透明になっていくという実験を行った。うがい薬がビタミンCと反応して変質し、透明になるという性質を利用している。お茶にはビタミンCが大変多いということから、お茶をたらす実験を行ったのだが、たらしていくと透明にはならず薄いピンク色になってしまった。お仲間のQさん、これはどういうことかと、お茶の濃度を変えたり、抹茶で実験したりいろいろ試みられた。ペットボトルに添加されているビタミンCはトウキビが原料と聞いて、 顆粒のトウキビの煮汁で実験された。ところがこの場合、トウキビは名うての大量デンプン含有物質で、実際にはヨウ素・デンプン反応が起こり、濃い青紫色になった。(ここをクリックするとその報告に行けます)
折角、ヨウ素・デンプン反応を引き出してくれたのだから、何かこども達に対する面白実験が作れないかと、今日Sさんと話してたら、幾つか候補が出てきた。一つはうがい薬の茶色の液体で字を書くと字の色は青紫色になるってのも一案として浮上。今夜、早速やってみたのが左の写真。右側はシャープペンシルの先にうがい薬をつけて、何の細工もせずに紙の上に書いたもの。左側は、米粒をつぶして水に溶いたものを紙に塗りつけて、その上から同じくシャープペンシルの先にうがい薬をつけて書いたものである。明らかに両者の色は違う。左側の字はかなり青紫に近い。お米の中のデンプンが作用しているのだろう。
もうちょっと美しくできるような工夫が必要だ。Sさんによると、デンプンを繋ぎに使った紙があるらしい。それだと、米粒をつぶして水に溶いたものを紙に塗りつける必要もなくなる。
これと似たような呈色反応が他にもあるだろうから、少し探して理科遊び実験を作ってみるのも面白そうだ。

なお、うすめたうがい薬にお茶をたらすと薄いピンク色になる原因としては、どうもお茶に含まれるカテキンが原因ではないかという説がもたらされている。(Qさんの問い合わせ調査による。)

2011年11月21日月曜日

あれから三年

篠竹で横笛を作って遊ぶようになってから、3年半近くなる。作るのも、吹くのも少しづつ上達してるようには思うが、実際にはまだまだ未熟。
ほぼ3年前に、作って音が出て嬉しくって(メクラ蛇におじずで)ブログにのせたら、ネット仲間から、
”芸術的に断末魔の叫びの感じです(爆笑)。3年後を楽しみにしております。”
とコメントをいただき、その正直なコメントに、更に大爆笑を誘ったものでした。
今回初めて、十本調子の篠笛を作ってみました。古笛の部類に入るとかで、それならと越天楽を吹いてみました。

作るのも、吹くのも自己流で、本格的にやっておられる方々から見れば噴飯ものでしょうが、微々たるものでしょうが、進歩してると感じています。時間が沢山あるわけではないですが、正確で、綺麗な音で、綺麗な姿の笛に近づけたらいいなあと思っています。

2011年11月20日日曜日

平湯・高山3

荷物を先ずバスセンターのコインロッカーに預けて午前中は街を歩くことにした。
高山には、山また山の奥にあるのに縄文時代の遺跡がかなりあるらしい。そして、飛騨の匠の力は律令制が布かれる前から都で活用されていたらしい。相当に歴史が古い。
江戸時代に入ってから、最初は金森氏が支配したが、直ぐ幕府に取り上げられ天領となった。幕府は陣屋を設置して郡代(知行十万石クラス)か代官(数万石クラス)を送り込み差配させた。陣屋は街中に今も残り、博物館として利用されている。左は正門の所。広いには広いが、小大名クラスの知行を得ている人の生活の場としては質素なものに見えた。勿論公的な面もあり、年貢を納めた蔵が(蔵の中に、多くのものが展示されていた)あったし、裁判所的性格も持っていた。

陣屋を出て、古い街並みに出た。傘をさしながら、古い街並みを散歩。地酒、山車(さんしゃ)も。


もうちょっとみようと、高山祭屋台会館へ。高山祭で使う屋台が展示してある。研修室では高山祭の様子を上映していた。それをムービーに撮ったのだが、著作権の問題に引っかかりそうなので公開はひかえることにした。


こんな盛大な祭りをするのだし、笛は売っていてもよさそうに思ったがちっともお目にかかれなかった。連れ合い殿が耳よりの情報をもらって来た。屋台会館近くに和楽という店があって笛を売っているという。早速寄ったが、確かに完全調律したものから、練習用の安いものまで。調律がちゃんとした、良いなーと思うのは二万円弱。今の私にはもったいなすぎるので、諦めた。もっともっと作る方で精進しよう。
1時半発のバスで、平湯経由新宿行きのバスに乗った。府中付近で低速道路になってしまい、家に帰着したのは午後11時ころ。少々疲れたが、面白い旅だった。

2011年11月15日火曜日

平湯・高山2

11月10日、とんまなことに8時30分発の高山行きのバスに乗りそこない、1時間遅れのバスで出発。10時28分高山駅そばのバスセンターに着く予定。同じ濃飛バスが運行する観光バスは10時30分にバスセンターを出発。平湯を出るとき電話を入れておいたがどうなる事やら。高山の賑やかな所には入った時には、もうすぐ28分、おしいがもう駄目と諦めた。ところがセンターについて外へ出ようとしたら、外で我々の苗字を呼んでいる。待っていてくれたのだ。お金とチケットを交換、前に停車するバスに飛び乗った。乗客の皆さんに済みませんと一礼。
目指すは五箇山の菅沼郷(富山県南砺市)と白川郷(岐阜県大野郡白川村)の合掌造りの家々。世界遺産とのこと。

上の写真の左は菅沼郷、右は白川郷の展望。菅沼郷はこじんまりしてるが、観光地という感じが白川郷より薄く、生活感が伝わってくる。菅沼郷は富山県に属し、江戸時代はここを支配した加賀藩は庄川に橋を架けずに隔絶の流刑地とし、また火薬の原料となる煙硝の密造地にしたとのこと。それに比べると白川郷は江戸時代は幕府の天領であった。その分だろうか、後者には家格が高いと感じられる家が幾つかあった。右の写真は菅沼で見た、茅葺用の材料を家に巻き付けて干しているのであろうか?屋根のふき替えはなかなか大変なものらしい。後の写真に見るように大小の柱を縛り付けたり大変なことだと想像出来た。

幾つかの家で、一部を公開していた。1階は居住区域で、2階に使用人がいたり、作業場であり、蚕を飼ったりする場所であった。下の写真の右側はあるお宅の2階の一部。作業場の様子が見えるように展示してあった。手前のすのこのようになってる所は、多くの場合、真下に囲炉裏があって、上に暖気が上がってくるようになっていた。


合掌造りの、柱が合わさる、まさに合掌の形をする部分を内側から見ると、これを造り上げるための労力のすごさが分かろうというもの。




高山に戻って、宿に到着。ホテルの最上階にある温泉風呂、隣に露天もある。今日も少ない入浴客とゆっくりくつろいで、サテ夕食。パンフレットを見ると、飛騨牛料理オンパレード。ちょっと高いし、前日に食べてるし、と思って見ていたら、一軒だけお魚を食べさせる店。富山は直ぐそば、美味しいお魚を出すと書いてある。迷わず直行。お酒もお魚もとても美味しかった。バスの中のガイドさんの紹介で気になってた漬物ステーキというのがメニューにある。ガイドさんは古くなった漬物を炒めて(バターを使うと風味が出て良いという)、卵でとじるといっていた。是非トライしたいと頼んだ。特別美味しいものとは思はないが、あっさりとしていて、何かの折にサット食べねばならん時などいいなーと思った。帰宅後も、買って来た赤カブ(これを入れると良いと店主が言っていた)と白菜の漬物でやってみた。浸かり過ぎの漬物をそのまま食うよりは、たまのことだろうから、おすすめ。

2011年11月14日月曜日

平湯・高山1

11月9日早朝に起きで、新宿から高山行きの高速バスに飛び乗った。前日のバスの旅の影響か、体がユーラユーラする感じが残っていたが、迎え酒みたいなもので、続けて今日バスに乗って、ユーラユーラ状態を麻痺させるらしく、そのうち何とも感じなくなった。午前中は、富士山も薄く遠望できたし、南アルプス、八ヶ岳もよく見えていたが、諏訪湖に着く頃から曇天(ちょっとパラパラもあり)。
松本辺りでまた晴れたりして梓川沿いの紅葉を楽しんだ。島々を過ぎて、上高地、安房峠への分岐点近くでは、崖崩れの爪痕かと思われる岩の崩落痕があり、道路工事が行われていた。焼岳は雲に包まれうっすらと姿が見える程度(左)。バスは約4時間半で平湯に到着。ここで一泊する。
我々はホテルへ直行せず、バス停でしばらく待って、そのまま新穂高行きのバスに乗り換え、目指すは新穂高ターミナル。そこからロープウェイ2線を乗りついで、西穂高岳口まで行き、右のような景色を楽しむはずだった(クリックすると大きくなります;写真はるるぶ飛騨高山から転載)。
しかし、お山は無情にも雲をかぶってる。
残念ながらロープウェイは第一段の鍋平高原駅で止めて、ビジターセンターで沢山の動物の剥製や、登山にまつわる、或いは山の四季を扱ったビデオを見て帰途についた。
平湯の温泉では内湯も露天もたった一人で足をのばし、歌口ずさみ、快適至極。

翌10日、朝テレビで焼岳の赤外線写真、新穂高からの穂高岳の眺めを映していたので、カメラでちょっと撮影。

ホテルの屋上からは笠岳が真っ正面に見え、のんびり、朝食も良い気持ちでのんびり。ロビーで民芸品のエプロンなど見てるのに付き合ってるうちに、”あっ!いけない”の声。乗る予定だったバスがもう出てしまった。8時半のバスに乗って、高山に9時半に着き、街をちょっと見て余裕で10時半から白川の方に行く観光バスに乗る予定だったのだ!次のバスは9時半に平湯発、10時28分高山バスターミナル着。観光バス会社に電話を入れると、時間がくれば出ると言う。お宿の人が気をきかせて割引でタクシーを雇うべく動いてくれたが、タクシーがいない。なるようになれと、9時半平湯発のバスに乗っかった。

2011年11月12日土曜日

バスハイク2011

11月8日;相模原の南地区から16号線を北上して、けやき会館、上溝と回りながら、会員をピックアップして下さって総勢23人による富士山を一周しながら紅葉を求めての一日旅を満喫した。

バスは厚木から東名を経て身延山そして本栖湖→精進湖→西湖→河口湖→河口湖IC→八王子→相模原へと周ってくれる。あいにくと終日曇りで富士山は姿を見せず、富士山の南側を走ってる間は紅葉の兆しも見えず、チト不安が頭をかすめた。しかし、途中でとった昼食の蕎麦がなんとも美味しく、げんきんなもので、そんな不安な気分は何処かへ行ってしまう。
身延山付近でも葉っぱはまだ色づき始めたばかりという感じだった。

決して若くはないんだが、かなりの人が約300段を頑張って登りましたね。私も頑張ったが、足はがくがくになって本堂にふらふらでたどりつく始末。

身延山を過ぎて本栖湖に近ずくと、見事な紅葉が見え始め、河口湖周辺で一休みして赤、青、黄の見事な自然の配色を堪能できた。






タダ参加するだけの私と違い、バスの手配、コース、何処で休憩するか、何処で食事とするか、車中ではどうするか、オヤツは?等々いろんな準備をして下さった方々は大変だったと思う。感謝あるのみ。
家族での旅行とは違った旅の味わいも又楽しいことだった。

堪能した濃い一週間

私にしちゃー、過密だけど、とても楽しい一週間でした。
11月7日(月)朝8時発で新宿はピカデリーへ映画鑑賞に。メトロポリタン オペラ ライブビューイングの今シーズン第一弾、アンナ・ボレーナ;イングランド王ヘンリー8世の悲劇の王妃アン・ブーリン(Anne Boleyn)を描いたドニゼッティ―の傑作オペラ。アンナ・ボレーナ(アン・ブーリン)を演じたアンナ・ネトレプコの素晴らしい歌唱と演技を堪能した。既にトップソプラノの彼女はこれを機に更に一段階登ったのではあるまいか。准主役のアブドラザコフ(バス)、グバノバ(メゾソプラノ)、コステロ(テノール)、マムフォード(メゾソプラノ)も素晴らしかった。コステロ、マムフォードはアメリカの若手。これからが大いに楽しみ。
11月8日(火)これも朝8時家を出発。ネットのお仲間とバスでぐるーと富士山を一周してくる紅葉を楽しむ日帰りの旅。富士山を南側から回るのだが、出発して身延山に達するまでは紅葉の雰囲気もなく心配したが、身延山を越えたあたりから富士五湖周辺の紅葉の何と素晴らしかったこと。曇りで、富士山は姿を見せてくれなかったが、実に楽しい旅でした。この様子は次の項に譲る事にしよう。左は予告編。
翌9日から11日までは、我々夫婦の数年前からの懸案。飛騨高山巡り。朝7時に家を出て、新宿に行き、高速バスに乗って、平湯と高山に一泊。平湯では朝うっかりして予定のバスに乗りそこなう大失敗。一時間後に出発するバスに乗った。高山10時28分着の予定なのだが、我々は10時30分高山発の観光バスに乗る予約をしてた。電話を入れたら、違約金は発生しませんが時間がくれば出発しますと言われ、すっかり諦めてたら、高山ターミナル到着停留場に観光バスの係の方のお出迎え。直ぐ隣に止まってる観光バスに飛び乗り、バスは2分遅れで出発した。菅沼、白川の合掌作りの家屋の中も見せていただけた。右上は予告編(クリックすると大きくなります)3日間これも中身の濃い旅でした。この旅もその後に。
サー、今日は午後、11月27日の座間音楽祭に向けた練習がある。明日は、デンマーク in 代官山。これをちゃんとやこなすと、中身の濃い一週間の完結。

2011年11月1日火曜日

”野菊”を作ったばかりの七本調子篠笛で試吹しました。

昨日はハロウィーンでした。大きな黄色のカボチャを買ってきて中をくりぬいて、左写真の左にあるようなのを作って窓辺に置いたりします。写真のは瀬戸物です。こども達は思い思いのかっこをして、"trick or treat"て言いながら、近所をめぐり、大人は沢山お菓子を用意してなんでHappyなのか知りませんが"Happy Halloween"なんて言って、お菓子をこどもたちに与えるのでした。どれくらい用意するかなんて、古い古い昔の思い出が哀感を伴って脳裏をよぎります。
写真の右側のは本物のカボチャです。どうやったらこんなことになるのか。色を塗ったのではなさそうです。

七本調子の篠笛は今日桐油を塗り日中干して、夕方姥沢でテストをしてみました。唱歌の”野菊”です。

咲いてた野菊はうす紫でないのが残念ですが。笛はあとは糸を巻いて、カシュウを塗るだけです。

2011年10月30日日曜日

今日のNHK日曜美術館

今日のNHK日曜美術館(9:00-10:00)は舟越保武を取り上げていた。途中からだったが、端正で美しい、(特に女性像)造形美に感激して見ていた。晩年、脳梗塞を病み、そして克服されたが右手の自由を失われた。番組の終わりの方では、それでもなお且つ粘土像に取り組み、(そのころの活動の様子は、随分前にTVに放映されたことを思い出す)作品から作ったブロンズ像が紹介された。両手が自由であった時の作品とは随分と違う。
左手だけで作った、ゴルゴダという作品は十字架に架けられたイエス・キリストがテーマの首像であるが、私には、込められたものの中に”苦悩”という印象が残った。その数年後に作られたというゴルゴダIIという作品が出てきたとき、ゴルゴダに対して持った印象は吹っ飛び、言い表しようのない感動に揺り動かされた。じーっと見てるうちに画面の像がにじんできてしまった。
NHK日曜美術館のwebページの最後の所にその像は出ています(クリック可です)。多分、来週の日曜日の夜8時から再放送があるだろう。もう一度見たいし、是非本物を見たいと思った。

2011年10月28日金曜日

十本調子篠笛も

もう一つ計画してた十本調子篠笛も作成し始めてしまった。これは八本調子より一音高いもので、最近購入したアイリッシュ・フルートと同じD管。音色など比べて見たいと思う。また八本調子より上の調子の笛を作るのも初めてで、どんなものになるか楽しみ。七本調子の笛は、コルクと和紙で頭部の反射壁の固定、管頭部の詰め物もおわり、十本調子の笛と一緒に仕上げをやろうと思う。