2008年12月30日火曜日

相模のもののふ 和田氏 その1

10月29日に永井路子著の”相模のもののふたち”を紹介し、三浦大介義明と三浦党のことをふれた。(ここをクリックしてください)
三浦党は半島周辺の海運をおさえた大きな動員力をもった集団であったが、その棟梁、三浦大介義明は「剛毅と冷静な判断力」を持つ「鎌倉時代の幕開けを飾るにふさわしい人物」と永井路子さんは評価されている。そして、その”冷静さ”が嫡男(実は次男、長男が若くして死んだため)義澄、その子義村に受け継がれ、”剛毅さ”が、若くして死んだ長男義宗の子、和田義盛に受け継がれたと書いておられる。

和田義盛(左写真「相模のもののふたち」より)の父、義宗は始め三浦の重要拠点、海の城塞、怒田城を任された。その後、鎌倉の東南、杉本城(今の杉本寺があるところ)に拠って杉本太郎義宗と名乗った。この杉本城、紛争が絶えなかった鎌倉党(大庭、梶原氏など)に対する三浦党の最前線と位置づけられる。つまりは義宗の「勇猛さ」を物語っているといえよう。義宗は若くして亡くなったので、三浦の嫡流は義明の次男義澄の系が継ぎ、義宗の長男、義盛は三浦半島の相模湾側にある和田に拠って和田義盛を名乗り、この地域の開拓を行った。杉本城はと云うと義盛の弟義茂が継いでいる。(三男義秀の項は間違ってました)

和田氏は嫡流ではなかったが、三浦党の中で非常に重要な集団であったばかりか、鎌倉幕府が開府した後は義盛が侍所の別当(いわば長官)を担い、本家をしのぐ勢いであった。三浦党が源頼朝に重用されていたことは確かで、例えば頼朝が征夷大将軍に任じられた時、勅使から辞令を受け取る大役は義澄が担っている。
和田義盛は積極果敢の人であったらしいが、時に私情を前面に出してしまう面もあった。その意味で本当に侍所の別当に適任であったかどうかは疑問の余地があるが、所司(次官)に性格が正反対ともいえる梶原景時を配したあたり、頼朝の絶妙の人事と永井さんは云う。実際、幕府を開くのに欠かせなかった数ある豪族達の棟梁の中から侍所の別当を選ぶのもなかなかの困難があったであろう。別当人事は旗揚げに敗れて安房で合流した時の約束と云うことになっている。頼朝と云う人は聡明な人であったらしい。和田義盛は平家討滅戦のみならず、奥州平泉の藤原攻めにおいても活躍している。

鎌倉幕府は開府以後も豪族間の勢力争いは絶えなかった。それでも頼朝がトップにいる間は抑えが効いていたが、その死後は弱小集団北条が政治権力を握っていく。外戚北条時政の政治的陰謀によって次々と有力武士団が葬られた。頼朝の妻、北条政子と弟義時は父時政には一線を画したが、頼朝の子供たち頼家も実朝も頼朝が示した”源氏”の坂東武士団に対してなすべき役割、その位置づけを理解せず、結局、母、政子と義時が力を発揮することになった。
しかし、北条が本当の意味で政治権力を確立するには、鎌倉のすぐそばの三浦半島にがっしり根付いて、動員力絶大の三浦党の排除が必要だった。北条の優れた指導者、義時、その子泰時、その孫時頼の代の間に三浦党は追い詰められ滅ぶ。その手始めが和田合戦であったといえよう。

明日に続きます。

10 件のコメント :

匿名 さんのコメント...

wさんと関係がありそうですねぇ~。wさんちも相当歴史が古くって由緒あるようですから、こんど話を聞いてみましょう。中津川フィールドの遺跡も関係ないかなぁ~?以前伺った時は関係ないとおしゃっていました。

権兵衛 さんのコメント...

中津川フィールドの遺跡はいつの頃のことか、興味津々です。でも戦国時代以後のことだったらがっかりだな~。

匿名 さんのコメント...

三浦半島に和田という場所があります、
歴史を紐解いていくと楽しいでしょうね。

権兵衛 さんのコメント...

菊池さん
ゆっくり歩いてみたいところが多いんです。杉本寺もそうだし、和田も(通ったことはあるのですが)。金沢文庫も。それから時代がズウと近くなっちゃうんですが、最後の海軍大将、井上成美が戦後隠棲して、子供たちに英語を教えた土地、長井も。

匿名 さんのコメント...

そちらは鎌倉幕府を開いた頼朝に関連する
数々の史跡は歴史家たちをさぞや熱くする・・・ことと思います。

こちらは、源氏が滅ぼした平家平清盛が
たとえ半月であろうとも、遷都の福原の地
があり、清盛の残した数々の史跡のそのひとつ唐の貿易、兵庫の津(兵庫運河)建設に
係わる数々の史跡等など・・・いにしえびとの足跡の数々・・・・
辿るとほんとうに深いものがありますよね。
続きを楽しみに致しております。
よいお年を!

権兵衛 さんのコメント...

トントンさん
福原も”ツワモノどもの夢の跡”ですね。清盛が夢見た都、鎌倉時代は福原探題。
私の先祖、四国に隠れ住んだ平家だと聞いてはいるんですが??唯一それと関連が有そうに思うのは、平家に多い揚羽の紋。うちもそうです。でも証拠にならないですね。

Unknown さんのコメント...

一昨年、鎌倉の和田塚を訪れたことがあります。五輪塔が無造作に転がっているように感じました。江ノ電和田塚のそばですが小さな公園みたいなもので見落としてしまいそうです。
中さん、我が家の例の遺跡は約400年前、元和元年に和田太兵衛が地蔵千體を安したという記録が残されています。和田の乱はさらに400年遡りますが、代々和田太兵衛を名乗るわが祖先が和田の乱の痕跡が残る塚に地蔵千體を安置したという仮説をもって塚の中に隠された秘密を探ろうとしています。あの場所に敗残兵を残したのが我が家の始まりと勝手に仮説を立てています。

権兵衛 さんのコメント...

達夫さん
和田塚をおとづれられた記述は貴ブログで拝見したように思います。

朝比奈義秀はよくわかりませんが、例えば、義盛の嫡男常盛と横山時兼は都留のあたりまでのがれて自害したとありますし、上野に逃れた一族もいたとあります。たぶん相模川や中津川に沿って北上したのでしょう。その間に、怪我などの理由で土着し帰農した人もいたでしょうね。

いつの時代のものかは私にはわかりようもありませんが、大いに期待しているところです。

匿名 さんのコメント...

色々調べて見ると歴史は面白そうですが、私には難しいですね、何時も権兵衛さんのブログを興味深く拝見しています、ありがとう御座います、今年一年お世話になりました、来年も宜しく、良い年を迎えてください。

権兵衛 さんのコメント...

おがちゃん
こちらこそ初めてお会いした中津川フィールド以来、いろいろお世話になりました。お元気で良い新年をお迎えください。