2014年8月29日金曜日

沖縄そして朝鮮半島

太平洋戦争の敗戦後、日本の本土には連合国軍(米国中心+英+豪)が占領軍として存在しました。軍政は布かれず、主権は日本側に残りました。しかし占領軍のGHQが強い影響を及ぼし、憲法もその意向に従って起草され、決まりました。そのことが今も議論のタネになっています。この占領状態は1945年から1952年までで、サンフランシスコの講和条約によって独立状態になりました。この間、戦後暫くの間だったと思いますが、屈辱的なことの一つに、封書の検閲がなされたのをご存知でしょうか。封書が開けられ、更に閉じられ、その事の証拠として再封の部分に横文字でナンタラ、プリントされていました。子供の頃のことですのでどんなことが書かれていたかは分り知りませんが、占領軍側によって封書の中身が検閲されたのだと親から説明されたのを明確に覚えています。マスコミの事前 検閲もあったようですね。軍政を布きはしなかったが、占領軍がいかに神経をとがらせていたかが分る一コマです。
しかしもっと厳しい状況に置かれたのは沖縄や小笠原諸島で、本土とは異なり、終戦後米国が領有することとなり、完全な支配下に置かれました。特に沖縄は戦略上の重要拠点であっただけに、大変であったと思われます。この状態は1972年に日本に返還されるまで、27年間続いたのです。返還後も米軍の存在が大きくのしかかったこともかかわることではあるでしょうが、沖縄の人々のあれほどのアレルギー的反応に接するにつけ、27年間占領下に置かれた屈辱感、苦痛の念からくる強い気持ちが反映されたものであろうと思い、その痛みを感じないわけには行きません。米国の統治は軍が中心に行ったものですが、所謂、軍国主義的な苛烈なものではなかったはずです。それでもあれほどの気持ちが出てくるのです。私の大学時代は1960年台前半ですが、同期生に沖縄から来ている人が一人いました。彼は留学生扱いでした。彼がそれをこっそり伝え、パスポートだったと思うが、何か特別の身分証明書を見せた時、本当に気持ちが重くなったのを覚えています。
私は、沖縄に対して何も有効なことができないけれども、沖縄の置かれた状況については、いつも心にとどめて置きたいと思って居ます。

同じような観点で、前に触れた朝鮮半島の併合統治の問題を見てみたいのです。 朝鮮半島の併合統治の期間は1910年から1952年の42年間という長きにわたりました。その間、大正年間の一時期には穏やかな善政が布かれたのですが、統治の初期はきついものであったし、満州事変など戦争の激化にともなって苛烈なものとなった筈です。日本語でしゃべる、更には名前も日本のものに変えるなんて事もありました。もし自分がそのような立場に置かれたらと思うと、そのことだけでも、たまらない気持ちになります。42年という歳月とその間の屈辱感の積み重ねには、同じ人間として思いを致さないわけには行かないと思います。併合統治に伴って、朝鮮の人々の間に生じた内部矛盾、それを克服するためになされた酷い反日教育には触れました。 賠償などについては国家間の交渉事によりますが、既に決まったことの解釈のずれが双方の間に生じたりしています。これは冷静に理を尽くして話し合うべきでしょう。民衆レベルで、売り言葉に買い言葉のようなことはするべきでないなーと思います。行われた酷い反日教育の誤謬の部分に気付いてくれるよう、誠実な態度を持ち続けたいと思います。

2014年8月23日土曜日

高田橋花火_2014

相模川にかかる高田橋での花火が今年も実施されました。仕掛け花火は無理ですが、打ち上げの花火は我が家のベランダから良く見えます。今日は午前中薄曇り、昼過ぎにスコールがありましたが、夕方からは晴れて、河原へ人を運ぶバスはすごく混んでいました。 約1時間半の打ち上げの時間から、動画を時々撮って、約20分に編集しました。20分は長いなと感じる方には最後の5分が良いかもしれません。

愛する国、日本へ

私は、我が郷土、日本が好きです。当然、自分の心にすんなりと受け入れられる国です。
他国から理不尽なことを言ったり、されたりすることは好みません。
だからこそ、日本が他国に理不尽なことをしたり、言ったりするのは、なおの事嫌います。
しかし人間悲しいかな、理不尽なことを言われたり、されたりすると、なにお! と思ってしまいがちです。
他国に理不尽なことを言ったり、されたりすることのないよう努める必要があると思います。
例えば、一つの譬えですが、殴られないような備えも必要、だけど相手が殴ろうという気にならないような 努力をしないといけないと思います。それは、政治だけでなく、我々国民それぞれも、いつも心せねばならないことだと思います。

首相の内向き発言のみが目立つ今の政治にはうんざりします。おおよそ。子ども同士が喧嘩して、互いに怪我をして、双方の親が出なければならなくなった時、親というのは表では相手の子どもの傷を気遣い、必要な処置をして、家に帰ってから、自分の子どもの言い分を聞き、事の理非を説くものではないでしょうか?

首相というものはいくら内向きに語っても、その声は何処にでも聞こえてしまいます。首相たるもの国を代表して国の運営に任っているのですから、内向きに語るとしても、同時に外に対する気遣い、配慮をお願いしたいものです。何時でもオープンだと言っても気遣いがなければ、日本が外から特別に好かれていない限り、閉じているのと同じでしょう。

戦前、日本は朝鮮半島を併合、統治していました。また満州では傀儡政権を作って思うように統治していました。その間、善政を布いて、当地の人々を古い体勢から解放すると云った良い面もあり、当地の人達のなかには日本に慣れ親しむ人達もいました。しかし、当然のことですが、それを屈辱と感じ、独立運動、抗日運動に身をささげた人たちもいました。戦後、日本がいなくなってからの当地は、酷い混沌、互いを責め合うようなこともあったはずです。これを克服して、国をまとめていくために、選ばれたのが激しい反日、日本排撃の教育でした。 そういう教育を受けた人々の多くが今、彼らの国の運営に任っているのではないでしょうか。そんな不幸な事情を深く思います、そして教育の大事さを深く思います。
なされた教育が偏っている、中身がおかしいと言っても、他国の事、我々は口を出せません。もし仮にそれが善政を布く時期があったとしても、他国を併合するということはしてはならないこと。日本が他国を統治してしまったという、不幸な歴史を客観的に見つめ、じっと真摯に対応し、雪が解けるような努力をする必要があると思います。こういうことが出来れば、それこそ「美しい日本」ではないでしょうか?

イソップの寓話「北風と太陽」は生きた教訓だと思います。

昨日、父母の兄弟姉妹とそれぞれの連れ合いの世代のうち、ただひとりだけが残る状態となり、私の世代が最年長者の状態にぐっと近づいてしまいました。その中でも最も歳をとった方の部類にいる自分を強く意識しました。言うべきことを言う時間もそんなに長くないことを意識します。

2014年8月16日土曜日

鉄道博物館(動画入れ替えました)

老人2人で鉄道博物館へ。着いてすぐ、駅弁を買って、外に設置された電車の中で昼食。すぐ1Fのヒストリーゾーンへ。テッちゃんじゃないんだけど、興奮しちゃいました。先ずは左の、C57型機。北海道では室蘭本線で活躍するのを見たり、新聞に伝えられたのを見たように思います。最後に載せた動画に、この機関車の汽笛とターンテーブルに乗って方向転換する様が見られます。

興奮に火が付いたのは右の機関車を見て。中が見えるようにしてあるだけではない。動輪が六つもあるのです。C57は三輪、だから、多分、Cが付く。じゃあ、この機種はFが付くかというとそうではなく9856だったような気がするが数字だけが表示されていた。凄いのが後ろ3輪に対して一つのシリンダーが対応してその3輪を動かし、そのシリンダーからの排気が、前のシリンダーにお送り込まれて、前の3輪を動かすそうで、大正期から昭和13年まで使われたという。
写真上の左の写真は真横から撮ったもの、二つのシリンダーが見えるかな。写真はクリックすると大きくなります。右は逆側の車輪近くから前を向いて撮った。手前の筒状の物が後ろ3輪用のシリンダー、前の方に前3輪用のシリンダーがわずかに見えている。 最後に動画。
ちょっぴり疲れたが、楽しい疲れでした。

2014年8月10日日曜日

未来志向の言葉でお願いしたいもの

安倍さんは「美しい日本」、「戦後レジームからの脱却」とか「日本を取り戻す」とかいろいろ仰っています。
「戦後レジームからの脱却」は戦後の政治体制には戦前、戦後のいろいろな不要なものを引きずっているであろうから、それから脱却して新たな体制を作ろうと云う意味ならよく分ることです。
「美しい日本」も言葉だけならそれは素晴らしい。だけど従軍慰安婦問題に関して河野官房長官談話を検証して官憲による強制連行を裏付ける証拠は見つからなかったと言いました、そして日本に責任がないと、国内向きには言いたいようです。潔くないです。そんな潔くないことを言って、それが「美しい日本」に沿うことなのでしょうか?美しくないこと甚だしいです。
「日本を取り戻す」何のことかさっぱりわかりません。取り戻す中身には、過去の暗い悲惨な日本が含まれてないことを願いたいものです。この言葉は当然若いこれからの人たちに語りかけたいのだと思います。それなら何故、「平和で、活力に満ちた日本を切り開いて行こう」といった、前向きの未来を志向した言葉で語りかけられないのでしょうか?
我々民衆は明るい未来を志向しましょう、そして若者に、もっともっと前向きな言葉をかけて行きたいと思います。
深い洞察力と正確な判断力を持った人、是は是、非は非とはっきり言える人が一人でも多く育つよう寄与したいものです。楽観はできないが、戦争のない社会に少しでも近づける力として働くのではないでしょうか。
そのためにも、小さなうちからいろんなことに疑問を持って、考えを巡らせる機会に恵まれることが望まれます。

2014年8月8日金曜日

河野官房長官談話の検証と結果公表の意味

1993年8月4日に発表された河野官房長官談話とは、いわゆる従軍慰安婦についての政府の公式発言で、端的に纏めるなら、その募集、移送、管理などが甘言、強圧など、総じて本人たちの意思に反して行われたことを認めて、お詫びと反省の意を表したものでした。これは時の政府が外に向かって公言したことです。
安倍政権がこれを検証すると言った時、どうゆうことなのだろうと思いました。日本国政府が前に言ったことはあやふやだから調べ直すと公言したも同然のことです。そして、検証の結果、官憲による強制連行を裏付ける証拠は見つからなかったと言ったわけです。私はここで二つ問題を感じます。

1)政府は検証結果にも関わらず、河野談話の見直しをするとは言いませんでした。寧ろ外に向かっては河野談話を維持すると言いました。つまり今更見直しなどとても出来ないことは予め分っていたのです。じゃなぜこんなことを公言したのでしょう。
キャロル・グラック女史の去年の発言を思い出します。「安倍首相を含む自民党の右派政治家たちは長い間、戦後問題やナショナリズムに関わることを国内政治扱いにしてきました。加害責任を否定することで、国内の支持を得ようとしてきた。彼らはまるで、自分達の話す日本語は海外では全く理解されないと思っているようです。実際はソウルや北京やワシントンに直ぐに流れるというのに。これは一種の『地政学的無神経』です」。案の定、駐韓日本国大使は韓国外交省の第一次官から「日本政府の信頼性と国際的評判が傷つくことになる」と釘を刺されたようです(朝日新聞8月6日、第16面河野談話検証の項)。
長期政権を目論む安倍さんは、外交を犠牲にしても、検証結果を公表し、人気を得たかったのでしょうか?
((ちょっと疲れましたね、花を))
2)官憲による強制連行を裏付ける証拠は見つからなかったと言って、いったいどれほどの意味があるのでしょうか?第二の疑問です。河野談話を発表した時には十分な検証が足りなかった、もっとちゃんと調べるべきだったと批判して今後の糧にする意味はあるでしょう。
しかし官憲による強制連行を裏付ける証拠は見つからなかったと言うことによって、日本に責任がないとする勢力があります。実に見苦しい言い逃れです。当時は朝鮮半島は日本の統治下にありました。つまり戦争をしながら蹂躙したのとは違うわけで、軍の意を受けた現地の業者が主に手を下していることは想像に難くありません。それで日本に責任ないと言えるでしょうか?人権を蹂躙したことに変わりは無いように思います。小熊英二氏が「原発事故は電力会社が起こしたことだから政府は責任ない」とか「(政治家の事件で)秘書がやったことだから私は知らない」と云う見苦しい言い訳と同等(朝日新聞8月6日17面)と見ることに全く同感です。
同じ紙面に、キャロル・グラック女史が再び投稿していて、「強制連行を裏付ける証拠は見つかってない」などという発言を繰り返すと、世界中の反感を引き起こすことになる。米国で慰安婦の碑や像が増えつつあるのはその一例だ。と結んでいます。

どうして?困ったちゃん達

言葉に気を付けてなんて書いてられない問題です。
「よいこは、しずかにあそべます おおごえでさけばないでね!!」という看板が宮崎台駅近くの公園に貼り出されているとのことです(朝日新聞8月8日第2面)。
娘の住むマンションでも子どもの声がうるさいという苦情がシニア世帯から出されたと言います。
一体何を考えているのでしょう。うるさいかもしれないが、子供の元気な声が聞こえてこそ、明るい未来が期待できるというものです。ウルサイと苦情をいう人たちは自分が子供の頃どうだったのかも思えない、バカとしか言いようがありません。
少なくも私の年齢は、世が世なれば姥捨山に行く年齢。そうしないで済む社会に生きていることを深く思います。どうしても子供の元気な声を聞かないで済む、静かな余生を送りたいなら、老人村でも作って住んだらいいでしょう。
少子化云々という問題の中には、子育てが終わった世代が、子育て世代を暖かく見つめられるかどうかも含まれています。自分がいなくなった後の未来を大きな気持ちで見つめたいものです。

2014年8月3日日曜日

Rhodes島からの便り

パリに住む姪がエーゲ海の東に浮かぶロードス島から封書をよこした。中にはカードが入っていて、友人の結婚式に出席のために来ているとのこと。カードの写真が色彩豊かに家々の様子を描いているので載せる気になった。クリックすると大きくなります。
彼女も結婚して一女をもうけ、その子も二才になる。ちょこまかと動き回り、お転婆ぶりを発揮していて、大変と言いつつ、嬉しそうに近況を伝えていた。
最後に姪が娘の漢字で表した名前と自分の名前、そしてその連れ合いが、カタカナで我々が呼ぶ彼の愛称をしっかり書いていた。ほほえましくも、嬉しい便りだった。