亀が池八幡宮の北側のT字路の傍を斜めに番田から上溝駅の方へよぎる道があります。この道は今は一応舗装されていますが旧道であったようです。斜めの道を姥川のほうに進むと緩やかな下り坂になります。その根元にわざわざ「わだ坂」と言う道標があります。この坂の行く手には姥川を渡る藤橋が架かっていますが、これ今はコンクリートの橋ですが、もともとは藤の蔓を用いた橋だったそうです。(右の写真をクリックすると大きくなります)
伝承に曰く、源頼朝~実朝までの鎌倉幕府において初代侍所別当だった和田義盛が藤を用いて渡ったとか。この坂にそって、大榎があってそれを和田榎と呼んでいた、それゆえこの坂を和田坂と云っていたとのことです。私は大榎には気づいていません。「和田榎」の由来には荒唐無稽の話がありますが、省略します。亀ヶ池八幡宮にも和田義盛が武運長久を願って参拝したという伝承があるようです。和田義盛は自身だけでなく嫡男も横山党から嫁さんをもらって、絆を結んでいたので、この周辺に実際に姿を現したのかもしれません、あるいはと言うより多分、和田義盛に心を寄せる人たちがここに住み、言い伝えてきたのでしょう。この溝の地域には、和田合戦のあと、北条の被官だった横溝五郎太夫と言う人が御家人となって、丸山(横山公園のあたり)に居館をたててしばらくの間ここを治めたといいます。きっと北条にとって上溝の辺りは重要拠点だったのかもしれません。それでもこの伝承は守られたというのはどういうことなのかなーとふと思うのです。
(参考資料は「相模原の史跡」座間美都治著)
10 件のコメント :
歴史を勉強して、ウォーキングをするのも、色々と発見があるのでしょうね。
和田義盛が権力を持っていたころは相模一帯に足跡を残していますね。秦野や横浜二俣川、川崎にも拠点や、本来の一族の血筋と自称する人たちもいるようです。
上溝周辺の足跡については始めて知りました。
菊池さん
そうですね、我が家から番田に出て、そこから今橋(鳩川)、亀が池八幡宮、藤橋(姥川)、上溝駅、我が家と歩くと、今橋付近で源氏の流れをくむ泉親衡の裔という人の家、墓地を見ることができ、そして和田坂という次第です。当時の景色を想像したりして案外おもしろいです。確か高座渋谷にも秩父平氏の渋谷氏が拠った早川城址というのがあるのではないでしょうか。
相模原にはこのような坂の名が刻まれた石碑がかなりありますす、それなりにひとつひとつ由来があるんでしょう、調べてみたら面白いでしょうね。
達夫さん
二俣川や川崎のことは知りませんでした。
高座渋谷から東に中和田というところがありますが、ここで和田義盛が地頭をしてたという説がありますが、本当かどうか。Google earth上に相模原近辺の横山党、和田親派の渋谷氏などしるしをつけていくと、面白いです。北条にとっては南は和田勢、北は横山勢に挟まれる形で、居心地は悪かったでしょうね。
おがちゃん
そうでした、坂の名前を調べるのも一興ですね。あんまり知らないのですが、先日のでえの坂、田名の白坂(城坂?)、丸崎交差点のところの馬坂、川の段丘に沢山の坂がありますもんね。
以前FMさがみで坂の特集をやっていました。その時色々な坂を紹介しておりましたが、和田坂は近いので行って見ましたが、歴史を感じさせる所が随所にありますねぇ~。
中さん
石碑など旧道らしい雰囲気がありますね。旧家と思しきお宅も軒を並べてますし。
もう少し前にここを歩きたかったなーと思う次第です。
歴史に興味の深い権兵衛さんには、相模原がとても合って
居る町なのですね?
是からも、ますます面白い所をジャンジャン発掘して下さい
らっこさん
興味のあるジャンルはかなりあるのですが、どれもこれも「下手の横好き」です。でも世の中には救う言葉もあって、「好きこそものの上手なれ」ってね。それを信じて、あれやこれや、ふらふらしてます。相模原に戻ってきて、郷土史はちょっとかじっておきたいと思いました。コロリと参る時の土産話に。
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