ラベル 郷土史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 郷土史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年4月27日月曜日

越境散歩しています。

週3回強の割合で、散歩に出ます。でも最寄駅方面には出ずに、多くの場合境川方面。3度に2度は橋を渡って東京都側に行きます!
さしずめロックダウンだったら橋の袂に人が立つのでしょうかね。
越境すると、先ず目の前に畑が広がり、境川が昔は大きな川だったのかなと思わせる段丘と森の名残が見え、心が休まります。 そして殆どいつも杉林に挟まれた参道を歩いて、 箭幹八幡宮に参り、自分の家族、弟たち一家、そして友の一家が無事にコロナウィルス禍を乗り越えてくれるよう、 家族が遠く離れて暮らす彼らの私にはない苦衷を想い、社の前に立ちます。

帰路は同じ道を歩かず、一寸回り道します。 神社周辺には、ある特定の苗字の方たちのお宅が並び、それも鎌倉時代からずーっと続いているのではないか、どんな風に繋いできたのだろうかなんて想像 したりする楽しみもあります。帰ると約7000歩。
 

2016年5月17日火曜日

小松物語

小松が火災で焼失してしまった。父が存命の折、三浦半島をドライブして、予約しておいて、この料亭で昼食をとったことがあった。父の冥途の土産に見せてやりたかったのと、私自身旧海軍の提督たちが出入りした料亭を一度は見ておきたいという希望があったからだった。
空いていたからだろうか女将と若女将が出てきてお話を聞かせて下さった。食後に二階の広間で提督たちの書を見せてもらったことを思い出す。
失われてしまったものは仕方あるまい。小松の関係者の方々の悲嘆はいかばかりか。
司馬遼太郎氏の街道を行く42「三浦半島記」を読んで、左のような書物があることを知った。この料亭を背景に、山本五十六、米内光正、井上成美を中心とした冷静な判断力を持った提督たちと旧日本海軍の歴史の一駒が語られている。

2016年5月7日土曜日

鑁阿寺(足利氏居館祉、100名城の一つというのだが)

桐生駅で簡単に昼食をとって、電車に乗り、足利に再度戻る。足利氏居館跡を訪ねてみることが目的だったのだが、駅を降りて調べたら市立美術館で「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」という題名の日本人作家の展示をしているとの報に接し、ちょっと寄ってみた。美術館に入ったところで呼び止められ、八ッと見たらなんと、現役時代、隣の研究室の同僚だった。私より3年後に定年退職し、千葉に戻ってきていたのだが年賀状をとりかわすだけだった。彼は館を出るところだったので、互いに挨拶して別れたのだが、なんと10年ぶりの再会。あまりの偶然にびっくり。
展示はこんな角度の見方もありかと思い、興味深かった。でもやっぱり棟方志功の作品には惹かれる。正岡子規、北原白秋、草野心平などに交じって高村光太郎も詩人の作品の中に入っていた。特別展示室で関連企画として、「連画のいざない」という一連の作品の展示があった。連歌ではなくて連画。これもちょっと面白かった。
あんまりのんびりもならず、歩いて足利氏居館祉たる鑁阿寺へ。四方は小さな堀で囲まれ、その内側には土塁が積まれている。鎌倉時代に成立した豪族の居館の跡といった形だが、館を思わせる建物はなく、中央に鑁阿寺の本堂がある。実は足利家第二代当主、足利義兼が館を、改めて鑁阿寺としたらしい。つまり早い段階からもう館の意味は失っていたらしい。前述したように足利氏自体は鎌倉幕府が確立するころから鎌倉に移ってしまったのであろう。それでも、100名城の一つに数えられているのは、堀と土塁が当時の構造を知る痕跡として価値があるのかと思われる。わずかに足利氏と結びつくものは北の端に御霊屋と云うのがあって、室町幕府15代の将軍たちの木造が安置されているという。
小山ー高崎を結ぶ両毛線には昔、湘南電車と呼んでいた車両ではないかと思うが、沢山走っていた。

2016年5月5日木曜日

旧桐生高等染織学校本館(群馬大学工学部同窓記念会館)

折角行くのだから、日帰りはないだろうと宿を探したのだけど、直前だっはたため足利では空きはなく、桐生まで足を延ばして一泊した。足利もそうだが桐生も太平洋戦争の惨禍を逃れていて、その意味では明治大正期の文物は沢山残っている。桐生一泊の翌日は5月2日、月曜日。多くの博物館は閉まってる、或いは開始時間が遅い。博物館めぐりはやめて、早めの朝食をとり、さっと群馬大理工学部キャンパスを訪れ、群馬大学工学部同窓記念会館を訪ねた。旧桐生高等染織学校本館である。
この種の建物の大正初期版。講堂のつくりは古色蒼然たるものはあるが、当時の気概を見るような、重みを感じた。
帰路は本町通を桐生駅の方へ徒歩で、古いつくりの家の写真を撮りながら戻り、途中からバスに乗った。
 
ウナギやさんの泉新は前夜夕食をとったが、とても美味しかった。

2016年5月4日水曜日

足利学校

フラワーパークからシャトルバスで足利市内へ。足利学校へ。創建については小野篁(平安時代)説、足利義兼(鎌倉時代)説などあるそうだが、歴史上はっきりしているのは室町時代に関東管領、上杉憲実が現在国宝に指定されている書籍を寄進して再興したころ以後のこと。足利に来ておやっと思ったことは、この地に土着して、発展しその後室町幕府を開いた足利氏なのに、この地におけるその足跡が薄いこと。勿論戦国時代、北関東は戦乱に明け暮れたらしいから、古くからのものは失われていることだろうけど。理由の一端は次のことのようだ;足利氏は源頼朝が平家に対して挙兵するとすぐ頼朝のもとに馳せ参じ、同じ河内源氏ということで重んじられ、結果足利は本願の地ではあっても中心勢力は鎌倉に常駐。頼朝の家系が滅んで実権が北条氏に移っても無理せずNo2を続け、その間に三河、尾張方面に根を下ろした。庶流の斯波氏、吉良氏、今川氏など東海道沿いに発展している。京都に上るには格好の中継拠点を作っていったといえる。
さて足利氏のことはさておいて、当の足利学校、全国から学生を集めて教育を行った。江戸時代に各藩に出来ていった藩校の範となり、江戸末期にはその役割を終えた。パンフレットからもらった図を転写しよう。クリックすると大きくなる。儒教を講じたゆえか、中心に孔子廟があり、南側に勉学の場の方丈、校長たるしょう主の部屋、書院があり、生活の場として、庫裡が隣接し、更に西の端に寄宿舎たる衆寮が再建されている。周囲は堀と土塁で囲まれていたらしく一部が再建されていた。裏手の方には昔のままの土塁の跡が見える。少し狭いが落ち着いた学びの場という雰囲気である。江戸期に庶民のために作られた、岡山池田藩の閑谷学校の佇まいを思い出した。

2015年8月22日土曜日

新潟―佐渡―直江津#5(直江津編;謙信の城跡、身にしみた親切)


直江津と隣の高田市が合併して今は上越市となっているが、私は直江津に興味があった。ここは古くは越後の国府があった。室町時代には上杉氏が守護となり、重臣の長尾氏が守護代として入部し、戦国時代には戦国大名になり、関東に、行き場を失った上杉の家督も獲得した。その拠点、春日山城は直江津のすぐ傍にある大規模な山城で詳細はともかく、どんなところなのか是非見ておきたかった。
直江津駅そばからバスに乗って、約10数分で埋蔵文化センター(左図、左下方)についた。途中、府中とか国分寺と云った地名があって、国衙があったことをしのばせる。埋蔵文化センターにはそんな太古の発掘物の展示もあった。私は謙信がどんなふうに守りを固めたかに興味があってそのような情報を見ながらしばらく過ごした。
カメラの設定を失敗してしまい載せられる写真が少ないが、下の左側の写真は春日山城に対する支城群の配置、右はお城の中心があった部分。クリックすると大きくなります。
酷暑の中、お山に上る元気はなく、麓付近を歩いて、上の略地図の右中ほどにある、林泉寺へ行った。謙信が幼少期に預けられ養育されたお寺さん。城から移築したという山門が立派だった。ここの博物館、規模は小さいが面白く拝見。下は林泉寺山門と、鬼門を抑える春日神社入口。
林泉寺から春日神社入口まで戻ってきた頃は、暑さでだいぶフラフラ。それでもがんばって、ものがたり館まで行って一休み。 そこで、食堂を紹介してもらって、広い道に出て、昼食に飛び込んだ。ランチメニューと言うのが面白くって、ご飯、味噌汁、箸休めもついている。後でコーヒーに果物があって、その他におかず5品から2品を選ぶ方式。カサゴの塩焼きが目に入って、もうこれと決めようと思ったら、お隣の土地の方らしい夫婦から声がかかり、カサゴが美味しいよと。やっぱり。私はカサゴの塩焼きと夏野菜の煮物。カミさんもカサゴの塩焼きに、てんぷらセット。980円は嬉しい値段。とても美味しくいただきました。
お隣のお二人さんから、どうしてまたこんな辺鄙なところへ来たの?と尋ねられて、今回の旅行の話やら・・・・。「天地人」をやっていた時は賑わったけどねーとのこと。ご主人は毎日自転車三昧の体。奥さんは「偶々この近くにマッサージに来たから主人呼び寄せて、ここで昼食してるの」とのこと。ご主人は又ひとっ走りと一足先に出て行かれたが、「町の向こうに住んでるから、バスなんか待たずに、遠慮せずに家内の車に乗せて行ってもらいなさい。」なんて言っていかれた。まさにそうなって、奥さん運転の車に乗せてもらって直江津の駅まで。まあ全く見ず知らずの人間にここまで親切にされるとはと感謝一杯でした。カサゴが縁の嬉しい一時でした。
帰りは直江津から妙高はねうま線で上越妙高、そこから新幹線で長野経由で東京に帰ってきました。

2015年7月29日水曜日

新潟―佐渡―直江津


連れ合い殿が新潟県を訪れると全ての都道府県に足跡を残したことになるから行こうと云った。私もちょっと興味があっていくことにして、今直江津にいます。明日、謙信の春日山城址近くをぶらっとして、帰相します。
佐渡はいろいろ興味があるのですが、我が相模の国ともかなり深いかかわりがあるのご存知ですか?
鎌倉時代,横山党の一族の海老名氏はまさに海老名に拠っていましたが、その一族本間氏は依知に本拠を持っていました。その中の本間能忠は北条氏の一族の大仏氏に仕えていました。その大仏氏が佐渡の守護に任ぜられ、結果、本間能忠が守護代として佐渡に赴き(1185年)、後大きく栄えた佐渡本間氏の祖となったとあります。
また、和田の乱(1205年)で敗れ、敗走した横山党などの人々の一部は佐渡まで逃れたとあります。そして承久の乱によって、京の都側が敗れ、順徳上皇が佐渡に流されるわけですが、勢いを得た鎌倉幕府は沢山の地頭を佐渡にお送り込んでいます。藍原氏(相原付近にいた)、土屋氏(平塚が本拠)、渋谷氏(綾瀬が本拠)等だそうです。そんなわけで神奈川の真北にある日本海の大きな島は実は歴史的に見て、相模とは深いかかわりがあるのでした。帰ったらチョットだけ旅行記を書きます。

2015年2月3日火曜日

暦の上では明日から春、花が咲きだしましたね。

今日は節分、明日は立春。横山公園から丹沢山塊を遠く望むと、くっきりと雪は残っているが、陽光を受けて何となく冬の厳しさはどっかえ行ってしまった感じ。そして、横山公園には、そこかしこに春の兆しが見えていた。山茶花はもう一杯に咲いている。
花の写真の前に、横山公園の日時計を紹介。
プールの建物とテニスコートの中間に設置されてます。行ったときは11時25分、ところが日時計はの影は11時28分。私の時計は正確なはず。ふと見ると、補正のためのグラフが付いていて、それを適用すると11時25分となり、時計と一致した。
梅の木は多数あるが、一本だけがピンクの花をつけていた。
アセビ(馬酔木)は一輪だけ先を急いで花をつけていたが、他は皆蕾、コブシ(辛夷)も蕾が一杯ついていた。陸上競技場事務所傍の花壇には色とりどりのパンジーが沢山咲いていた。そのひとかぶ

もうすぐ春ですね。

2013年9月24日火曜日

湯たんぽ??

23日に東光寺のお墓参りに。
背の君のところに送られてくるフランス観光関係の情報メール中にフランスレストランウイークの紹介があり、お寺のすぐそばのレストランが紹介されていた。都立大学駅から歩いて数分、落ち着いた感じの良い店、chouette。いつもはお参りの前にエクセルシオールで昼食を済ますのだが、今般はこちらで昼食。ほんの少し濃いめだが中々良い出来の料理を手ごろな値段で出していた。と言っても、翌日以降大いに節約する必要を感じるが。
その店の壁に柄のながーいお鍋のようなものが飾ってある。ふたには穴が開けてある。「これ何?」って聞いたら、「いや実は湯たんぽなのです。」「お鍋の一種と思ってお土産に持ってきてくださった方がおられて、うちでもそう思って飾ったのですが、実は調べたら・・・」なのだそう。「どうやったら湯たんぽとなるのか?」「なぜ柄が長いんだろう」「昔は金属の入れ物に炭を入れて、アイロンとして使ったが」なんてひとしきり。未だ解は無い。

東光寺には、奥州探題から転じて武州世田谷豪徳寺付近に土着し、鎌倉公方に仕えた吉良氏の当主の夭折した子の墓三基がある。後に蒔田氏と呼ばれた。
江戸期に、吉良宗家が例の事件で絶えてから、吉良に復姓した。 私が子供のころには、ケヤキの大木などかなり多くの樹木が寺領を覆っていたが、だいぶ切ってしまわれたようだ。

2013年5月26日日曜日

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

用事があって新橋に出たついでに、旧新橋停車場 鉄道歴史展示室に寄ってみた。汐留駅として、貨物系の操車場があったところである。今の新橋駅の東方にある。ここから横浜への日本最初の汽車の出発点だったところだということで、小学生の時に、見学に行ったが、そのような史跡は全く見られなかったと記憶している。

1986年に汐留駅は廃止になり、1991年から発掘が始まり、遺構が出土し、遺構の上に駅舎、プラットホームの一部が復元されている。大きなビルの谷間にあって、ちょっと見には分かりずらい。建物は展示室とレストランとして使われていた。
左はプラットフォームの石組みの跡だそうである。展示室内部の写真撮影は禁止だったが、I型レールとか、当時の犬釘その他こまごましたもの、更には中々見ることが出来ない写真の展示があった。
 

2013年2月16日土曜日

鶴見 寺尾城址

菊名ー鶴見を結ぶバス路線の中ほどに寺尾という地区がある。この地区のコミュニティーセンターで、ボイストレーニングを受けているのだが、ここでトレーニングを受けるのは今日で3回目。
1回目の時から気になったのは、殿山、馬場谷、馬場などというバス停名があって、これは城とかそういった史跡がありそうな所だと感じた。早速ネットで調べたら、戦国時代に小田原の後北条に仕えた諏訪氏がこの辺を治めていたという。
諏訪氏とは、あの信州の名族、諏訪氏の支流であるとのこと。しかし、その真偽のほどは分からないらしい。諏訪坂なんていう地名も残っている。北条と他家との交渉の使者に立ったこともあるらしいから、諏訪という名の威力はあったのだろう。

今日、雨が降ってはいたが、3時ころにレッスンが終わったので、城跡らしきところを歩いてみた。城というより、砦といった規模のものだったようだが、岡や谷が入り組んでいて、谷戸らしい地形もあり、なるほど砦を構えて、武士団を養うにはいい所なのかなーと思った。上の写真は発掘によって見つかった空堀の跡地に作られた小さな公園にあった説明文。

2012年9月11日火曜日

歳を経し

父の13回忌。東横線都立大学駅から歩いて数分の東光寺へ。そうだ、都立大学は南大沢に移り、名前も変わってしまっているのに、この駅名は変わらない。
駅を降りてふと目に入ったのが古ーい駅周辺の写真。昭和20年頃とのことだが、この地は学芸大学駅(当時は第一師範という駅名だった)から坂を下りてきて、今度は自由が丘方向に坂を登る、その谷底に都立大学駅はある。(当時は都立高校前駅だったと思う。父が府立高校と云ってた事を思い出した。東京府だったころはそうだったはずだ。)今では線路は高架化して、プラットホームも上にあがってしまっているが、私は高架化する前のこの駅をしょっちゅう利用していた。この写真は渋谷側から撮ったものである(写真はクリックすると大きくなる)。もうこんな景色は戻ってこない。

13回忌の法要のあと、兄弟そろって、夫々の仕事の定年を迎えたし、それをも寿ごうと、食事を共にしたのだが、”最長老”が話題になり、弟達に笑われてしまった。事の発端は数日前、従妹から電話がかかってきたのである。父の世代がやっていた、いとこ会を次の世代もつづけようという。”もうそんなことやるの・・・・・”と遠慮を申し出ようと思いながら応対していたら、彼女はこちらが思っていたより遥かにてきぱきと話を進め、「京都の○○さんがちょっと体調がすぐれないので参加いただけません。そうなると、きよしさんが男性の最長老、必ず出席いただく必要があるので日取りをご都合に合わせます。」と。”ぎょえー!! サ、サイチョウロウ!!”。全く自覚なかった。○○さんや二つ上のはとこのAさんとはこどものころよく遊んだのだが、Aさん去年、パット逝ってしまった。そうか、あらがえない。何か、急に足元がふわふわしたような、別世界に追いやられてしまったような気分になってしまった。

2012年6月24日日曜日

小山内裏公園

上高地ではありません。小山内裏公園の大田切池です。多摩境近くのスーパーにお供したついでに、ちょっと寄りました。公園のほとんどの地域は雑木林で、動植物サンクチュアリー。人は入れなくなっていますが、主に外側をぐるーっと回ってくることが出来、要所要所に休息が出来るようになっているようです。北側の真ん中あたりにビジターセンターがあって、バーベキューコーナーがあり、3グループが楽しげに過ごしていました。またビジターセンターの前には里山広場があり、若い家族連れが楽しげに過ごしていました。 水が湧き出し、大田川の源流をなし、大栗川と合流して多摩川に流れ込みます。
右は里山広場で見た、タイマツ草。コロコロのバンブービー(?)が2,3匹せっせと働いていました。
さて、”内裏”です。ビジターセンターに入って館員の方にその由緒を尋ねてみました。実はこの辺は、昔から落人が隠れ住んだ地域だそうで、その中に公家さんがいたとのこと。公園の東方にある内裏谷戸あたりに住み、当初は公家谷戸と言われたらしいが、そのうち内裏谷戸と呼ばれるようになったとのことでした。そういえば最近はずいぶん開発されてしまったが、小山田から長池公園あたりだって、平成の初めころは未だ、隠れ里のような雰囲気がありました。
緑豊かで、休息の場所として絶好。きっと紅葉の時期も良い雰囲気になるに違いありません。 お連れがあまり調子よくないようだったので、又いつか来ることにして、長居はせず帰途に就きました。

2012年5月28日月曜日

蒔田&弘明寺

吉良上野介で知られる吉良家は足利家の有力な庶流で三河国幡豆郡吉良庄に拠って、足利氏にとっては東国と都との中間にある重要な兵站拠点をなしたと考えられる。
この一族の一部が別れ、世田谷豪徳寺辺りから奥沢のあたりまでを領有したようで室町時代には、関東では鎌倉公方(足利氏)、関東管領家(上杉氏)に次ぐ家格を有していたらしい。世田谷勝光院や目黒の東光寺に一族の墓がある。
しかし戦国時代末期になると、小田原の後北条家に組み込まれることになり、横浜の蒔田に城を作って本拠を移し、蒔田御殿と呼ばれたらしい。城跡の丘には横浜英和という学校がたっているが、丘のふもとには竜禅山勝国寺が菩提寺としてなごりを残すこの吉良氏は、江戸時代には蒔田氏と改姓して徳川家に高家として仕え、吉良上野介義央の代で吉良の本宗家が断絶した後は、蒔田氏が吉良に復姓した。

蒔田の地をちょっとブラっとした後、弘明寺に出た。弘明寺は座間の星谷寺と同じく坂東三十三観音の一つで、第十四番霊場であるが、それとは知らず、私は小学校にあがった頃はこの辺をかけずり回っていたのだった。
門前をまっすぐ伸びる商店街も、アーケードつきとなって賑わっていたが、ちょっと東にあった、立派な太ーい欅が無くなってたのは残念至極。