2019年7月24日水曜日

アホちゃいまっか?

何所の局を見ても、芸人さんの記者会見、その人達が所属する興業社の社長の記者会見そのものだったり、話題だったり。アホちゃうかと言いたい。
何に対してかというと、大騒ぎして取り上げているマスコミに対してである。何か忘れていませんか?
この現象を発端から整理すると、
1)反社会的勢力とかいう連中が、人をだまして巻き上げた金で堂々とパーティーを開いて、そこに芸人まで呼んだ。
2)その芸人さんたちが、金銭の授受があったかどうかで嘘をついた。
3)その嘘を謝罪する会見を開くかどうかで、興行会社との間で悶着があり、両者が会見を開くことになった。
事の重大性は一目瞭然、1)が最重大、その次が2)、そして3)はいわば社内問題、当事者たちが話し合いかたずければいいだけの事。その間に会見したっていいが、マスコミは打っちゃっておいたってかまわない話。対応すべき問題の重大さは1)にある。あの連中を野放しにしておいていいのか!警察は動いているのか!そちらの方がはるかに重大事ではないのか?ホンマ!マスコミのノーテンキさにはあきれます。アホちゃいますか?

2019年6月20日木曜日

とても横綱相撲とは言えないね。お相撲の話ではありませんが。

政治の世界で、横綱と云えば内閣総理大臣。でも彼は横綱相撲をやっているとは思えない。
ひらりとかわして、「かたすかし」、ぶつかると見せて、「けたぐり」。
ガチンコで堂々四つに組んで、相手にさんざん技を出させて、それをしのぎ、最後にいっせん大きな投げ技で倒してこそ横綱。 本来なら、上杉謙信(ヒデ-間違いをしちゃいました。訂正)みたいに相手に塩を送ってなお堂々と戦う、つまり手の内をさらしても、さあ来いとやってほしいのに、
まあ、隠してばかり。ちっちぇーなー!。

2019年6月2日日曜日

ささくれだった社会

登戸の事件の直後に、この種の事件の先進国である米国でも、銃による同種の事件が起こった。日本社会の米国化は進んでいると思っていたが、こんな事にまで米国化が急に進んでいるのか、という思いだった。
事件を受けて、いろんなことが言われている。被害にあわれた方々を思うと、何とも言いようがなく、加害者に対する激しい言葉に共感するところは多い。しかし、もう少し冷静になって考えようという意見も表明されて、こういったタイプの事件の加害者に見える”疎外”とか”孤独”といった境遇の傾向について議論されたことで、思い知ることが多かった。
本日のテレビのある局の市民意識に関する調査結果によると、「孤独は自己責任」と考える人の割合は、米国が多いだろうなと思っていたら、米国では30%台前半であったのに対し、日本ではダントツの44%だったとの事。そして、孤独感、疎外感に悩む人へ手を差し伸べたいと思う人の割合は、米英よりはるかに低く、たった17%であったという。本当に驚いた数字だった。米国化なんて言うのは米国に失礼なことになってしまう。
日本人って穏やかで、人を思いやる心が豊かな国民性の持ち主だと思っていた。どうしてこんなことになったのか?いやもともとそんな傾向の人々なのだろうか?確かに「村八分」なんて言葉を聞いた事がある。疎外はあったのだ。でも、そこら中にいつでもあったものとも思えない。こんな話になった時、私は将棋を思い出す。相手の駒を捕獲して、生かして味方につけると云うのは、チェスなど同種のゲームの中で、将棋だけではあるまいか?取って味方につけることでゲームが複雑となり面白いという面もあるが、このような発想は日本社会の穏やかさという特質を反映しているのではないかと常々思っていた。チェスなどのような殺伐とした風景はない。
この頃気になってしょうがないのが、テレビなどメディアで、成功者が目立つような取り扱いが多く、社会の底辺でも一生懸命努力している人々に光を投げかける努力は影を潜めているように見えることだ。それだけではない、非正規雇用なんて言葉が急に顕在化し、社会の分断がはっきりしてきて、社会が以前にも増してささくれだって行くように見えてならないことだ。

2019年5月24日金曜日

悔しいこと

何が悔しいって!「国民から選ばれた衆院議員があの程度のレベルの人間でしかない」とみられること。我慢ならないほど悔しい。
丸山君は国会議員という立場で、北方領土訪問団に随行したのである。立場と場をわきまえない本当に愚かな人としか言いようがない。
その彼、帰国後、言論の自由という言葉を振り回し始めた。言うのも恥ずかしいが、自由には責任が伴う。全く無責任な人と吐き捨てて無視したいところだが、彼は国会議員。それなりの責任を明らかにすべきだと思う。

2019年4月13日土曜日

令和に思う

令和の字を見て、浅学菲才の私は先ずは違和感を感じた。「令状」、「指令」、「命令」とか「号令」など、何か強制を伴う文字が浮かんだからだ。

説明を聞いて、令月なんて言葉があるんだと知り、そういえば、令嬢、令夫人、御令室なんて言葉があるなーなんて、何か言い訳がましさを感じながらも、ぼんやり受け入れた気になった。

しかし、出典など解説が2週間たった今も続いている。本日の朝日新聞の社会面(34ページ)によると、考案者と目されている国文学者がある市民講座で、令和の解説をしたそうだ。「令月」に中国の文献からの影響を指摘する人が居たそうだが、中国の文献では2月の意味であり、万葉集では1月の意味だから違うと言ったとか。なんだか言い訳がましいこと言わなきゃいいのにと思う。
その先生は令は「命令」の意味を含むとの指摘を受けて、「文脈が違えばそれぞれ際だった側面が強調される。こじつけだ。」と語られたとのことである。確かに文脈が意識されれば、当を得たものなのかなと思う。しかしである、果たして「平成」の出展、文意が大方の人に今も意識されているだろうか?私は平和とか平等といった文字と重なって、人々の意識の中にすんなり入って行ったのではないかと思う。

令和の出展の文脈が意識され続けるのはどれくらいの長さだろう。やがて薄れ、「令和」の文字だけが残るのではあるまいか?その時、令月とか令夫人とか令嬢と言った言葉と重なって意識されればそれはそれでいいかもしれないのだが、令状、指令、命令、号令なんて文字が意識されることがないように願っている。言葉は人の意識をコントロールし、人々に浸透した意識は時代の空気(風景)を決めるだろうから。

2019年2月15日金曜日

”撤回”

政治家の不適切発言に対する撤回騒ぎが多すぎないか?
何時だったか、弁護士資格を持つ防衛相が、法律違反に関わる発言をして、撤回して済ませた。 その時思ったことは、我々が自動車を走らせてスピード違反をとがめられたら、すぐさま撤回 と叫べばよいのだと思ったことだった。

今度のオリンピック担当相の発言、どれほど人の心を深く傷つけたことか。それに対する 追及が生ぬる過ぎる。並みの質問では堪えないような人だと感じた。「あなたの顔をぶん殴って、不適切な行為だった、 撤回すると言って済ませようとしたら、貴方はそれを不問にふすのか?」と問うたら、どう答えるだろう。

本当にノーテンキである。

2018年10月9日火曜日

就活。バカな!

大学は学問を追求する場である。就活とやらで学業がおろそかになることを苦々しく思っていた。
企業が青田買いと称して、在学の学生を翻弄するすることは許しがたいことと思っていた。 大学卒業は企業に就職する為の資格ではない。大学は企業に対する人材保証機関でもない。職業教育をする場でもない。
特に4年生は卒業研究という大事な時なのだから、本来就活なんかにうつつを抜かしているひまはないはずである。
もし企業が卒業生を獲得したいのなら、本来、就職を決めるのは卒業してからにすべきである。それが筋ってものだ。
もしそうではなくって 優秀な学生を少しでも早く獲得したいのなら、そしてその為に 就活解禁の設定を止めるというのなら、良い機会だから、就職を決めた瞬間に学生は大学をやめて働くことにすればよい。 それはとてもすっきりしている。