2012年9月30日日曜日
スロベニア・クロアチアの旅_3 (アドリア海に沿って)
リエカ-シベニクードブロブニクと泊り、ドブロブニクは2泊して、モンテネグロのコトルまで足を延ばした。
アドリア海の眺めを纏めてみた。下手な写真から本当の美しさを想像するのは難しいかもしれないが。
石灰岩主体の陸地と青い海の対比は鮮やかで、とても美しかった。
2012年9月28日金曜日
スロベニア・クロアチアの旅_2 (概観とスロベニア)
9月15日、午前11時15分に成田を発ち、空路ウイーン―>クラーゲンフルトそしてバスでスロベニアに入ったことはスロベニア・クロアチアの旅_0で述べたが、その後の旅は食ってはバス、食ってはバス、食っては寝の連続で、また好き嫌いなく何でもおいしいと食べてしまうので、帰り着いたときは2kgも増えていた。
それはともかく、左図の地図中(クリックすると大きくなります)にグリーンで示した経路で、旅の大部分はクロアチアで過ごした。風景、旧市街を見る旅だった。どれだけ国をまたがったかと云うと、スロベニアの後、クロアチアに入り、アドリア海沿いに南下、途中でほんの一部だけ、ボスニア・ヘルツェゴビナが楔のように海辺に出てくるのを通り越して、またクロアチアに入ってドブロブニクで2泊、その間に半日だけ、その南のモンテネグロに入ってのコトルを訪れまた元来た道を戻り、途中から北上して、ボスニア・ヘルツェゴビナに入って、モスタルを訪れ、またクロアチアに戻って北部のプリトブィツェ国立公園(中国の黄龍みたいなところ)、クロアチアの首都ザグレブをまわっての旅だった。以上概観。
ここでは、スロベニアの綺麗なブレッド湖周辺の景色とスロベニアの首都リュブリヤ―ナの写真を動画に編集してみた。ブレット湖ではエンジン付きのボートは一切禁止で、中にある島へは手漕ぎボートで渡る。ここの出身者が種目名は忘れたが、オリンピックの手漕ぎボートで金を含むメダル取得者3人だったかを輩出しているとか。水の色が素晴らしくきれいな湖だった。
このブレッドには2泊したがその間に首都リュブリヤ―ナを訪れた。新市街と旧市街を分ける川は小さかったが観光船が走る。そして川岸にはオープンカフェが並ぶ。スロベニアはハプスブルク・オーストリアの支配を長い間受けただけあって、東欧圏ではあるが、どことなく中央ヨーロッパにいるような感じがした。
ブレッドを発って、クロアチアに入る前におとずれたのが、ポストイナ鍾乳洞。ヨーロッパ最大級のもだそうなのだが、内部は撮影禁止。右図のようなトロッコ列車で内部まで行き、その後大規模な洞内を歩いて見て来て又トロッコ列車で戻ってくる。そのトロッコ列車、くねくね曲がった線路をかなりのスピードで走り、大きな石筍等を見ながら進むのだが、まるでインディ―ジョーンズの世界。注意してないと岩盤に頭をぶつけそう。スリリングなひと時。内部の徒歩コースもかなりの高低差を歩く。疲れた人にはショートカットが出来るようなコース設定がなされていた。我々は勿論、ガイドが率いる全コースを歩いた。ひざを痛めてる背の君はちょっと大変だった。徒歩の最後、列車に乗る直前にコンサートホールと名付けられた広場に出る。本当に演奏会を開くこともあるらしいが、ここは撮影可。一部を3枚の写真を重ねてワイド写真のようにしてみた。
動画を除く写真3枚はクリックすると大きくなります。
2012年9月23日日曜日
スロベニア・クロアチアの旅_1
旅も今日は最終日。一昨日は今回の旅の南端、モンテネグロ国のコトルで半日過ごし、この日の夜と前の晩はコトルの少し北のクロアチア国のドゥブロブニクに泊りました。ここまではずーとアドリア海に沿って風光明媚な地域でした。(左はコトルからドゥブロブニクに戻る車窓からの眺め。ボケてますが、クリックすると大きくなります。)
旅の前の2/3の部分は、見ている限り、内戦の爪痕をはっきり見ることはできませんでしたが、天候に恵まれて、壮大な鍾乳洞、美しいアドリア海と、橙色の屋根の並ぶ街並みの数々など見てきました。しかし実際には例えば、ドゥブロブニクには2千発に及ぶ砲弾が撃ち込まれ、街はめちゃくちゃになったそうです。復興にはこれら海沿いの観光地に先ずお金が注ぎ込んで修復を行い、観光客を呼び、落ちたお金を内陸部の復興に使うと云った戦略がとられたそうです。
昨日、ボスニア・ヘルツェゴビナ国の内陸部モスタルに寄りましたが、叩き潰され、再建された立派な教会を見たり、修復された建物を見ることが出来ましたが、一方で弾痕が残ったままの痛々しい姿をとどめたまま使われている建物、これだけは内戦を忘れないために残した、ほとんど骨だけの建物なども見る事が出来ました。
さて、昨夜はクロアチア内陸部ブリトビィツェ湖群国立公園の近くに泊り、この美しい水郷地帯をほんの少し見て、今晩はザグレブ泊、そして明朝5時発で帰途につきます。
ちょっときつい日程で肉体的な疲れはありますが、心は自由にいろんことが考えられて、解き放たれた感じです。帰国したら日を追ってではなく項目ごとに整理して書いてみようかななんて思っています。
今ホテルのロビーで書いてます。ネットにはこのあたりからしかつながらないのです。結婚式の披露パーティーをやっているようです。「美しき青きドナウ」が流れています。
「旅は命を洗い、景色は目を洗う・・・」なんて言葉をどこかで目にしたような・と
はなむけの言葉をくれた友に多謝。
2012年9月18日火曜日
スロベニア・クロアチアの旅_0
少し遡りますが、8月に入って、9月は後半には何もイベントはなく暇である事が判明。背の君が待って
ましたとばかり、どこかえ出かけようと云いました。と云っても万全の計画を
立てて、出かけるゆとりはないので、ツア―で出かけようと云う事になりました。
それなら、個人旅行はチート不安な場所を選ぼうと云う事になり、ヨーロッパの火薬庫
、バルカン半島に足を踏み込もうと云う事にしました。
成田を9月15日の11時ころに発って、オーストリア航空のボーイング777でウイーンへ。
そこでは、全く休む暇なしで双発プロペラ機DASH8 でクラーゲンフルトへ飛びました。
オーストリア国内ですが、アルプスの南側で、静かな村みたいなところ。そこも休むことなく
バスで、スロベニアのブレット(Bled)にむかいました。
クラーゲンフルトは細長い氷河湖の傍にあって、飛行機
が着陸する少し前あたりから、眺めは素晴らしく、遠く
に雪をいただくアルプスも見え、
また着陸後バスからの
眺めも気持ちよいものでした。
途中、オーストリアからスロベニアへ国境を超えましたが、同じユーロ圏であるので、
出入国検査もなく、日本時間16日午前2時半、ブレットに着きました。
ここは湖がきれいな所です。
この地域、古代から民族大移動でいろんな民族が吹きだまった地域。
そのうえ、東ローマ帝国・オスマントルコ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国といった支配を
も受けたりして、多民族国家の時代が長かったことから諸民族が混在していました。
このため、ヨーロッパの単一民族による国民国家の概念に触れると、たちまち諸民族同士の争いが勃発したわけです。バルカン半島の民族問題が第一次世界大戦勃発の原因であり、第二次世界大戦後、チトーがこの地域をユーゴスラビアと云う連邦にまとめ上げたけれど、彼が亡くなると、内戦状態となり、これが収まった後も宗教・民族問題を多くのこっていることは記憶に新しいところです。
4,5世紀の民族大移動が未だに尾を引くと云う所に興味がありました。見ることが出来るのは、ごく一部ではありますが、楽しみにして、見聞を広げたいと思います。徐々に書いていきます。
2012年9月12日水曜日
Kさんの折り紙万華鏡
理科で遊ぼう会のKさん、折り紙名人。こどもセンターで授業があるたびに傑作を持ってきてメンバーに披露したり、センター職員にあげたり。悦に入ってる次第。
今日も今日とて、「あんたが気に入ると思って持って来たよ」といって折り紙万華鏡と称する物を見せてくれた。私はつくるよりも動画に取ってみようと、頂戴してきた。下手くそな手繰り方ですが、ご覧ください。
セロテープを使ってるそうで、ハサミも何も使わない折り紙を売りにしてる彼としてはどうかなーーー?
彼のバラは見事なのだが、今日はパスしよう。
2012年9月11日火曜日
大野北公民館にて
朝夕は涼しげな風が吹きますが、日中は相変わらずに暑さです。
夏の疲れが表面化する頃。お大切にお過ごしください。
さて9月5日に、大野北公民館の工作室に集まって、モーター
作成授業に使うキットの部品作りをしました。
さながら、小さな工場(こうば)の感があります。
興味を持ってくださった方、
http://tanuq.com/hprika/
をお尋ねいただけると幸いです。
歳を経し
父の13回忌。東横線都立大学駅から歩いて数分の東光寺へ。そうだ、都立大学は南大沢に移り、名前も変わってしまっているのに、この駅名は変わらない。
駅を降りてふと目に入ったのが古ーい駅周辺の写真。昭和20年頃とのことだが、この地は学芸大学駅(当時は第一師範という駅名だった)から坂を下りてきて、今度は自由が丘方向に坂を登る、その谷底に都立大学駅はある。(当時は都立高校前駅だったと思う。父が府立高校と云ってた事を思い出した。東京府だったころはそうだったはずだ。)今では線路は高架化して、プラットホームも上にあがってしまっているが、私は高架化する前のこの駅をしょっちゅう利用していた。この写真は渋谷側から撮ったものである(写真はクリックすると大きくなる)。もうこんな景色は戻ってこない。
13回忌の法要のあと、兄弟そろって、夫々の仕事の定年を迎えたし、それをも寿ごうと、食事を共にしたのだが、”最長老”が話題になり、弟達に笑われてしまった。事の発端は数日前、従妹から電話がかかってきたのである。父の世代がやっていた、いとこ会を次の世代もつづけようという。”もうそんなことやるの・・・・・”と遠慮を申し出ようと思いながら応対していたら、彼女はこちらが思っていたより遥かにてきぱきと話を進め、「京都の○○さんがちょっと体調がすぐれないので参加いただけません。そうなると、きよしさんが男性の最長老、必ず出席いただく必要があるので日取りをご都合に合わせます。」と。”ぎょえー!! サ、サイチョウロウ!!”。全く自覚なかった。○○さんや二つ上のはとこのAさんとはこどものころよく遊んだのだが、Aさん去年、パット逝ってしまった。そうか、あらがえない。何か、急に足元がふわふわしたような、別世界に追いやられてしまったような気分になってしまった。
2012年9月5日水曜日
山の中の藤野北小学校
中央線藤野駅のちょっと東側のあたりで、甲州街道から別れ、北へ約10分、相模原の我が家から約1時間で、山の中の学校、藤野北小学校に着きました。もうちょっと奥へ行くと陣馬山登山口があって、この道は高尾、八王子への裏街道であったとのこと。
10月に行う理科の実験、出前授業の打合せが目的でした。午後3時に担当の先生にお目にかかる約束だったのですが、2時半には着いてしまい、もう放課後でしょうか、こども達が、大きな子も小さな子も、校庭を走り回っていました。ちょっと早いと思い、写真を撮ったりしていたら、お会いすることになっていたN先生から声がかかり、あいにく校長先生はお留守ですがと、校長室へ。
10月中旬のある日の、3,4校時に4年生(7名)対象にヘロンの噴水、午後の5,6校時に5年生(9名)対象に二極モーター作成の授業をすることになりました。先生のお話の端々に、素朴なこども達の様子がうかがえて、都会のこども達とは一味違う子たちと出会えそうで、楽しみになりました。「昼食時には給食をこども達と一緒に食べてください」とのお申し出、喜んでお受けしました。
こどもたち一人一人が取り組む手作り教材を紹介し、どのように授業を進めるかを打合せ、理科室を拝見、使用設備などを見せていただきました。やりたい子がいたらハンダ付けもさせてくださいとのこと。約小一時間で辞去することにしました。帰りがけに、思いもかけず、「こども達が収穫した野菜ですが、持っていってください」と茄子とピーマンを沢山。こども達は家に沢山あるので、持って行ってくれないそうで、先生方が分けるのだそうですが、沢山余ってるのでと、最後に、無農薬です、と注釈がつきました。嬉しいお土産でした。
2012年9月3日月曜日
真駒内に羆
ニュースによると、藻岩山南麓や、真駒内それも地下鉄真駒内駅のすぐ東側に出没と。後者はちょっと丘になっていて樹木が茂るところ。秋には時々こども達を連れて散歩に行った。更に道路を隔てて西岡に繋がる森林地帯が広がり、小川も西岡に繋がる。
藻岩山南麓や、真駒内駅の周辺といえば人は歩くし、自動車はひっきりなしに走るし。去年生まれたばかりの”世間ずれしてない”熊だろうと云う話だが、その辺には知人が多く住んでいる。お見舞い申し上げます。
2012年9月1日土曜日
月寒あんぱん
懐かしい名前の入ったお菓子を背の君が買ってきた。月寒とは地名で、もともとはツキサップ。昔は旧陸軍の部隊が駐屯していた地域で、月寒公園はかつて駐屯部隊の演習場であった。
ほんのしばらくだったが公園のすぐ傍に住んだ。春は桜、秋は紅葉が楽しめた。冬はしばしばクロスカントリ―スキーを楽しんだ。何のことはない細いスキーで滑らせながら、歩いたり走ったりで、傾斜のところを登るのはともかく、滑り降りるのはすいすいとはいかなかった。エッジが無いのである。
月寒あんぱんである。この頃パン屋さんで見るアンパンとは異なり、アズキ餡のお菓子と云う方が近い。特別おいしいものとは思はないが、懐かしさが、これを口へと運ぶ。
このお菓子は、月寒の駐屯部隊が勤労奉仕に出て、道路の工事に協力した際、配られたとか。作っていたのは部隊に出入りしていたお菓子屋さん。今までずーっと続いている。
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