2016年5月29日日曜日

深い感動

5月25日の朝日新聞のオピニオン&フォーラムというページに、オバマ大統領の迎え方と題して、塩野七生さんへのインタビュー記事が載った。
ヨーロッパにいて、歴史を考え、またアジアの様子をじっと見ているはずの塩野さんの意見は確かに傾聴に値する。塩野さんは、オバマ大統領に謝罪を求めず、無言で静かに迎えることが謝罪を声高に求めるよりも断じて品位の高さを印象づけることになると指摘し、「『米国大統領の広島訪問』だけなら、野球でいえばヒットに過ぎません。そこで『謝罪を求めない』とした一事にこそ、ヒットを我が日本の得点に結びつける鍵があります。」と述べた。得点かどうかは別にして、私も心からそうなるとよいと思った。謝罪の言葉を求め、そしてそれを引き出しても、大きなものが残るか、それよりも重い物をオバマ氏が担って、将来に向かって何かをする決意を新たにしてくれれば、ずっと明るい気持ちになれると思った。しかし、いくら政府がそうなるようセットしても、メディアがそれに協力しても、被爆者やその子孫の人々がどう思いどう行動するか、市井の民の一人としては、それを黙って見つめるしかない。
平和公園での行事は静かに始まり、静かに終わった。オバマ氏の言葉と表情から、将来へ向けて、力強いものを感じた。最初から最後まで、デモンストレーションのようなものを見ることはなかった。あったとしても、メディアがわざと取り上げなかったのかもしれない。でも、あったとしても小さな規模のものであったことであろう。多くの被爆者の方々はオバマ氏の言動を静かに見つめておられたと私は受けとめている。
オバマ氏が去った後の会場の映像を見ながら、私は深い感動を禁じ得なかった。70年の間の被爆者としての活動の中には、心の激しい状態もあったことであろう。心の底に塊のようなものを残しながら、活動が被爆者自身のためだけでなく、非核という世界平和の運動へと向かって行ったかのようである。そして、被団協の坪井氏がオバマ氏と握手する姿に心の底にある塊が昇華していくのを感じた。

2016年5月25日水曜日

城山発電所(揚水発電所)の見学

一週間前に理科で遊ぼう会とおもちゃドクターの会の会員で、以前に当発電所に勤めていた方の肝いりで、二つの会の有志で見学をさせていただいた。場所は以前に当ブログで紹介した津久井の雄龍籠山の中腹というか、頂上直下にある施設で、津久井湖のダムの発電所ではない。 何が面白いかというと、ここは左図(クリックすると大きくなる)にあるように雄龍籠山の裏側にある城山湖(図中左)の水を下の方にある津久井湖(図中右)に向かって落としてその勢いで発電機を回して発電するが、城山湖には水源がない。そこで電力が余っている夜に、余った電力を使って津久井湖から城山湖に向かって水を戻してやることで水を再利用するという発電所だ。ただ、発電所として稼働するのは、夏季と冬季に合計38日という説明だった。ではほとんど開店休業かというと、そうではなく、相模川、中津川系と玄倉川、早川系のダムによる水力発電所、愛川の太陽光発電所の全県営発電所の監視、制御、給電業務を行っていて、発電総合制御所の役割を果たしている。
さて、見学だが、雄龍籠山頂上直下の建物からエレベーターで230mぐらい下まで降りて、そこから始まった。橙色の装置が発電機、4台並んでいて、前二つがH社、後ろ二つがT社製。ボランティアの方が説明してくださる。
発電電動機;発電機であると同時に揚水の際には電動機(モーター)として働く。三次元プリンターを使って作ったというモデルで説明。太い銅線が用いられる。
水の出入りのコントロール。
こういった大きな装置を動かす、油圧の機構など面白く聞いた。揚水の際のモーターの始動に際し、圧力をかけて水位を下げてモーターの回転の勢いをつける話など。

2016年5月17日火曜日

日本ってすごいとこ!!??

小松のことを書こうと思って久しぶりに司馬遼太郎氏の街道をゆく42「三浦半島記」を手にした。坂東武者の台頭から始まる歴史が中心だが、最後の方に「昭和の海軍」という節がある。その書き出しはとても重い。しかし今も心すべきものとして響いてくる。最初の数行を引用させてもらう。

「国が亡ぶとき、だれもかもが寄ってたかってほろぼすものらしい。
昭和の陸軍がそうだった。明治の陸軍に濃厚に存在した現実を計算する能力は、なかった。
兵にも国民にも精神主義を強い、「世界一の陸軍」であるかのように、自ら錯覚した。」
と記している。司馬氏の別の本で読んだが、戦車の装甲も米国、ソ連の物に比べすごく薄く、張子の虎のようなものだったという。歩兵の持つ鉄砲も貧弱なもので、連発式の米国のものなどに及びもつかぬものだった。どんな精神力をもってしても、持ち物が持ち物ではどうしようもないはずなのに。
海軍はと言えば、軍艦の数量も少なく、装甲の貧弱さを自覚していただけでなく、軍艦は油で動くがその油は日本に産しないことから見て海外に挑みかかり、戦争を続けることの無理を知っていた。冷静な判断を下していた。
山本五十六の「開戦すれば、1,2年はあばれてみせます」といったのは、続ければ、あとは敗けるということである。武人である故、そうは言えなかったのだろうが、政治家がそれを察知できなかった。再び司馬氏の言を引きたい。
「国家に危険な行動を避けさせるのは、冷静で、普遍的な計算と比較の能力である。政治家や言論人こそその能力をもつべきだったが、そういう人はいなかった。」

翻って今の時代、そういう人はいるだろうか?もうちょっと身近なことに目を移しても、何か冷静さを欠いた気になることをよく見かける。ヘイトスピーチだけではない。もっと日常的なことでの報道などにも心配の影がある。民衆の感情論におもねるような報道に接することが多いこの頃である。そのうえ、「日本いいですね」といいとこだけ浮き彫りにしたテレビ番組も目立つ。もっと冷静に日本を突き放して見る目も大切なのではあるまいか。一方的な見方の強調が習慣化すると、誤った方向に導く背景となりかねないことを、我々は心すべきではないだろうか。

小松物語

小松が火災で焼失してしまった。父が存命の折、三浦半島をドライブして、予約しておいて、この料亭で昼食をとったことがあった。父の冥途の土産に見せてやりたかったのと、私自身旧海軍の提督たちが出入りした料亭を一度は見ておきたいという希望があったからだった。
空いていたからだろうか女将と若女将が出てきてお話を聞かせて下さった。食後に二階の広間で提督たちの書を見せてもらったことを思い出す。
失われてしまったものは仕方あるまい。小松の関係者の方々の悲嘆はいかばかりか。
司馬遼太郎氏の街道を行く42「三浦半島記」を読んで、左のような書物があることを知った。この料亭を背景に、山本五十六、米内光正、井上成美を中心とした冷静な判断力を持った提督たちと旧日本海軍の歴史の一駒が語られている。

2016年5月7日土曜日

鑁阿寺(足利氏居館祉、100名城の一つというのだが)

桐生駅で簡単に昼食をとって、電車に乗り、足利に再度戻る。足利氏居館跡を訪ねてみることが目的だったのだが、駅を降りて調べたら市立美術館で「画家の詩、詩人の絵―絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」という題名の日本人作家の展示をしているとの報に接し、ちょっと寄ってみた。美術館に入ったところで呼び止められ、八ッと見たらなんと、現役時代、隣の研究室の同僚だった。私より3年後に定年退職し、千葉に戻ってきていたのだが年賀状をとりかわすだけだった。彼は館を出るところだったので、互いに挨拶して別れたのだが、なんと10年ぶりの再会。あまりの偶然にびっくり。
展示はこんな角度の見方もありかと思い、興味深かった。でもやっぱり棟方志功の作品には惹かれる。正岡子規、北原白秋、草野心平などに交じって高村光太郎も詩人の作品の中に入っていた。特別展示室で関連企画として、「連画のいざない」という一連の作品の展示があった。連歌ではなくて連画。これもちょっと面白かった。
あんまりのんびりもならず、歩いて足利氏居館祉たる鑁阿寺へ。四方は小さな堀で囲まれ、その内側には土塁が積まれている。鎌倉時代に成立した豪族の居館の跡といった形だが、館を思わせる建物はなく、中央に鑁阿寺の本堂がある。実は足利家第二代当主、足利義兼が館を、改めて鑁阿寺としたらしい。つまり早い段階からもう館の意味は失っていたらしい。前述したように足利氏自体は鎌倉幕府が確立するころから鎌倉に移ってしまったのであろう。それでも、100名城の一つに数えられているのは、堀と土塁が当時の構造を知る痕跡として価値があるのかと思われる。わずかに足利氏と結びつくものは北の端に御霊屋と云うのがあって、室町幕府15代の将軍たちの木造が安置されているという。
小山ー高崎を結ぶ両毛線には昔、湘南電車と呼んでいた車両ではないかと思うが、沢山走っていた。

2016年5月5日木曜日

旧桐生高等染織学校本館(群馬大学工学部同窓記念会館)

折角行くのだから、日帰りはないだろうと宿を探したのだけど、直前だっはたため足利では空きはなく、桐生まで足を延ばして一泊した。足利もそうだが桐生も太平洋戦争の惨禍を逃れていて、その意味では明治大正期の文物は沢山残っている。桐生一泊の翌日は5月2日、月曜日。多くの博物館は閉まってる、或いは開始時間が遅い。博物館めぐりはやめて、早めの朝食をとり、さっと群馬大理工学部キャンパスを訪れ、群馬大学工学部同窓記念会館を訪ねた。旧桐生高等染織学校本館である。
この種の建物の大正初期版。講堂のつくりは古色蒼然たるものはあるが、当時の気概を見るような、重みを感じた。
帰路は本町通を桐生駅の方へ徒歩で、古いつくりの家の写真を撮りながら戻り、途中からバスに乗った。
 
ウナギやさんの泉新は前夜夕食をとったが、とても美味しかった。

2016年5月4日水曜日

足利学校

フラワーパークからシャトルバスで足利市内へ。足利学校へ。創建については小野篁(平安時代)説、足利義兼(鎌倉時代)説などあるそうだが、歴史上はっきりしているのは室町時代に関東管領、上杉憲実が現在国宝に指定されている書籍を寄進して再興したころ以後のこと。足利に来ておやっと思ったことは、この地に土着して、発展しその後室町幕府を開いた足利氏なのに、この地におけるその足跡が薄いこと。勿論戦国時代、北関東は戦乱に明け暮れたらしいから、古くからのものは失われていることだろうけど。理由の一端は次のことのようだ;足利氏は源頼朝が平家に対して挙兵するとすぐ頼朝のもとに馳せ参じ、同じ河内源氏ということで重んじられ、結果足利は本願の地ではあっても中心勢力は鎌倉に常駐。頼朝の家系が滅んで実権が北条氏に移っても無理せずNo2を続け、その間に三河、尾張方面に根を下ろした。庶流の斯波氏、吉良氏、今川氏など東海道沿いに発展している。京都に上るには格好の中継拠点を作っていったといえる。
さて足利氏のことはさておいて、当の足利学校、全国から学生を集めて教育を行った。江戸時代に各藩に出来ていった藩校の範となり、江戸末期にはその役割を終えた。パンフレットからもらった図を転写しよう。クリックすると大きくなる。儒教を講じたゆえか、中心に孔子廟があり、南側に勉学の場の方丈、校長たるしょう主の部屋、書院があり、生活の場として、庫裡が隣接し、更に西の端に寄宿舎たる衆寮が再建されている。周囲は堀と土塁で囲まれていたらしく一部が再建されていた。裏手の方には昔のままの土塁の跡が見える。少し狭いが落ち着いた学びの場という雰囲気である。江戸期に庶民のために作られた、岡山池田藩の閑谷学校の佇まいを思い出した。

2016年5月3日火曜日

足利フラワーパークにて

足利フラワーパークに行ってきました。かみさんはこの公園に、私は足利氏の名残を見たいものと、出かけました。まずはフラワーパーク。売りの藤が満開で見事で、つつじも植えてあったのですが終わっていました。同属のシャクナゲがきれいでした。
モクレンやタイサンボクの仲間のオガタマにであいました。 麻溝公園ではもう少し小ぶりでピンクっぽい花をつけるトウオガタマを見ることができます。