上矢部の境川近くに、鎌倉時代のものと考えられる土塁が辛うじて残っています。この土塁は矢部義兼の館の備えの土塁と考えられています。矢部義兼は平安期から鎌倉時代初期、八王子から北相模に根を張っていた武士団、横山党の一族で、野部三郎と名乗りました。和田合戦に参戦して討ち死にしました。
御嶽神社; スライド1)-2)
土塁の北側の方、境橋手前をちょっと西に入った所;矢部氏居館裏鬼門に当たる。神社に鐘楼があるのは神仏混淆のなごりか。
矢部氏居館土塁跡; スライド3)-6)
横浜線矢部駅北口から真っ直ぐ境川方向に進んで右側、上矢部5丁目-1にある。合併前の市域では唯一、明確に(辛うじて)残る土塁。道路側はコンクリートで固めて崩れないようにしてはある。ほんの少しでよい、文化財の維持管理に予算を回せないものだろうか?箱モノを作る予算からちょっと譲るだけですむはずであろう。
薬師堂; スライド7)
土塁の南側の方、上記道路の右側;矢部氏居館鬼門に当たる。図師の長慶寺の末寺。鐘楼はない。
上矢部街道; スライド8)
薬師堂の門前を通る道。境川へ水を汲みに通った道。それゆえ水汲み街道ともいう。
画像板碑; スライド9)-12)
矢部義兼の追善供養につくられたと考えられている。この板碑は丁寧に維持管理がなされていた。
和田合戦; 北条氏を中心とする鎌倉政権は比企氏、畠山氏、小山田氏、梶原氏など政敵や武門の誉れ高い人々を次々と倒していきましたが、その最後の決戦が和田合戦でした。三浦半島の和田氏を中心とする勢力と八王子・北相模の横山党を中心とする連合は鎌倉で北条政権に戦いを挑み、横山党本隊の鎌倉到着が遅れたり、味方のはずの三浦氏に裏切りがあったりして、利あらず敗れました。矢部義兼は横山一族として、和田氏と共に戦ったのでした。京都志向が強かった、源氏も実朝までの3代で終わり、北条執権政治が安定化し、ついには承久の変で京都公家政権を抑え、真の意味の坂東武者の政権が確立したとも言えましょう。
和田氏は坂東平氏の名族、三浦氏の一族でした。三浦氏の行動も一族が生き残るための判断だったでしょうが、結局、後に北条によって滅ぼされています。
8 件のコメント :
流石に郷土史を勉強されている権兵衛さんですね、解説がありますので、色々勉強になります。
身近な視点からの解説は原先生の講義より親密感が沸きますね。今後とも引き続きお願いします。
多摩境のカインズホームに行く途中何度か通りました。歴史があるかもと思っておりましたが、そうでしたかぁ~。今度車から降りてゆっくりみてまわります。
菊池さん
とても歴史家にはかないませんが、下手の横好き、分かる範囲で書いてます。
達夫さん
土塁には道路工事の表示具が放りっぱなしです。土塁の表示板もあまりにひどい状態です。せめて板碑の説明板くらいのを作ってほしいものです。
中さん
実はカインズホームズとコストコのあたりから多摩境駅近くの間に、鎌倉時代および室町期の館跡が地下に眠っています。あの道路とお店群を作る計画は曲げられず、遺跡は埋め戻されちゃったそうです。判断の難しいところでしょうが。
本格的な解説は基より、スライドショーになったり、地図が
大きく出来たりと、歴史の説明と同じくらい凄い事が出来るの
ですね?
本当にスキルが高いのね~~~?
らっこさん
歴史は下手の横好き、少しのめり込むところがあって、もっと家のことをやってほしそうです(笑)
スライドショーは橋本勉強会に参加したおかげ、地図はスキャナーでjpgファイルとして採れば、あとは写真はるのと同じですよ~。
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