2008年8月31日日曜日

8月の終わりに

早くも8月が去ろうとしています。散歩道で見た夏を象徴する花、ノ―ゼンカズラとサルスベリ(百日紅)の写真を纏めてみました。あるお宅のサルスベリは、それは見事な枝を張って咲いていました。横山公園ではサルスベリの紅、薄紫、白のハーモニーもきれいです。また西洋ナシ、ナシ、柿が大きな実をつけてました。面白い事に、落ちた柿の実の多くには鳥が啄ばんだ跡があるに反して、西洋ナシは沢山落ちているのに、どれも手ならずくちばしの跡がありません。鳥はちゃんと選んでますね~。










サルスベリ; 木の幹の形状を見ている。
百日紅  ; 花が長い間次から次と咲くさまを見てる。
どこを見るかで随分感じの違う名前になりますね~。
ノ―ゼンカズラだって次から次と咲きますね~。あまのじゃくの私はこれだって百日紅・・・いやちがうか、百日橙か?

2008年8月30日土曜日

北大再訪

1年半ぶりの札幌だが、大きな変貌に驚いた。札幌を東西に分ける創成川が地下にもぐってしまっていた。創成川の両岸を走った石狩街道は大工事中だった。創成川は石狩湾から物資を運び込むために、開拓期に作られた運河で、豊平川から水を引き込み、中島公園の中を鴨々川として流れ、創成川へと引き継がれていたのだが。これで先人の開拓者精神の発露のひとつが消えた。札幌市の発展には大変重要な変更なのであろうから、それはそれとしてありうる話だろう。しかし開拓者精神の継承の材料としては格好の対象と思われる創成川をなくした。札幌市はどのような継承策を考えているのだろうか。

用事の前に北大を30分ほど、ぶらぶら歩いてみた。
中央ローンでは子供たちが歓声をあげていた。中を流れるサクシュコトニ川、昔は鮭ものぼってきたという。その後、枯渇していたこの川は藻岩山浄水場のろ過池洗浄排水上澄水を(下水道に放流せず)サクシュコトニ川に流し、川は復活した。
理学部ローンではジンギスカンパーティーの火をおこしが始まっていた。
2004年の台風18号によって、半分近くの木をなぎ倒されたポプラ並木は、新しくポプラが植えられ復活の兆しが見られた。
しかしポプラ並木から手稲山を眺めると高いビル群がならび、手稲の眺めもひどく悪くなってしまった。
理学研究科と工学研究科の間には中谷宇吉郎先生が低温実験室にて人工雪の作成に世界で初めて成功(昭和11年)した記念碑が設置されている。
また大野池はサクシュコトニ川の水が一旦池となって、更に農場を経て琴似川へと流れ込む。
旧教養部裏手の原始林と云っていた辺りはまだその雰囲気をとどめている。

わずかな時間の間の散歩で撮ったムービーだが、記録しておこうと思う。


2008年8月28日木曜日

旭山動物園(旭川)にて

8月25日、札幌をバスで出発して高速を通って旭川へ。バスを乗り換えて旭山動物園に行きました。旭山動物園は旭川の中心からほぼ東の、旭川の盆地を囲む丘に作られています。すっかり秋モードでハマナスの実も、ナナカマドの実も赤く色ずいていました。
うっかりと、SDメモリーカードをコンピューターからデジカメへ移すのを忘れて出かけてしまったので、内蔵メモリーだけでムービーを撮り、連れ合いのカメラから静止画をもらってスライドを作りました。
それほど広い動物園とは感じなかったが、さすがに夏休みの終盤とて混んでいて、寄らなかったところもあり、残念ながら、ペンギンとアザラシは入っていません。

まずフラミンゴを見て、思わずわが娘が小さい時、「フラニンギョウ―!」と云ったことを思い出しました。
お猿さんもジャングルとはいかないが高いところを渡れるようになっており、人の真上近くまで来れるようになっていて、頭上からの落下物に気をつけよ!なんて書いてある動物園も珍しいのではないでしょうか。
オランウータンの綱渡りの解説では、「途中で止まったら要注意」なんて笑わせていました。
レッサーパンダも人が見てる上を渡っていきます。渡った後、木の上から、じっくりと見物人を見物してました。愛嬌のある顔をしてます。
ホロホロチョウがあんなにけたたましく鳴くとは。
チンパンジーの子供がとてもかわいらしかったです。
アムールトラはやはり迫力がありました。お尻を向けたら要注意なんて。
クロヒョウは近くに来ている鳥が気になっているようでした。
白クマの餌やりの際の飛び込みはなかなか迫力があり、幼児が泣き出すほど。
飼育員がオオカミの吠え声の真似をして呼び寄せて見せてくれました。

ムービーの中に静止画も入っています。魅力を十分に紹介していませんが、ご覧ください。
環境がいいですね~。












2008年8月27日水曜日

三浦綾子記念文学館を訪れて

8月26日朝訪問。旭川駅の西に位置し、忠別川で隔てられているが、バスで10分ぐらいで行くことが出来る。この記念館は三浦綾子の代表作「氷点」の舞台にもなった、外国樹種見本林の中にあり、建物の周りは静かで散策をするのにもよい。建物の中は撮影できなかったので、外の雰囲気だけムービーを編集してみた。最後にちょっとだけ美瑛川が映る。



私はキリスト者でもないし、三浦綾子さんの作品を読んでいない。しかし記念館の中で”読み”、”聞き”したことには深い感動を覚えた。
パネルから書き写してきたもの(誤記がないといいのだが)を記しておこう。
「わたしはしみじみと旭川がいかに北国であるかを改めて思い知らされた。北海道の冬はきびしくそして長いのだ。どんなに、わたしに意味深いことか。」(創作ノートより)
「わたしはたちまち生徒との生活に夢中になった。大声で叱ったり、怒鳴ったり、時にはほほを殴ったり、立たせたりしながらも生徒がかわいくてならなかった。」(石ころのうたより)
「わたしはあの敗戦の混乱の中で、その使命感を失い虚無におちいり、教壇を退いた。いわば脱落者であり、失格者である。/・・・/ しかしよきにつけ悪しきにつけ、教え子たちに及ぼしている影響を見ると、やはり、教育に関心をいだかずにはいられない。」(あさっての風より)

最後に、いとしい時間、という三浦さんの短歌の歌集を購入して、記念館を辞した。山田洋次氏の評「ここにおさめられた短歌は、一人の誠実な女性の美しい愛のアリアである。」に惹かれたか、はたまた表紙を飾る三浦綾子さんのウェディングドレス姿の清冽さにうたれたか、判然としないが。

2008年8月24日日曜日

札幌再訪

一年半ぶりに札幌に来ました。夫々が夫々の友人に会って、私は会食後、大通り付近をぶらぶら歩いてみました。なんとなく町の電光が絞られている感じです。経済の動向を反映しているのでしょう。左は時計台。ここはさすがにライトアップしてました。夫々の写真はクリックすると大きくなります。

テレビ塔と噴水(大通り公園の駅前通りあたりから)

大通りから札幌駅を望む。真っ暗なビルが1ないし2.駅前通りの並木が撤去され、大通りから札幌駅までの地下道(地下街)の工事がおこなわれてました。雪が融けた後また凍って、滑るなんてことを考えると、歩行者には優しいことですが、電気エネルギーはずいぶんつかうでしょうね~。

札幌は半そでシャツでは涼しいを超えて寒く、ジャケットを着て何とかなるぐらい。友人も昨日まではジャケットを着てなかったけど、彼もジャケット着てましたね~。
明日はババ&ジジだけで旭川の旭山動物園、三浦綾子文学記念館の予定。

2008年8月21日木曜日

桐油

桐油を笛の内側に塗ると、笛が長持ちするという記事をネットに見つけた。中が濡れたりするから、その辺も気を付けなきゃと、早速試してみることにして、町田の世界堂に電話してみた。返事は「置いてない」。桐油 相模原 でグーグルで調べたら二本松に取り扱っているところがあった。認識不足で、木材の保護油として使われるのだそうだ。
・表面保護の為の植物油「桐油」をご用意しています。(桐油4L缶 送料込1万円/缶) とある。
そんなに沢山はいらないので、量り売りしてくれないか聞くだけ聞いてみようと電話してみた。量り売りはしてくれそうもない。幸いにも、「どんな事に使うのか」聞いてくれたので、説明したら、笛の内側に塗布すると聞いて「へー」と興味を示して下さって、そんなことなら小さな缶に入った試供品をあげるから使ってみてくれと仰る。親切にも仕事の帰りに届けるからと云って、今日私の留守中に2缶も置いて行って下さった。そのお気持がとても嬉しかったので書いてみることにした。前にも書いたが自転車の中古ベルを下さった自転車屋さん。他にも、散歩中に金属加工の工場に飛び込んで、薄い真鍮板あるいは銅板の相談をしたら、そんなちょっとならあげるよと、自分の仕事を中断して、わざわざ機械で裁断して下さったご主人。なんとも嬉しい思いの連続である。聞いてみるもんだな~とも思った次第。

笛は早速、手元の2本に第一回の塗布をした。あと2回ぐらい塗布して乾かすを繰り返すと、水滴を落として拭いても、濡れた痕が残らないようになるらしい。

追記 実際に塗布・乾燥を3回繰り返してみた結果ですが、もともと音が出しやすかった笛に関しては吹き心地に何か変わったようには感じないのですが、音が出しにくかった笛の音が少し出しやすくなったように感じます。追及する課題が増えました。

2008年8月18日月曜日

蝉しぐれ(2)

Nさんに便乗して、蝉しぐれ。8月8日頃にに上溝 横山公園で採取しました。ミンミン、アブラゼミ、ヒグラシです。クマゼミは入ってません。中頃にテニスコートのあたりで、お山を忘れた鶯が一声鳴きます。その後どうしてるかなー。

2008年8月15日金曜日

雄龍籠山の金毘羅社と川尻八幡宮そして横山荘

 城山町史によると、川尻八幡宮は、応神天皇を祭神として大永五年(1525)に創建されているが(もうすぐ500年)、社伝によれば、もっと古く、舎人親王(四十代天武天皇の皇子)の子孫が奥州に降る途中、病に倒れ亡くなり、従者がこの地に葬り、土地の首長が護持していた石清水八幡宮の分霊を御神体として祠を建てたのが今の川尻八幡宮の始まりとのことである。昭和四年境内の北側からその頃(古墳時代)のものと思われる石室が発掘され、直刀や矢じり等が発掘されている。(碑文とそれらしき跡があった)

 川尻八幡宮の入口から「一の鳥居」まで、一直線に延びる長い参道の延長上から年に2回(2回と云うのは当然でしょうが)、二月十九日頃の雨水の日と十月二十三日頃の霜降の日に日の出を拝むことができるとのこと。(昔は地平線から上がる赤い太陽を見ることが出来たが、今は建物があって、そうはいかない、と神主さんのお話。この御宮さんのお祭りは8月27,28日にあるそうだが、上溝とはまた趣が異なる伝統的な行事があるようだ)

 さて、まっすぐ延びる長い参道を一の鳥居から西を見ると、川尻八幡の杜の奥に雄龍籠山(オタツゴ山)が見える(上の写真。クリックすると大きくなります)。この頂上近くには(城山湖の発電所傍)金毘羅社が鎮座する。文化元年(1804)に住人代表が四国の金毘羅さんをお参りして分霊を持ち帰り、この地に祀ったと伝わる。ここも川尻八幡同様、もっと古くからお社があったのではなかろうか。今は立派なお社があるが、10年前の年越しに参詣した時は階段は崩れかかり、社も今より古びたものだった。(夜景がとてもきれいで、横浜港かどこかで花火をあげるのが見えた)

 松風山寶泉寺と小松城址; 雄龍籠山と川尻八幡を結ぶ線上真ん中よりは川尻八幡寄りに、松風山寶泉寺がある(地図参照;クリックすると大きくなります)真言宗のお寺だが、もともとは平安時代末からあったとされ、その時は今の南東の向かい側(ちょうどカタクリの里近く?)にあったとのこと。
現在の位置は実は1300年ごろに片倉城にあった、長井大膳太夫広秀が出城として築いた小松城の領域で、今の境内に居館があったとされている。城の郭は本堂の裏手の尾根にあった。たぶん寶泉寺は菩提寺として城の領域に移されたのであろう。長井氏は鎌倉幕府の政所で力をふるった公家出身の文官、大江広元の子孫で、和田合戦における勲功により広元には族滅した横山党の根拠地、片倉城以下横山荘が与えられていたのであった。

 戦国期になるとこの地は小田原の後北条に支配される。お寺の南にある自害谷戸は敗れた長井一族が自害した場所として名前が残っている。後北条のもとでは津久井城と八王子城の連絡の城の意味を持っていた。寺から西の方奥に進むと紅葉で知られた評議原と云う場所があるが、これは今度は後北条が攻められた折に八王子城や津久井城から人が集まって評定をしたという。お寺には板碑、石灯籠や、城跡には謎めいた五輪塔や宝篋印塔など石造物が多くあるという。



 横山荘;櫻井徳太郎賞を受賞した松本司氏のB5版29ページの論文「1113年から1213年の横山氏一族の勢力扶植と横山荘」『歴史民俗研究』第1輯 板橋区教育委員会発行(2004/03)において、氏は片倉、八王子あたりではないかという通説を排して、横山党本宗家の所在地として雄龍籠山麓源流地帯に横山荘の中心を求めた。それは8月8日の私のブログ「相原八幡宮と華蔵院(粟飯原(横山)時重の伝承)」で述べたように横山時重が粟飯原を名乗ったということ(相原八幡宮と川尻八幡宮は1.5粁ほどしか離れていない)、それを守るように一族が境川沿い、相模川沿い、そして甲州口に拠点を展開していったことを拠り所にしている。とても全部を紹介出来ないが、要点を述べると:川尻八幡宮の参道と雄龍籠山の金毘羅さんを結ぶ軸線に沿って
 1)川尻八幡の裏手カタクリの里から少し南の辺りにかけて最近まで字名として”小野”が使われていたが、松本氏は戦国末、江戸初期の川尻検地帳に”小野”に因む地名が(若葉台の方に行く道に沿って)並ぶということに気付いた(直上の地図;論文から転載した;クリック拡大)。横山氏の本姓は小野篁につながる小野氏と云われている。
 2)和田合戦で戦死した31名の横山の人々の内、多くの(多摩八王子あたりの者数名を除いて)苗字とこの地域の地名と対応づけられる。
 3)軸線上にある六社明神社は一族の祭神をまとめて祭る神社で、雄龍籠山の神社が山宮に対して、六社明神社が里宮、川尻八幡は里宮本社と見ることができる。この軸線をさらに東に伸ばすと上矢部の御嶽神社(矢部氏)の西鳥居に正確に達するという。更に橋本明神社(藍原氏)の参道も雄龍籠山に向かって線で結ばれると指摘する。小倉八幡宮(小倉氏)は相模川の源流の一つの雌龍籠山(雄龍籠山の南)に向かう。更に大島諏訪神社の参道が雌龍籠山に向かっていること、大島が甲州道の入り口にあることに着目して大島諏訪神社を古郡氏の神社に対応ずけて考える。

 細かい議論は省いたが、松本氏は多摩の北面地域(八王子一帯)と相原―矢部―田名を結ぶ一帯が横山荘を成すであろうと指摘した。科学論文のような論理の運びとは趣は違うが、力作であることは櫻井徳太郎賞の価値も知らない門外漢の私にもよくわかる。この論文についてHON氏は掲示板過去ログ集において、和田合戦後、横山荘を与えられた大江広元=長井氏がなぜ川尻、相原地区に本拠を置かず片倉を本拠にしたのか?と疑問を呈しておられる。私は横山一族が相原―矢部―田名を結ぶ一帯を開拓していたことは間違いないであろうと思う。しかしこれを横山荘と云い得たかどうかは別の考察を要すると思う。

 実は綾瀬周辺を本拠としていた渋谷氏の渋谷荘の北端は相原地区であったという説がある。もしそうなら、渋谷氏が親戚のよしみで渋谷荘の辺境の地を横山党の人々が開拓することを問題にしなかったとしても、横山荘に組み込むことはできなかったはずである。
 もしこの地域に上記のような制限がなかったとしたら、長井氏が生産性の高そうな相原地区を見逃すと云うのは不思議ではある。和田合戦の北条方の勝利は相州北条義時と大江広元の知略と協力が大いにものを云った。和田合戦の後に北条の被官から御家人になった横溝五郎太夫と云う人が上溝城を作ってここを治めたと(「相模原の史跡」;座間美都治著)いうことから見て、相州としては相模の領域分は長井氏に渡さなかったということもあり得るような気がする。(全くの素人考えゆえ、おかしなところは何なりとご指摘いただければありがたい)
関連;「相原八幡宮と華蔵院  (粟飯原(横山)時重の伝承)」「(伝)田名氏 館址  スライドショー」 、 「(伝)野部(矢部)義兼 館址 (上矢部)」 および 「わだ坂」

2008年8月11日月曜日

山中湖一泊


土日と山中湖のペンション馬車道で一泊して来ました。どこも涼しかったようですが、山中湖はとても涼しく一息ついた気がしました。土曜日は道志道の駅付近から雷雨となり、昼過ぎには目的地に到着。馬に乗せてもらう約束でしたが、雨模様で動けず中止となりました。日曜日は早起きして馬に乗せてもらいそぞろ歩き、富士山がうっすらと見えました(写真では林の合間道の先の方に薄ぼんやりと)。そのあと17年ぶりに乗馬(軽早足)のレッスンを少し受けたのですが、やはりだいぶ忘れてました。年寄りの冷や水、お尻がちょっと痛くなりました。
帰りに、花の都公園に寄り、さらに忍野八海まで足を延ばして、角屋さんの美味しい豆腐(お勧め!)を買い、山中湖畔をぶらぶらして帰路へ。道志道の駅でもちょっと買い物して、気分転換の旅を終えました。
早速夕食によせ豆腐を食べましたが、実においしいです。

2008年8月8日金曜日

相原八幡宮と華蔵院  (粟飯原(横山)時重の伝承)

境川の名は武蔵と相模の境界とすることになった安土桃山時代についた名だそうで、その前は高座(たかくら)川、或いは田倉川と呼ばれていた。相原十字路すぐ南のところで、この川に架かる橋を二国橋と云う。二本松から華蔵院の横を通り、この橋を渡って、七国峠を越える道は平安時代からの古道といわれる。この地点はいわば交通の要衝であったであろう。この橋の東と西にわかれて、川のすぐ南側に相原八幡宮と華蔵院がある。



相原八幡宮;境内入口の所に「相原起番地」の石標が建つ。平安末期、横山党の宗家だった横山時重が粟飯原氏を名乗った。その縁からか、後に人々はこの地に八幡宮を勧請して、その境内を相原一番地と定めたらしい。境内には欅の巨木があり、市の保存樹木は数本ある。きっと鬱蒼とした地域であったであろう。
 創建年代は不詳、平成8年に倒れた御神木の欅の樹齢が数百年以上といわれることから推して、栗飯原氏がこの地に進出した(横山氏のもともとの本拠地は八王子横山から片倉あたりと言われている)頃にはあったのではないかと言われている。ご神体は鏡で、華蔵院で護持されているという。

龍源山 正泉寺;天正19年に開かれたお寺で、津久井根小屋の功雲寺の末寺とのこと。400年の歴史を感じさせる、古い墓石が並べてあった。この境内は決して狭いとは言えないが、昔は吉川家の屋敷内にあったお寺とか、昔の武家の屋敷は随分と広かったことだろう。

児松山 華蔵院;真言宗のお寺。 享徳年間(1452~4)僧・秀慶の開創と伝えられ、ご本尊は阿弥陀如来。関東88か所 第62番霊場 相原八幡宮の別当寺であったため神仏習合の影響が強くのこる。境内に相原天満宮も合祀されている。市保存樹木の大銀杏の樹齢は400年とのこと。

粟飯原氏;粟飯原時重、その子時廣は平安末から鎌倉初期の横山党の当主で、横山党はもともと八王子横山、片倉あたりを本拠としていたが、南下して相模原周辺に展開した。弟の藍原孝遠がJR相原駅の東方、御殿峠古道に沿って展開、そしてその子が、上矢部に陣取った矢部義兼である。孝遠の弟、古郡忠重は甲斐への備えとして上野原市 古郡郷、その弟、経孝と子供たちは小倉、小山を拠点として開拓していった。因みに田名に拠った田名広季は時廣の子にあたる。つまり横山党は相原を中心に境川、相模川に沿って進出していた。また時重の娘が和田義盛や渋谷庄司重高に嫁し、もっと前に縁を結んだ海老名氏、また一族が愛甲、荻野に拠り、東方は町田から鶴見川流域まで進出していった。

和田義盛とともに和田の乱を戦った横山党は時重の嫡男時廣の子、重兼の横山宗家並びに上に記した人々を含む一族で、和田氏とともに戦い利あらず敗れ去り、いわば族滅の状態となった。鎌倉幕府は横山の名を残すことだけは許したようで、戦死した重兼に養子を取り(重時)後を継がせた。ただ一族は地方へ散って雌伏する。重時の系は尾張で帰農するが、後に前田利家に仕え、加賀百万石の家老の家柄となる。またその流れの中には徳川家康に器量を買われて、旗本になった者もいたという。

2008年8月7日木曜日

公共の物は私物以上に大切にしたいもの

今朝の朝日の地方版には、市県民税の課税ミスのことが出てましたが、取り損ねて、更に取る方が、取り過ぎで返す分より多いとのことです。一般に、取る方は熱心でも返す方は熱心でないのがお役所(課税はこちらが不熱心でもちゃんと取りますが、還付はこちらが熱心に書類を作って申請しないと返ってこない)。注意肝心ですね。

ところでその隣に、なんとも残念な記事が出てました。図書館の本が、マーカーで塗られてたのはまだしも、一部切り取られていたり、ペットにかじられているものがあったりとのこと。ひどいもんです。
みんなで大声で言いましょう「図書館の本は市民の共有のもの。共有のものは、自分のもの以上に大切にしよう」と。(クリックすると大きくなります)

2008年8月4日月曜日

子供たちとの遊びを一旦終わりにしました

前にも触れましたように、ご近所の小学校5,6年生の子供達3人と、電磁石&電池で鳴らすベル、紙飛行機、横笛を作ろう と云う試みをしました。5,6年生の子供と作業をしながら遊ぶという経験は全くなかったので、私自身彼らから学ぶことも今回の試みの狙いでした。
実施してみて、最初のうち戸惑っている子もいましたが、よく分かったことは、出来合いの物の方が良いのではないかと思いきや、自分で作って遊ぶということへの希求の気持ちが強いということでした。ただ困ったことは、手軽に教材が手に入らないと云う事です。今回は私が学ぶという意味もあったので、初期投資とて、ベルはネットで探して、私の負担で購入しました。紙飛行機の型紙は昔、買ってあったものがあったので提供しました。今後に関してこの辺の手当が必要です。今後の活動の拡大も視野に、町内会の方に相談を始めましたが、どんなことになるか。
実際の実施となるとこれも工夫が必要だと思いました。ベルを作るまでは、かなり集中していましたが、後に行くにしたがい、慣れてきたこともありますが、気が散りやすくなりました。特に笛を作るための工具は1セットしかなく、同時進行で作業が出来ませんでした。第一作目はどれも出来が悪いか失敗になり、刃物を使うだけにこれ以上続けるのは危険と判断し、3人の第二号は趣旨に反しますが、私が作って渡し、吹く練習をして笛の試みは終えました。撮った写真などを挿入してB5版10ページのレジュメを作って配り、先週火曜日で一応の終止符を打ちました。
どんなことを題材とするかと云う事も大きな課題です。この活動に関心を持って下さったネットのお仲間のSさんとざっくばらんにお話をしましょうということになり、心強く思っています。


横笛これは私が一番楽しんじゃったかもしれません。反省を込めて。
横笛はWさんのご厚意に甘えて、竹を使わせていただきました。ハ長調(C調)のものを作るべきと思い、まずは自己流で指孔の位置を決めたのですが、ネットを見ているとやはりその道でいろんな追求が行われていました。その中から7穴C調(7穴8本調子)のものを選び、作りました。ある程度吹きやすいと感じる笛が出来るようになりました。写真は子供たちに配った後に作ったものを含め、手前から第3号(自己流)、以後は7号、8号、10号で、ネットの手法から学んだ方法によっています。8号が最も吹きやすく思います。まだ指の動かし方、吹き方が慣れてないのですがちょっと鳴らしてみました。まず3号。3号はドレミ・・・・のみで、指の間隔が狭かったりして吹きにくくやはり自己流は放棄です。次に最新の10号で吹いたものです。まだ音程に調整が必要のような気がしますが。音が実際より甲高くとぎれとぎれみたいになるのはなぜか?



お粗末でした

2008年8月1日金曜日

駄作2首

又デスクワークが続き、夕方、気分転換に散歩に出ました。今夕は涼しげな風が流れ、なんとも心地よい散歩です。風鈴がかすかに聞こえてきます。大伴家持さんの「わが宿のいささむら竹吹く風の 音のかそけき此ゆふべかも」がふと思い浮かびました。風鈴のお宅の窓辺にノウゼンカズラがほんのりと揺れてます。(写真の真中に風鈴見えますか?写真をクリックすると大きくなります)思わず刺激されて、駄作が浮かびましたよ。ただ、本人は気に入ってます。

「風鈴の 音もかそけき 夕暮れに ノウゼンカズラは ほのかに揺れて」(2日朝修正)

ついでにもう一首(季節外れですが)

「白妙の 野バラとともに 咲き乱れる ジャケツイバラの もゆる黄の花」

言葉づかいが適切かどうかも知らず、31文字以外の約束事などあると思うのですが、全く知らない、メクラ蛇に怖じずの、駄作ですが、これも本人は気に入っています。
今年実は、生まれて初めてジャケツイバラを見たのですが、深く惹かれました。来年にまた見たいものと、楽しみにしています。
花は5月に見たのですが、7月に師をお見舞いする手紙を書いた時にジャケツイバラの写真を添えました。歌もその時思ついたのでした。