2011年9月29日木曜日

英国の湖水地方とコッツウォルズを巡る旅

現在、かみさんに連れられて、ツアーに乗っかって、表記の旅をしています。もう終盤に差し掛かってますが、のんびりした旅のようでいて、やはり忙しくゆっくり書け無い状態です。今後、ゆっくり書くことにして、一応の旅程は
9月25日昼前に成田発、ロンドンには日本時間23時半ごろ12時間かけて到着、直ぐにバスに2時間ゆられて、ストラットフォードアポンエイボンと云う長ったらしい名前の村で1泊。翌朝そこで何をしたかは後で書くことにして、一路北西の湖水地方へ
26日、27日の夜は湖水地方のウィンダミアのケンドルに2泊。ワーズワースやピーターラビットの作者ゆかりの土地を訪れ、その後ハイキングやSLに乗ったり、船で湖を渡ったりでのんびりしました、28日ケンドル発でコッツウォルズ地方へ。バートン・オン・ザ・ウォーターもちょっと楽しんできました。
そして今夜、コッツウォルズの何処かのゴルフ場にあるホテルに一泊してます。
あす、バース、ウインザーを経てロンドンへ。
30日はロンドンで過ごし、1日に発って、帰国の途に着く予定。

宿は今までの私たちの旅行にしては、1~2ランク上。食べ物は、毎回あまり変わらない感じのものが
ドーンと出てきて、閉口。でも残せないのが我々世代。全部平らげてフーフー言っています。

あんまりあっちへ行ったりこっちへ行ったりがないので、良いと思っていたのですが、中味が濃い分、年寄りにはちょっと堪える。

ロンドンでは、何とか、木製のアイリッシュ・フルートを手に入れられないものかと思ってるのですが、どうなる事やら。

2011年9月21日水曜日

METオペラ ライブビューイング アンコール エフゲニ―・オネ―ギン

昨日9月20日に昼から東銀座は東劇で、歌劇エフゲニ-・オネ-ギンを見てきた。ロシアのプーシキン作の「エフゲニー・オネーギン」をもとに、チャイコフスキーがオペラ化したもので、まだ見たことがなかった。大いに期待して行った。奏でられる音楽に大いに感激したが、筋立てのつまらなさにちょっとがっかり。帰ってきて調べたら、スコア―を手に入れたツルゲーネフがトルストイに手紙を書き、音楽への賞賛と台本への落胆を述べたとか。そんなに間違った感想じゃないんだと思った。

しかし、見たかったのは歌劇、音楽が素晴らしけりゃ大いに満足。出来の素晴らしさは、演奏家の陣容からも推し量られようというもの。

ヴァレリー・ゲルギエフ(指揮)

ルネ・フレミング(タチア―ナ、ソプラノ)
エレーナ・ザレンバ(オリガ、アルト)
ラモン・バルガス(レンスキー、テノール)
ディミトリ―・ホロストフスキー(オネ―ギン、バリトン)

2006年ー2007年のシーズンにMET(ニューヨーク)で演奏されたもので、驚くのはロシア語で歌われていること。フレミングの語学力は定評があり、チェコ語で歌ったドボルザーク作曲の”月に向かいて歌う”が激賞されていたことを思い出すが、ここでも新聞紙上だけでなく、ホロストフスキーからも激賞されていた。

ラーリン家の次女のオリガの許嫁レンスキーが友人のオネ-ギンをラ―リン家につれて来るところから物語は展開する。タチア―ナがオネ-ギンに一目惚れして、手紙を書く。(タチア―ナが16歳という設定がフレミングにはチト気の毒。)1幕 レターシーン

1幕の終わり、手紙をもらったオネ-ギン、タチアーナに会いに来るが、
=>自分は家庭生活に向かない、そしてタチアーナのことも妹のようにしか思えない、と告げ、自分を律することを学ぶべきだ、と諭す。

ここで、インターミッション。舞台から戻ってきたフレミングとホロストフスキーがインタビューを受けるが、フレミングはなかなか涙が止まらない。インタビュアーがハンカチを渡すほど。没入してたのですね。

2幕に入って、タチア―ナの守護聖人の祝日に開かれたパーティーにレンスキーはオネ-ギンをつれてくるが、オネ-ギンはつまらなく、楽しまない。腹いせにレンスキーをからかおうとオリガをダンスに誘う。そしてついエスカレートして、さらに重要な踊りまで、オリガと踊ろうとして、レンスキーとオネ-ギンは衝突、決闘をすることになる。

決闘の場で、オネ-ギンを待つ間にレンスキーが、人生とオリガへの未練を吐露して歌う、=>アリア『わが青春の輝ける日々よ』。バルガスの歌唱が素晴らしい。これでずんぐりむっくりでなければ・・・・。
レンスキーは決闘に敗れて死に、オネ-ギンは国外放浪の旅に。

戻ってきたオネ-ギンが貴族の舞踏会に。=>ポロネーズ、これは『エフゲニー・オネーギンのポロネーズ』として単独で上演されることもある。オネ-ギンは26歳になっている。
そこで、貴族の館の夫人となっているタチア―ナと再会。その気品ある姿にオネ-ギンは降参。手紙を書くが=>最終的に拒絶されて終わる。
この辺の役どころとなると、気品あふれるフレミングの姿は圧巻で、美しい。
タイトル・ロールのホロストフスキーも素晴らしかった。

ゲルギエフ率いるMETのオーケストラと優れた歌手陣が素晴らしいチャイコフスキーの音楽を奏でてくれた3時間20分でした。

2011年9月20日火曜日

高校同期会:古希を祝う

私の高校時代の同期会がこのところ頻繁に行われている。この学年は、今年度、既に古希を迎えたか、これから迎えようという人たちの集団、古希を祝っちゃえと19日夕方に集まった。同期生の内90余%が生きながらえているが、その内の80名強(約1/4)が集まった。
共学だったが、左は昔の女子高生達(御健在の先生を囲んで)。直ぐ分かる人、全く分からない人。学校時代は口もきいてなかった者同士が喋ってみたり。年をとるということは、それなりに良いものでもあると思うひと時だった。

同期生には、芸能界で活躍する昔の人気者や現役の俳優もいるが、右の写真、横向きに立っているのは舞台に、テレビに活躍中の俳優。在学中も演劇部で活躍していた。舞台の稽古があるとて、途中から消えた。

めでたきことなので、自作の横笛で越天楽を吹いてきた。

2011年9月19日月曜日

最後の授業ーぼくの命があるうちに;ランディ・パウシュ+ジェフリー・ザスロー著、矢波野薫訳を読んで

本日は、東光寺にお墓参り。我々と久しぶりに弟夫妻と4人だった。後継ぎがいない私には、両親と早世した弟と娘が眠る墓にどのように決着をつけるか、話をしかけたが、その内どう死を迎えるかの話になり、「ただただ衰えて周りに大きな負担をかけたくない、さりとて、自分の生にどう見切りをつけるか、いよいよと思ったときに決着をつけるエネルギーが残ってるかどうか。」と話したら、死というのはそこに至るまでの自然な形でのプロセスまで含めて死であり、自殺は死ではないと弟は言い放った。言いようのない感動を覚えた。読みかけの表記の著書を思い出したからだ。今日中に読了しようと決心して帰宅した。

ランディ・パウシュの最後の授業のビデオは2008年にYou Tubeに載って多くの人々に感動を与えた。
当ブログでも(クリック可)取り上げた。

ネットの仲間で作った図書貸し借りシステムを利し、お仲間から(「最後の授業ーぼくの命があるうちに」;ランディ・パウシュ+ジェフリー・ザスロー著、矢波野薫訳)お借りした。

”夢を見させてくれた両親に感謝をこめて、 そして、僕の子どもたちが見る夢に期待をこめて”
から始まる著書の内容は、ビデオに見る最後の講義の続きと位置付けられているが、勿論共通する部分もある。語られることは、子どものころに持った夢をどのように実現したかという内容を背景に、47年の人生をどのように生きたかを語り、若い後輩たちを力づけるだけでなく、残される幼い自分の子たちのためにも語っている。
教訓にちりばめられているが、語り口は全くそういうものを感じさせない。コンピュータ・テクノロジーの世界の人ではあるが、目指す分野のいかんを問わず、若い人に読んでもらいたい書物の一つと思った。

ビデオで語られる声、内容からも思ったことであるが、死が3-6ヵ月後に迫ってる人の言とは思えないほど、明るく、前向きで、力強い。

彼は見事に自分の限られた生を全うしただけでなく、彼は自らの”死”を活き活きと生き抜いたのだと思う。

私は、幸いにも生きながらえているが、そうである限り、これからも未来への繋がりを夢見、力の限り生き続けようと思うほど励まされた。

2011年9月9日金曜日

お気楽職業??

8月5日にも等ブログに書いたが新聞は=>何か権力に遠慮したり、おもねったりしてるみたいですねー
そのうえで:
あることについてある論調で書いておいて、雲行きがおかしいと、同じことについて、自己批判もせずに、平気で別の論調を展開する。多少個人の思いもあるだろうが、小杉隆氏は新聞記者をお気楽職業と揶揄している。
ダイアモンドオンラインで小杉隆氏はまたも、ましな方としながらも、朝日新聞をやり玉に取り上げている。今度の台風の被害に関する報道を出発点に、=>その報道の仕方を、原発事故の報道文にあてはめて書くと、論調は実際に行われたものとは違ったことになることを指摘する。そのうえ、またも、自己批判なしに、最近全然違う論調の文を出している。
新聞記者自身が自分の社の新聞をちゃんと読めよと指摘されちゃってますねー。