2008年12月28日日曜日

目黒区八雲の東光寺

昨日、お墓の掃除に目黒区八雲にある東光寺へ行きました。
このお寺、曹洞宗の禅寺で、吉良氏菩提寺と説明があり円に二引両の紋が山門についていました。吉良氏と云えば足利将軍家の庶流ですので、円に二引両と云う紋が使われていました。
東光寺を開いた吉良家は実は世田谷吉良と呼ばれていました。吉良家はもともと三河に根を張り東条吉良、西条吉良に分かれて吉良の庄を支配していました。南北朝時代に東条吉良の一部が北畠氏を中心とする南朝勢の抑えのため奥州探題として東北に行き、同じく奥州探題だった斯波氏の勢いに負け、武蔵に戻り、世田谷城(豪徳寺)に拠りました。関東では鎌倉公方、関東管領に次ぐ地位にあったようです。
世田谷吉良家の菩提寺は豪徳寺付近にもあるのですが、東光寺には西側の丘の上に3基の宝篋印塔があります。
私の子供時代は、欅の大木が沢山あって、夏には蝉取りをして遊んだのですが、夜はうっそうとした森のせいで傍を通るのが薄気味悪かったことを思い出します。今はずいぶん切ってしまって欅がぽツンポツンとあるだけで残念な状態です。ただ非常に立派な銀杏が山門の傍に頑張っています(写真上:今の銀杏、下:夏の銀杏)

とうの世田谷吉良家は戦国大名にはなり得ず、小田原の後北条に組み込まれ滅びます。ただ江戸時代になって、たぶん源氏の流れを重視されたのでしょう徳川家の旗本にとりたてられ名が残ったようです。世田谷出身の吉良と云う人に会ったことがありますが、その当時は由緒ある名前だな~ぐらいにしか思はなかったのですが、もしかすると世田谷吉良の末裔だったかもしれませんね。

そうそう、本題はお墓掃除でした。二人で草をむしり、石を水で拭いて、花を生け、線香を手向けて帰ってきました。帰り道、二子玉川を渡る国道246号線の橋の上から、少し傾きかけた太陽の光を浴びた見事な富士山を見ることが出来ました。

12 件のコメント :

匿名 さんのコメント...

由緒あるお寺にお墓があるんですね~、
権兵衛さんのご先祖様は武家だったのですか?。
お墓が遠くにあると大変ですね。

権兵衛 さんのコメント...

菊池さん
父は京都の作り醤油やの3男です。私が大学を終えるころまで、この辺に住んでいました。弟が早世して、父がこのお寺にお墓を立てる結果になりました。

匿名 さんのコメント...

>・・・はお墓掃除
ご苦労様です。

里にいた頃のお墓掃除を思い出します。
「こうしてみんないつかはご先祖さまの
お仲間になっていくのよ。恥じない生き方を
しなっくっちゃね」
あー母の言葉が甦ってきました・・です

権兵衛 さんのコメント...
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権兵衛 さんのコメント...

トントンさん
>「こうしてみんないつかはご先祖さまの
>お仲間になっていくのよ。恥じない生き方を
>しなっくっちゃね」
幼いトントンさんとお母上のこの場面、想像すると、じわーときてしまいます。
素晴らしい教育ですね。

匿名 さんのコメント...

東京までのお墓の掃除お疲れ様でした、先祖様も喜んでおられるでしょう、有名なお寺に
お墓があるんですね。

権兵衛 さんのコメント...

おがちゃん
戦後間もなく生まれて間もなくの弟が早世し、関連はなかったのですが、とりあえずの体でこのお寺にお墓をお願いしたことから始まっています。

匿名 さんのコメント...

 お墓のお掃除お疲れ様です。特に冬は大変です。先祖を大切にすると、今度こっちが逝った時親切にしてくれるそうで、精々ご先祖様は大切にしたい物です。

権兵衛 さんのコメント...
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権兵衛 さんのコメント...

中さん
例の柿の木坂の近くです。自由が丘の北のあたりから目黒へ抜ける目黒通りの北側ですネ。
目黒通り、今でこそ都立大学付近はまっすぐ碑文谷を抜けて目黒に向かってますが、終戦後間もなくは、都立大学駅前通りと目黒通りがクロスしてるとこは目黒通りはふさがっててマーケットが並んでいました。九品仏からだったか東京駅への”木炭バス”はここで迂回をしてたんですよ!

匿名 さんのコメント...

お墓参り、終わった後の清々しさは何物にも変えられませんね?

私も、実家と同じ高輪のお寺に墓地を作りました。

四十七士で有名な(泉岳寺)の近くです。

明日、大好きな両親のお墓参りに行こうと思って居ます。

参詣、お疲れ様でした。

権兵衛 さんのコメント...

らっこさん
道すがら、娘の所によって、楽しみながらの一日でした。
今後、父が建てたお墓をどうするか、考えねばならない年齢に達して、あとは野となれと死んでしまう訳にもいかず、弟たちと相談せねばならない状態でもあるんですよ。