2011年6月14日火曜日

四国にて3

四国は歴史的には群雄が割拠して、なかなか統一されにくい土地でした。地形が影響してると思います。豊臣秀吉が関東以南を抑える直前に、ようやく四国全土をまとめたのが、高知を拠点とした長宗我部氏。それをゆるさじと統治に乗り出したのが秀吉でした。堺を拠点として四国に出て行くのですが、かなり難渋したらしく、”太閤が四石(四国)の米を買いかねて今日も五斗買い(御渡海)明日も五斗買い(御渡海)”なんて狂歌が堺の街に張り出されたらしいですね。
それはそれとして、徳川時代に高知に入って、高知城を造り幕末まで続いたのが山内家。去年上士とか下士とか言ってましたが、坂本竜馬らの下士は一般には長宗我部家の家臣から続く人たち。
松山は最初秀吉配下だった加藤嘉明が入り松山城を造り始め、直ぐに会津に転封され、そのあとに入ったのが蒲生氏。でもすぐに絶えてしまい、そのあとに入ったのが、徳川家康の異父弟(離縁された家康の母が久松家に嫁して生まれた子)久松定勝の子、定行が久松松平氏として松山に入り、その家が幕末まで続いた。

松山についた翌朝、天主に上ってみようとリフトの方に歩いて行くと同年輩の男性に呼び止められ、ボランティアで城を案内してるとのこと、お願いした。松山のことだけでなく関連する土地の事もよく調べておられて、説明を聞くのが大変楽しかった。引退後の話にまで話が弾んで意気投合、最後はお茶屋さんで一緒に一服。それはそうと天主閣はなかなか立派な構造で、すっかり山城と思っていたら、三の丸は平地にあって川と掘と山に囲まれている、二の丸は山の中腹にあるとのこと。
高知城は松山に比べるとこじんまりしているがかっこは良い。追手門と天守閣がピタッと一緒に写真に収まる。雨が多い土地柄、城壁には石の戸井が飛び出していて途中から水を吐き出す形にしていた。


松山は四国で一番大きい都市だが、高知は3番目か4番目。でも何かと対抗している所がうかがえた。両方とも路面電車が走っている。各地で不要となった電車を購入して使っているが、ヨーロッパの街で走っていた車両も両市で見かけた。上は高知、下は松山。


松山では俳句甲子園と称して、俳句の投稿を呼びかけていたが、高知では短歌の投稿を呼び掛けていました。面白いですネ。

2 件のコメント :

QQ さんのコメント...

最近は名所旧跡にボランティアの案内人が
居て便利ですね。
高知vs松山、競い合うのは面白い!
良いことですね♪

トラムはヨーロッパっぽいと思って
拝見していました、 やっぱり。
でも線路の幅も日本と一緒なんですね?

権兵衛 さんのコメント...

QQさん
今回の案内の方はすごく快活、良く調べている方で、当意即妙楽しかったです。奥さんが現役で働いておられて、”私が銃後の守りをしてる”なんて冗談言ったり。
レール、車軸関係は改造したものかどうか分かりませんでしたが、自然な形で走っていたので、多分レールゲージは同じだったのではないかと思います。