2015年8月31日月曜日

思い出の記;シュトゥットゥガルトで家政学を学ぶ学生


丁度24年も前になる。私は8月中旬から11月中旬まで3か月間コペンハーゲンの北側の近郊、リュンビューという小さな町に滞在した。すり減った心身を癒し、充電し再起のきっかけを得た。呼んでくれた友人のことは終生忘れることはない。
その滞在中、ある会議に出席する目的で、スイスと西ドイツの国境にあるコンスタンツという町に出かけた。旅程はコペンハーゲンからドイツ南西部のシュトゥットゥガルトに飛び、そこから列車でコンスタンツ。帰りはその国境にある大きな湖、ボーデン湖を船で渡って、リンダウから列車でミュンヘンの友人を訪ね、その後コペンハーゲンへ飛行機で戻るというもの。

表題のシュトゥットゥガルトで家政学を学ぶ学生とはシュトゥットゥガルトからコンスタンツへ行く列車の中で出会った。シュトゥットゥガルトの駅で列車に乗って空いているコンパートメントを探したのだが、随分混んでいる。やっと空いたコンパートメントが見つかったが10代から20代になりたてぐらいの女性が1人だけ居て、本を読んでいる。50歳のおっさんが入っていくのも気が引けたが、周辺は混んでいる。引戸を開けて座っても良いかと聞いたら、にっこり笑ってOKだったので、向い側に座った。暫くして、折角向かい合ったし、話してみようと思って、応えてくれるかどうか不安があったが、英語でどんな旅なのか聞いてみた。実家に帰るところだと英語が返ってきた。安心して、話が続いたのだが、高校を出たばかりで、今年からシュトゥットゥガルトで勉強している。日本でいうと短大か専門学校と云った感じに聞こえた。彼女がこれから帰る家のあるあたりのこと、私の旅のこと、日本のことなど話したと思うが、若い女の子と50代の東洋人男だけのコンパートメントが気になるのか、時々車掌が窓から覗き込む。日本の地図を見せて話始めると、彼女は私と並んで座る、すると隣のコンパートメントから若い男性が移って来て我々の隣に並んで座る。社会がちゃんと問題が起こらないように気を配っているのだなーと感心した。その内、彼が去ると、彼女は片目をつぶって肩をすくめて見せた。それは余談。
話の中で、彼女が言ったことに、未だに忘れないものがある。「ミュンヘンに寄るのなら、是非ダッハウへ寄るといいと思う。」ダッハウと云う所は政治犯の強制収容所があった所。第二次世界大戦でユダヤ人を多数収容して虐殺した場所の一つ。「ドイツ人の一人として非常に恥ずかしいことだが、ここで行われたようなことが、二度と起きないためにも、出来るだけ多くの人が見るべきと思う。」と言ったように記憶している。可愛らしい屈託のない笑顔を見せて話す子だったが、この時は真顔で俯き加減で話していた。コンスタンツの2駅前で降りて行ったが、コンパートメントを出て、振り返り、片足をチョットあげて両手を振ってから去って行った。他に何を話したか、忘却のかなただが、去り際の少女っぽいしぐさと、真顔で話した時の対照的な様子が、未だに忘れがたい思い出となっている。
ドイツでは、ちゃんと、包み隠さず教えているのだなーと、その潔さに感動した。

<追記>
チョットずれるが、知覧の特攻記念館を訪れた時、出撃した人達の遺書から伝わる慟哭に、いてもたってもいられなくなった。彼らが美化されているが、本当にそれだけでいいのか。彼らは死ななければ、人生を全うし、後でもっと建設的な働きをすることが出来たであろう。
本当は特攻を推進し、犬死同然のことをやらせた人たちの慟哭こそ展示すべきなのではないのか。それが無い。美化だけでは、二度と繰り返さないという誓いにはならない。

2015年8月29日土曜日

我々にとって、こんなことは夢のまた夢でしょうか。


1984年9月22日、無名兵士の納骨堂前で、フランソワ・ミッテラン仏大統領とヘルムート・コール西独首相は手をつなぎあった。東西冷戦のさなかだった。
以下のアドレスにある一文(ここをクリックすると行けます)を読んで、
http://www.newsdigest.de/newsde/column/jidai/3053-der-handschlag-von-verdun.html
私は感涙を禁じ得なかった。 宿怨を乗り越えた独仏の人たち。
ストラスブールの町でこんな光景を見た。方やドイツ語を一方はフランス語をしゃべる親戚同士が集まって、メンバーの一人の結婚を祝っていた。麗しい光景だった。

2015年8月26日水曜日

夏の終わりに


急に涼しくなりました。今年は夏休み前と最中における、理科で遊ぼう会の講座がいつもより多かった(12件)のですが、予定を何とかこなしまた。今、どっと疲れが出ています。

今夏の始めは、ちかしい若い者、更に高校時代からずっと親しい友人の奥さんがともに病を克服できずに他界。どちらも、残された者達がしゃんとして居てくれることが救いだが、前者のようなことはもうあって欲しくない。後者のようなケースはこれから増えるだろう。そういう歳なのだ。どんな事があっても、へこたれずに、やれること、やりたいことを続けることだと思った。そんな示唆をくれた友に多謝。

それにしても、戦後70年の首相の談話には、ガッカリした。「自分はそうは思ってないけど、こう言わざるを得ない。」というのがありありとしていて、なんと潔くないことかと思った。首相という人格は首相になった人そのままでは有り得ない。首相は歴史を背負いこんでいる。彼はその覚悟があるんだろうに。モット首相の言葉として潔い発言をしていれば「後世の子供に謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」というくだりにしても、少しは、唐突感の無い、活き活きした言葉として伝えられたのではないかと思った。相手から「もういいですよ、十分です」と言わしめるような状況にないことをどれだけ踏まえているだろうか?
我々は、先の大戦前には、朝鮮は併合し、中国を侵略した加害の立場であった。欧米列強からは追い詰められた形だったが、対等な戦いを挑んだ、そしてソ連からは不可侵条約を一方的に破棄された被害の立場である。この3ッつの違いを明確にして、区別する必要があると思う。
歴史認識と云う言葉が、最近、いや米ソ冷戦の終結後に、急に言われるようになり、何で今ごろになってと、思ったことがあるが、前にもふれたが、戦後、東西の厳しい冷戦の対決の中、 キャロル・グラックさんが言ったように、我々は米国の庇護下に在って、害を加えた国々と向き合わないままで来たし、戦後の疲弊した状況から速く復興し、繁栄を獲得した。
一衣帯水と言っていたが、日本海の波が高すぎて心通わすすべが無いかのようになってしまった。 歴史認識の問題が世界中で顕在化したのは、EU統合にあたって、ホロコーストが(我々日本はそこまでやっていないと云われるが)がヨーロッパ共通の記憶となり共通の認識が持てるように教育も行われたが、アジアでは全く状況は違ってしまっている。 キャロル・グラックさんの「敗戦後70年たつというのに、「戦後」という言葉が語られるのはそれほど、この時代は日本にとって居心地のいい時代だったかともいえるのではないか。」と、皮肉めいて言われるのには理があると思う。
その居心地の良さは冷戦の崩壊によって消え、日米関係だけが唯一の重要な国際関係ではなくなり、アジアと向き合わなければならなくなった。本当は敗戦直後から日本政府が戦争の記憶と正面から取り組まねばならなかったのを、先延ばしし、今頃になって取り組まなければならなくなったといえる。繰り言を言ってもしょうがないが、そして国際情勢がそれを許さなかったのであろうが、戦後すぐ近隣諸国と向き合い共に復興をしてきたら、日本の復興は遅れただろうけれども、もっと互いに理解しあえる国どうしであったかも知れない。

つまるところ、アジア近隣諸国にはまだ本当に大事なこと、「もういいですよ、十分です」と言わしめるような事が出来て居るのだろうか?日本の戦後の復興ぶりを見て、どう思うか。自分が逆の立場だったらどう思うか?そんな思いがよぎる。心を通わせる、理解をしあえるような環境を作る必要を感じる。
高校時代の親しい友人が、くれたメールに、「歴史家であるE.H.Carrの「歴史とは終わる事なき過去と現代の対話である」という言葉がありますが、現在を語るときには過去を捨象出来ません。今迄の日本が現在の繁栄に浮かれて過去を全く忘れてきたと思います。」という一文があった。

2015年8月22日土曜日

新潟―佐渡―直江津#5(直江津編;謙信の城跡、身にしみた親切)


直江津と隣の高田市が合併して今は上越市となっているが、私は直江津に興味があった。ここは古くは越後の国府があった。室町時代には上杉氏が守護となり、重臣の長尾氏が守護代として入部し、戦国時代には戦国大名になり、関東に、行き場を失った上杉の家督も獲得した。その拠点、春日山城は直江津のすぐ傍にある大規模な山城で詳細はともかく、どんなところなのか是非見ておきたかった。
直江津駅そばからバスに乗って、約10数分で埋蔵文化センター(左図、左下方)についた。途中、府中とか国分寺と云った地名があって、国衙があったことをしのばせる。埋蔵文化センターにはそんな太古の発掘物の展示もあった。私は謙信がどんなふうに守りを固めたかに興味があってそのような情報を見ながらしばらく過ごした。
カメラの設定を失敗してしまい載せられる写真が少ないが、下の左側の写真は春日山城に対する支城群の配置、右はお城の中心があった部分。クリックすると大きくなります。
酷暑の中、お山に上る元気はなく、麓付近を歩いて、上の略地図の右中ほどにある、林泉寺へ行った。謙信が幼少期に預けられ養育されたお寺さん。城から移築したという山門が立派だった。ここの博物館、規模は小さいが面白く拝見。下は林泉寺山門と、鬼門を抑える春日神社入口。
林泉寺から春日神社入口まで戻ってきた頃は、暑さでだいぶフラフラ。それでもがんばって、ものがたり館まで行って一休み。 そこで、食堂を紹介してもらって、広い道に出て、昼食に飛び込んだ。ランチメニューと言うのが面白くって、ご飯、味噌汁、箸休めもついている。後でコーヒーに果物があって、その他におかず5品から2品を選ぶ方式。カサゴの塩焼きが目に入って、もうこれと決めようと思ったら、お隣の土地の方らしい夫婦から声がかかり、カサゴが美味しいよと。やっぱり。私はカサゴの塩焼きと夏野菜の煮物。カミさんもカサゴの塩焼きに、てんぷらセット。980円は嬉しい値段。とても美味しくいただきました。
お隣のお二人さんから、どうしてまたこんな辺鄙なところへ来たの?と尋ねられて、今回の旅行の話やら・・・・。「天地人」をやっていた時は賑わったけどねーとのこと。ご主人は毎日自転車三昧の体。奥さんは「偶々この近くにマッサージに来たから主人呼び寄せて、ここで昼食してるの」とのこと。ご主人は又ひとっ走りと一足先に出て行かれたが、「町の向こうに住んでるから、バスなんか待たずに、遠慮せずに家内の車に乗せて行ってもらいなさい。」なんて言っていかれた。まさにそうなって、奥さん運転の車に乗せてもらって直江津の駅まで。まあ全く見ず知らずの人間にここまで親切にされるとはと感謝一杯でした。カサゴが縁の嬉しい一時でした。
帰りは直江津から妙高はねうま線で上越妙高、そこから新幹線で長野経由で東京に帰ってきました。

2015年8月14日金曜日

新潟―佐渡―直江津#4(佐渡編2;牛、朱鷺・・・)


新聞、テレビに出ている記事、話題に深く考えることの多いこの頃です・・・・。
さて、奉行所のあと金山、博物館、佐渡の低地を過ぎて南端に近い小木港から本州の直江津へ戻った。以下はその後半部。
佐渡は北側の大きめの山地と南側の小さな山地があって、金山は北側の大きめの山地(大佐渡山地)にあった。又防衛庁の立派なレーダーサイトも設置されている。金山を経て山を越す間にユリがきれいに咲いていた。金の鉱山跡は昔のものと近代的鉱山跡を見ることが出来たが、我々は昔の古い方を選んだ。
 
金鉱を掘った人々の日々のすさまじさを想像させられたが、それ以上に金鉱を探し求め、そして探し当てた人達の凄さに、驚嘆の思いをした。
大佐渡山地の峠を過ぎた休憩所付近から平野部と小佐渡山地の眺めは薄曇りではあったが、がなかなか良かった。もっと晴れていれば・・・
バスの中でのガイドさんの話は、前篇で方言のことなど触れたが、興味深い話を幾つか聞くことが出来た。佐渡は古くから牛を育てたらしく、今でもその伝統があるらしい。ここで育つ繁殖牛は、米沢や飛騨へ行って米沢牛になったり、飛騨牛となるらしい。DNAとしては、佐渡がオリジンのものも多いらしい。
ガイドさんは北朝鮮から帰られたご家族のことは語ろうとはしなかった、誰かがちょっと聞いたからか、ご主人の仕事のこと、でも静かに過ごしているといったことなどのみ。ご本人が選んだ事とはいえ、歳をとっても母国からは顧みられない状況であろうことを思うと、そっとしておいてあげるのが正解と思った。

佐渡と云えば、朱鷺も話題の一つ。朱鷺センターに寄って朱鷺がエサを啄む姿、捕まるまいと泳ぎ逃げる鰌も見てきた。日本原産の朱鷺からの子孫は絶え、中国からもらったひとつがいからの子孫が増えてるらしいが、近親繁殖の心配事もあるらしいことを聞いた。放たれた朱鷺が平野部の田んぼに飛来するのを楽しめるらしい。この日は少ないとのことだったが、田んぼで鷺の群れに混じって、淡いサーモンピンクの羽根を広げてフワッと飛ぶ朱鷺一羽をバスの車窓から見ることが出来た。もう一日居て、もう一つの観光バスルートに乗っても良かった気もするが、佐渡のエセンスは博物館で見聞きすることも出来たし好としよう。
最後に写真下左;両津にはこんな大きな湖もあることを紹介。宿の窓から撮った。そして、帰りのフェリー(双胴の船)中で、佐渡の牛乳と柚餅子のようなお菓子でおやつとした(写真下右)。海は凪いでいて、双胴の安定した運行とも相まって、まるで内海を航行するようなゆったりとした1時間半だった。

2015年8月8日土曜日

閑話休題;下の名前

日本語は変化する。ついていくのが大変だ!
へーと思ったのは、「下の名前」。私の名前は一つの漢字で表す。ひらがなだと3文字。名前の下の方という意味なら「し」だけどなー。そんなこと聞いて何になる。どうも名前を指して下の名前と言ってるらしい。でもそんな長ったらしいバカみたいなこと言わなくても良いように、ちゃんと「苗字」と「名前」と区別して、これらでもって氏名を構成してるのに、何で”下の”とか”上の”とかいう必要があるの?である。でもまだいいか!”お名前様”という表現よりは許せる気がする・・・かな?

でも、もっと気になるのが、副詞が消滅するのではないかという危惧! 「凄い、綺麗な景色」。文法的には間違ってない。「凄い」も「綺麗な」も共に形容詞だから「景色」を修飾してると考えりゃいい。 でも中味を考えると変だ。綺麗な景色は分る、でも凄い景色ってどんな景色?わっからなーい。
もっとすごいのが、「凄い疲れた」。これ聞いて私は疲れた。文章が終わってない。だって形容詞の「凄い」が修飾する筈の名詞がなーい。疲れたらしいことは分るから「ああ、疲れたの、ご苦労さん」ぐらいの返事では満足できないぐらい疲れていたらしい。多分、「凄く疲れた」と云いたかったのだろう。前者なら綺麗をもっと強く言いたかったのだろう。「凄く綺麗な景色」と。まあ「凄く」より、「とても」を使ってほしい気がするけど。
どういう人たちがこう云う変な日本語を流行らせているのだろう。やたらに、「取りあえず」を連発する連中が目立った時があったが、いつの間にか消えたように見える。「・・・・的には」と云う表現も一時期に比べると下火になっている。それらと同じような現象であるといいけどね。

新潟―佐渡―直江津#3(佐渡編1:砂金採りより大変だった)

佐渡も一日だけの計画。朝早く宿を出て観光バスに乗る。2か所に寄って、乗る人があればピックアップしてそれから観光というわけだが、それまでの間のガイドさんの話が面白かった。
佐渡は主に西日本、北陸の影響が強いが、あえて言うと本州の縮図みたいなところがあって、内部に方言があり、同じ佐渡の住人同士でも通じない言葉があったりするとのこと。京からの流人による、貴族文化、西の方や北陸との交易による町人文化、江戸期には幕府の直轄領となったために江戸文化も入っている。各地から金山に人が入ってきたはず。多種の文化が交じって独特なものがあるらしい。世阿弥が流されてきたこともあって、能がポピュラーな芸能として定着していて、能の催しがあると隣近所連れだって見に行ったりするなんて話もあった。
先ず、再建された江戸時代の奉行所へ。勿論金山の管理が最大の役割だけれど、町方を治めるのも重要な役割。奉行は常駐ではなく幕閣の重要人物として江戸に居たり、佐渡にも来たりだったらしい。実質的に取り仕切っていたのは二人の組頭とのことであった。お白洲も大中小3種類あり、小さいのは下級役人が処理する場所、中が組頭が取り仕切ったのであろう。一番大きい白洲に降りて筵に正座してみた。筵の下は石。均してあるとはいえ痛い!。こんなところに取り調べ中、正座って大変なことだ。
さて、掘り出した岩石からどうやって金を取り出すのか?もっこに入れて運んできた岩石をえり分けてから、カナズチの親分みたいので先ず砕き、それから石臼にかけ粉状にして篩にかけ水に浸けると、川辺で砂金探しの人達が金探しをする状態にようやくなる。そして、布を布いた斜めの樋に上から砂を水と共に流し、金は布に引っかかり残滓が下まで落ちる。これを2回ぐらい繰り返して、次の砂の塊を流すそうだ。砂金探しも気が遠くなる話と思ったが、これはもっと気が遠くなりそう。この後金の塊を作るまで沢山の工程があるわけだが、金鉱を発見した人の凄さを思った。金の塊が出来ることを示さなきゃ誰も信じない筈。執念と云うべきか、敬服の念を持った次第。

2015年8月3日月曜日

新潟―佐渡―直江津#2(新潟編)


7月28日朝、相模原から新横浜ー東京を経て、上越新幹線でお昼前に新潟に着いた(下越の中心地、新潟と東京を結ぶのに上越新幹線とはこれいかに?)。新潟は元々良港であったが、栄えるようになったのは北前船が往来するようになった江戸期かららしい。いまや県庁所在地であるばかりでなく、本州の日本海側では一番大きな町となっている。
新潟に着いてすぐ、新潟市観光循環バス1日乗車券500円を買った。何度乗っても良いし、指定箇所の入場料は割引が効く。我々はバスに乗って公開されている新潟の豪商或は豪農の旧家3箇所をめぐることにした。
港町として栄えた新潟には曽て水路としての堀がはり巡らされていたそうで、一部復活されているが、大部分は埋立てられ、・・掘りという名は残っている。運転手さんが~掘と云う案内をしていた。北方文化博物館新潟分館前という停留場で下車。まずは昼食とぶらり歩いたら普通の民家に混じって左の写真のような古い洋館が街角に有った。堀がはり巡らされて居たころの名残だろうか。
昼食後、まず北方文化博物館新潟分館のすぐ近くの旧斎藤家別邸から見せてもらう。大正時代に栄えた財閥の別邸(迎賓目的)だったとのことで、庭は一階からの眺めのみならず二階から見下ろしてもなかなか立派なもので、東京にあった、江戸時代の大名庭園から選び抜かれた名石、石造物が持ち込まれているとのこと。写真はどれもクリックすると少し大きくなります。衆議院議員、貴族院議員を務めた齋藤喜十郎氏が建てたもので、往時の華やかさが偲ばれるというもの。
 
齋藤家はかなりの大財閥だったのだろうか、戦後GHQによって解体された。今は業種を分けて幾つかの会社に分れて引き継がれているという。
次はすぐ隣の北方文化博物館新潟分館。これは新発田の豪農伊藤家の新潟別邸だったが、戦後10年間文人、会津八一が住んだということで、八一の作品や居住の様子を伝える写真等が展示されていた。ここの庭は齋藤家のとは違って枯山水で、規模は小さい。
そこからバスでもう少し港の方に行って、北前船の時代館前で降りる。北前船の時代館は江戸後期から明治にかけて、米穀商、廻船業などで栄えた小澤家が平成14年に家屋群を新潟市に寄贈したとのこと。前の二つの家の庭とは趣の違う少しモダンな庭や、往時の町屋の様子をうかがうことが出来る展示で、漆器のお箸が出来ていく過程(竹の箸であるように見せる漆塗りによる節付けの技術など)が見えるような展示で興味深く見てきた。
鴨居に書けてある写真を見てオヤ見たことがあるお顔と思ったら、自民党田中派で重きをなした小澤辰男さん(晩年は新潟国際情報大学を作り運営に尽力されたとのこと)でした。

夕方、新潟港からジェットフォイルに乗って新潟港から佐渡の両津港へ渡った。エンジン音が煩いが、速い。普通の船では1時間半かかるのに対してジェットフォイルだと1時間で到着する。出発直後の港の風景と船の速さを動画で。