2017年5月29日月曜日

北海道、下の句歌留多

淵野辺に引っ越しました。それはそれとして、
荷物を整理していたら北海道にいたとき購入した下の句歌留多の「取り札」、否「取り板」が出てきました。 チョット写真でお見せします(クリックすると大きくなります)。多分開拓時代、厚紙に書いて札を作るなんてことはできなかった事は想像に難くない話で、板っぺらに書いて取り札を作ったのでしょう。
その名残が今なお板に書いているのだと思います。ただ北海道では風習としては読みあげは上の句からなんてことはせず、いきなり下の句を読んで下の句を取るのが普通と聞きました。一部のことかもしれません。ただ私はこれは本土文化への反骨がそうさせたのじゃないかなんて想像しています。
わざわざ下の句歌留多としたのはそのことからです。難読ですぞ!誰です?「身をつくしても 逢はむとぞ思ふ」なんて簡単じゃんっていうお人は!
競技会ではこの板が飛びます。そして板を取られた人は畳を叩いて悔しがる。なかなか勇壮です。
ところで、この板を取り札にして、上の句から読む小倉百人一首大会をやりたいなんて人がいたら考えようかな。面白そう。これだと沢山覚えてる人が必ずしも勝とは限らなにのでは?

2017年3月19日日曜日

公共リサイクルステーション

アメリカやドイツで、スーパーの一画にリサイクルステーションというか、ごみ集積の 場所が設置されていたものだが、今回あるスーパーの屋上駐車スペースにリサイクルセンターが 設置されていて、利用されているようでした。

ポイントシステムまで取り入れなくってもいいから、多くのスーパーで公共リサイクルセンターを設置するといいのにな。

2017年1月30日月曜日

ギャフン!!

わが連れ合い殿が参加している会に、高等学校で世界史の教鞭をとる方がおられる。その方の体験談。
その方、ある日、教え子に会われたそうな。その教え子曰く「先生のせいで、」と来たので思わず身構えると、「○○学校に教諭として就職できました。」当の世界史の先生「ギャフン」。その教え子さんxx大学の国文科を卒業したのだそうな。
言葉の乱れ、気になります。今日の朝日新聞の投書欄に、「お母さん」でなく「母」と言って、と云う記事があった。私も、自分の父母の事をお父さん、お母さんというのを聞いて、おいおいそれはないだろうと思ったことは何度かある。
それから、「・・・・させて頂く」という表現を矢鱈に聞くが、これも違和感がある。「・・・・してくれ」って頼んだ覚えはないけどなって言いたくなる。「・・・・致します」の方がどれだけすっきりして聞きやすいか。まだある。「待ってもらってもいいですか?」といった表現である。「お待ちください」或いはもう少し丁寧に「お待ちくださいませ」で良いのに。

2017年1月12日木曜日

成人式を迎えた孫に与えた文

成人式を迎えたのですね。今までの20年間が今後にむかってしっかりとした礎となっているよう願っています。
仮に80歳まで生きるとして、その4分の1を既に使ったことになります。今後の4分の3が幸多いものになるように、今までに獲得したものを踏まえて、自分の考えを明確にして、周りに振り回されないように、自分の道を進んでいってください。

このごろ、反知性の時代という言葉が聞かれます。トランプ のような人がその時代の空気をうまく利用している、象徴と して挙げられますが、日本にだって、いや世界的に見て 反知性主義が蔓延しているように見えます。

反知性は衆愚を導きかねない。衆愚は下手をすれば独裁 を生むでしょう。 君達若い人たちがシッカリと時代の空気をとらえ、反知性の 波に吞み込まれないように、衆愚という空気の流れに流されない ように頑張ってくれることを願っています。

20歳の誕生日を迎えた孫に

最初の孫が昨年12月に20歳の誕生日を迎えた。これから先は誕生日祝いとか、新年のお年玉とかいった類は一切渡さないつもりでいる。そこで誕生日祝い、そして成人式の祝いに、チョットだけ文章を添えることにした。

誕生日祝いに付けた文章の骨子は
これから、歳をとるにつれ、段々と重要な岐路に直面することが多い筈。何かを選ばねばならず、辛い思いや、悩むことが多い筈。でも、そこで逃げずにしっかり頑張ってほしい。というのは、死の直前にこの人生でもよかったのだと思えるかどうか?もしそう思えたらその人生は成功であろうから。

人生の岐路で、どの道を選択するのがベストかという事は誰も知らない。なぜなら、一つを選べば、残りは実現されず、比較するものはない。ただ一つの道筋だけ。
岐路において、どれだけ考え、どれだけ悩み、どう決断するか。その時どれだけ濃密な時間を過ごすかという事が、あとでその選択を肯定的にとらえられるかどうかと深くかかわる筈だから、逃げずに、しっかり頑張って生きていって欲しい。

孫からは思ったよりもしっかり自分を見据えて、歩んで行こうとしていることがうかがえる内容の返事が来た。どうなるか。

2017年1月7日土曜日

やっちゃった!

本日所要から帰ってきたらハガキが3枚ポストに入っている。1枚は何かの宣伝ハガキ。部屋に入ってまず一枚目を見る。古くからの親友K氏からの賀状。やっと今頃ついたかと文面を見ると、添え書きに曰く「宛先を書かずに出してしまい戻ってきました。すみません。」
ふむふむ彼もやるなと思って、二枚目を見ると、なんと目がテン。添え書きたるや、わが筆跡ではないか。ひっくり返せばノッペラボウ。添え書きの文面から判断して、どのタイプのグループ内の人に出したかはわかるが、誰だかわからない。
事の顛末をK氏に知らせようと電話したら、彼は留守で奥さん曰く「二人とも忙しいんですね。」いとも優しい一言。その内外出から帰ってくる連れ殿は何というか・・・。

2017年1月4日水曜日

作品

正月に久しぶりに弟と、好きだがあまり沢山は飲めない酒を口にしながら、いろんなことを話していた。フト話題にしてみたいと思っていたことをぶつけてみた。「本格的な物、本格的な事」についてだった。私たちが子供のころは歌謡曲だって、歌手の鍛えた声に聞きほれたものだけど、近頃はそのような本格的な歌がだんだん廃れ、例えば、まるで地声としか思えないような声の歌や、たまには調子が外れたって平気と言いたいような声がメディアに流れる。これ何なのだろうと。このような現象は歌だけではないように感じているが、歌は顕著に見えやすい。

「人々が作品を必要としなくなったのではないか」というのが彼の答え。心血を注ぐ、命を削って作った作品を必要としない、対峙する必要を感じない。というのである。そうなのかもしれない。
だけど有名美術館の引っ越し展示とか有名な画家の展覧会など決して人が少ないことはなく、昔の様に十重二十重の行列ができるわけではないが、会場は混んでいる。心配するほどでもないかと思わないではない。だけど、そうなると頭にもたげてくるのは、有名とは何か?ということ。有名ではないが、本格的な素晴らしい作品に人々が群がるようなら本物だけど。 有名な作品に群がるのは何に寄るのか?
本格的なるもの、重要な課題。