2015年9月24日木曜日

レモンの教え。

最近、ある小学校で食品に含まれるビタミンCの濃さを比べる実験授業をしました。
児童はビタミンCと言えばレモン、レモンと言えばビタミンCという観念が植え付けられてしまっているようで、この実験では、本当は身近なものでもレモンよりズーットビタミンCが濃いものがあることを知らせ、世の中に流布してることを鵜呑みにせずに、自分で調べ、正しい認識を獲得することの重要性を伝えます。
このテーマは当ブログでも過去に紹介した「お茶で嘘が暴露できる、ブラックマネー詐欺」(クリック可)と強い関連があります。

実験で調べるのは、レモン果汁、キウイ―果汁、黄パプリカ、赤パプリカ、普通のに飲むのと同じくらいの濃さの煎茶。 これらの内で、ビタミンCが一番濃いのは何でしょうか?一番薄いのは?
児童の実験結果の整理したものをご覧ください(クリック可)。

結果は;普通のに飲むのと同じくらいの濃さの煎茶>赤パプリカ>黄パプリカ>キウイ―果汁>レモン果汁
でした。この実験で、ビタミンCと言えばレモン、レモンと言えばビタミンCという刷り込まれた知識は打破され、レモンよりビタミンCが濃いものがある。ビタミンCって、黄色で酸っぱいという思いこみも打破されます。色も酸っぱさもビタミンCとは別のものに依っているのです。こういうことを実験で知ることも重要ですが、この実験で伝えたい一番大事なことは、世間で流布してる”知識”を鵜呑みにせず(「みんながそう言ってるから」ではなく)、本当かなと思って自分で調べる(自分でそう信じる根拠を自分でしっかりつかむ)ことの大切さでした。これは理科だけのことではなく、生きていくうえでとても大事なことですネ。

2015年9月22日火曜日

何度見ても興奮する;日本ラグビー代表の対南ア逆転勝利

英国で行われているラグビーワールドカップ、世界13位のラグビー日本代表が、世界第3位の南アフリカ代表に逆転勝ちした。最後の逆転劇、何度見てもすごいの一語に尽きる。サッカーなんてものではない肉弾戦。終了直前に得たペナルティーゴールのチャンス。それを成功させても引き分け。世界第3位に引きわけてもすごいと評価されるのに、敢えてペナルティーゴールを捨てて逆転を狙う死闘を展開。終了時間との戦いでもあったが、遂に逆転トライを挙げた。あくまでも勝利を追求し、そしてそれをもぎ取った精神に心が震えた。逆転劇の様子は一例だけど、https://www.youtube.com/watch?v=Jx4TYScDl18から見ることが出来る。(クリック可)
YouTubeに沢山、動画が出ている。日本語版、英語版だけでなくってフランス語版も。世界を驚かせた出来事らしい。
追伸
スコットランド戦は残念でした。何を言っても負けは負けだけど、日本は集中を欠いていたのかもしれない。日本は20日に死闘をして、23日にこの試合。スコットランドは初戦。アンラッキーだけど言っても仕方ない。スコットランドもどこかで苦しいスケヂュールを味わうんだろう。日本は十分休んで、10月3日のサモア戦を頑張ってほしい。

2015年9月21日月曜日

新聞報道の姿勢に異議あり

安保関連法案の報道姿勢に異議あり
ひとつ:世論調査
 なぜ問わない?国民自身の選挙への取り組みは真面目だったかと?
 曰く、国会での進め方は良かったか?議論が尽くされたか?安倍政権の説明努力はどうだったか?憲法に違反してるか? 野党の対応はどうか?
 国民に評論家的回答を求めてるだけだ。国会での結果は選挙の反映でもある。この結果を国民としてどう受け止めるのか、 国民自身の問題として、選挙への取り組みの評価を突きつける必要があるのではないか?これもジャーナリズムの大きな役割ではないのか?

ふたつ;報道内容の鋭さ、深さ
 もっと言いたいことがある。自身の報道のあり方への反省は無いのか。問題を深く掘りさげた、鋭く切り込んだ記事がどれほどあったか?

2015年9月19日土曜日

久しぶりの晴天

首相の心はもしかしたら晴れ渡っているのかもしれない。それほどに、外から大きなプレッシャーが彼に掛かっていたのだろうか?そうとしか思えない。これほどの大転換を一国会で遂行してしまうと言うのは拙速の極みとしか言いようがない。数回の国会を渡って議論を継続し、熟した法案に練り上げる、又は法として無理であるというところまで突き詰めようとするのが本来の姿ではないのか?それが民主主義の姿だと思う。民主主義は時間がかかるのだ。ましてや、法的安定性など関係ないなんて暴論を吐く人が中心になって法案を作ったらしいのだ。多分、これ以上丁寧な説明をしていくとほころびがどんどん出てしまう、ゆえに決定を急いだのだろう。
しかし、世論の疑問を無視してでもやるんだと、自民党が覚悟すれば、これは絶対安定多数という議席を獲得している以上、現時点ではどうしようもない。彼らは覚悟したのだ、次の選挙で負けることがあっても、それは仕方がないと。彼らはそう覚悟したのだと思う。 そう思ってないのだとすれば、あまりに人々を馬鹿にした話だ。

とても賛成できない、或いは、説明不足だ、もっと練ってほしいと思った人々は決して忘れてはいけないと思う。次の選挙、その又次の選挙まで。
一つの政党に絶対安定多数なんて状態を与えてはいけないのだ。特に党議拘束が当たり前になってしまっている日本においてはだ。その意味では今度の結果には我々国民自身に責任がある。民主党の失政により、自民党が息を吹き返した時の選挙、経済回復という衣の下に鎧がちらついて見え、危なく思っていたのだが、やっぱりである。今度の選挙では、絶対安定多数の政党を作らないように、十分に気を付けて、空気を読んで投票するべきだと思う。我々日本人は過去に大政翼賛会なんてものを作ってしまったことがあることを肝に銘じよう。「臥薪嘗胆」という言葉がある。あえて、薪の上に寝て、苦い胆をなめて、この状態を我慢して待とう。

2015年9月14日月曜日

勇気ある著作「東京プリズン」(赤坂真理さん作)


何時だったか、今夏の暑い盛りに、ふと朝日新聞のインタビュー記事が目に留まった。赤坂真理という人が答えている。彼女の作品「東京プリズン」が話題になっている。天皇の戦争責任を問うていると触れている。これは読むべきであると思った。
買って驚いた。本の帯に「戦後」を問う衝撃のベストセラー!毎日出版文化賞 司馬遼太郎賞 紫式部文学賞 受賞!とある。凄いぞと思って読みだした。日本の学校に馴染めなかったマリがアメリカの高校に留学した設定になっている。第一章 十五歳 アメリカの最果ての町にて という題の章から始まるのだが、読んでいきなり霧の中に放り込まれた感覚になる。章を進めて行っても、時間が飛んだり、単純頭の私には頭の中がウニになるような感覚がして、途中読むのが滞った事もあったが、本の題目そして主題と伝わる内容への興味、いったい私は何処へ連れて行ってもらえるのか?という興味は衰えず、やっぱり読んだ。最終章になって、途端に視界が晴れる。その章は、アメリカの文化に馴染めず、落ちこぼれたマリに、進級を賭けたディベートが課され、「天皇の戦争責任」に対して検事の立場に立たされる。さてあまり書かない方が良いと思う。ただ言える事は最終章になって俄然面白くなり、霧の中にいる感覚で読んでいたことがつながってくる。そして最後の9ページは爽快感を持って読むことが出来る。
「たとえ困難でも、泣きたくても逃げ出したくても、肉体をもってある位置に生まれついた以上、全うすべきことがある気がしただけです」だけ引いておこう。

多分、クヌギとコナラのどんぐり


昨日、横山公園の北側から入って、中をぐるっと回って、途中速歩と普通の速さを繰り返す。最後に、南の上溝駅側から出て帰ってきた。約9000歩。
公園の南側出口付近でどんぐりが一杯落ちていた。先日の風雨の影響か?二種類のどんぐりを拾った。左は多分クヌギだろう。実の直径は2cmぐらいある大振りで、ずんぐりしている。殻斗は実の半分ぐらいを、栗のように針状ではないが、硬い毛状のものが覆っている。
右はコナラではあるまいか?まだ実が緑色の状態で落ちていた。実はクヌギより細長く、実の直径は1cmぐらい。殻斗は実のお尻のところに申し訳程度に小さいのが付いている。この実は最初は殻斗に覆われていて、殻斗の殻を破って出て来てここまで成長したわけで、その成長の速さに驚く。

実を結ぶ秋なのですね。

2015年9月6日日曜日

ケルシー:果物(スモモの一品種)


3年半前(訂正、2年半前)にチョット体調を崩して以来、自動車の長時間運転は控えていた。どうもなさそうなので、長時間と言えるほどではないが、道志あたりに行こうということで、週日だと混まないであろうからと金曜日に出かけた。道の駅で昼食をとって、チョット買い物をして帰ってきた。
始めてみる形をした果物に出くわした。元々は日本産で”甲州大巴旦杏(こうしゅうだいはたんきょう)”と呼ばれたとか。黄色を帯びた緑色で、トップのあたりが少しとがり気味。元々日本原産のスモモの一種だが、アメリカ人のケルシーさんによってアメリカへ紹介され(大正年間)、カリフォルニアで広められ品種改良がされたとか。その間日本では廃れてしまったのが、最近逆輸入されたらしい。
俄然興味が湧いてきて、2個買って来た。今朝、先ず少し柔らかめで熟しはじめた一個目を試した。さっぱりした甘さで、大いに気に入りました。果肉は黄色。熟すと皮が赤みを帯びるとのことだが、この緑色の状態で既に果肉は柔らかく熟していた。美味しくお勧め。

2015年9月2日水曜日

オリンピックのエンブレムって


なんで、そんなものが必要なのか分らん。
スポ―ツの祭典だ。スポーツをする選手にとって、見る人にとっても、そんなもの有ろうがなかろうが、関係のない代物のはずだ。
今回の東京オリンピックに関するもたつきは、憂慮に堪えない。商業主義に蝕まれたオリンピックという仕方に振り回されているように感じる。 肥大化する商業主義オリンピックに何処かでピリオドを打たなければならない日が来るはずだ。日本が主導して商業主義に別れを告げるチャンスではないか。メイン会場も出来るだけ簡素にし、エンブレムなんてどうでもいいものは排して、簡素にやれないものか?