2019年4月13日土曜日

令和に思う

令和の字を見て、浅学菲才の私は先ずは違和感を感じた。「令状」、「指令」、「命令」とか「号令」など、何か強制を伴う文字が浮かんだからだ。

説明を聞いて、令月なんて言葉があるんだと知り、そういえば、令嬢、令夫人、御令室なんて言葉があるなーなんて、何か言い訳がましさを感じながらも、ぼんやり受け入れた気になった。

しかし、出典など解説が2週間たった今も続いている。本日の朝日新聞の社会面(34ページ)によると、考案者と目されている国文学者がある市民講座で、令和の解説をしたそうだ。「令月」に中国の文献からの影響を指摘する人が居たそうだが、中国の文献では2月の意味であり、万葉集では1月の意味だから違うと言ったとか。なんだか言い訳がましいこと言わなきゃいいのにと思う。
その先生は令は「命令」の意味を含むとの指摘を受けて、「文脈が違えばそれぞれ際だった側面が強調される。こじつけだ。」と語られたとのことである。確かに文脈が意識されれば、当を得たものなのかなと思う。しかしである、果たして「平成」の出展、文意が大方の人に今も意識されているだろうか?私は平和とか平等といった文字と重なって、人々の意識の中にすんなり入って行ったのではないかと思う。

令和の出展の文脈が意識され続けるのはどれくらいの長さだろう。やがて薄れ、「令和」の文字だけが残るのではあるまいか?その時、令月とか令夫人とか令嬢と言った言葉と重なって意識されればそれはそれでいいかもしれないのだが、令状、指令、命令、号令なんて文字が意識されることがないように願っている。言葉は人の意識をコントロールし、人々に浸透した意識は時代の空気(風景)を決めるだろうから。