2011年1月30日日曜日

響穴に竹紙を貼る中国版横笛の作成

歳の初めに弟から借りてきた中国製の横笛(写真手前)からサイズをとって、篠竹で作ってみた(写真後ろ)。
ほぼ出来上がったので、先週末、合唱団の練習時に先生にお見せした。先生はハープシコードを作ったりして、楽器作りに関心をお持ち。
いい音が出ますねーと誉めていただいたが、その時、歌口の隣の穴を、響穴と呼ぶことを知った。現在はメンディングテープを貼ってあるが、本当は竹紙を張って演奏をするのだと言うことを知った。響穴に適切なものを貼ると、それが震えることによって、良く響く音を得るらしい。さて例によって、笛内部に桐油を塗って、それからカシュウを塗って仕上げをしよう。

2011年1月18日火曜日

ジェシー・ノーマン(Jessye Norman)

Jessye Normanは1945年生まれのソプラノ歌手ですが、私はけた外れの人と感じてます。若い時は教会で聖歌隊員だったのですが、勉強して専門家となり、ヨーロッパでオペラデビューを果たしました。所謂ドラマティックソプラノで、アメリカでは特別の人のようです。私はPhilipsから出ているCDでSacred Songsの歌唱を聴いて一発で降参しました。
Sanctus、The Holy city、Amazing grace、What child is this (greensleeves)
などなど
素晴らしかった。

2011年1月11日火曜日

前期・源平盛衰記 坂東デビュー(修正)

2008年の年末に鎌倉幕府を開いた源頼朝をめぐる三浦氏、和田氏、北条氏について書き始めて(クリック可)、すっかり止まってしまっている。三浦-和田軍団が、頼朝の旗揚げに呼応したとはいえ、合流できず、結局、頼朝一行は敗れ、船で安房に落ちのびて立て直しを図らざるを得なかった。にもかかわらず、三浦義明が一人犠牲になったことを以って、三浦党(和田氏を含む)が、後の鎌倉幕府で高い家格を獲得するのはなぜか、胸にすとんと落ちなかった。
今年になって、“もっと行きたい鎌倉歴史散歩”(奥富敬之著)を本屋で見つけ読みだして、そうだったかと思うところがあった。鎌倉市街地の大部分が海の下だったころから説き起こすこの本、なかなか面白いが、ここは坂東(桓武)平氏と河内(清和)源氏の関係について焦点を合わせてみたい。プレ源平盛衰記、即ち清盛、頼朝の登場よりずっと前に遡る。なお、ネット上ではHON氏の坂東千年王国論(クリック可)という大変詳しい著述があることを申し添えよう。

桓武平氏の登場は、桓武天皇の曾孫、平高望が子息5人を連れて、上総介として任地に赴き土着した、平安時代初めのころとなる。上総、下総、常陸に本拠を展開したが、よくあるように内紛がおこる。平将門の乱(武家政権樹立への胎動と見ることもできるが)。これは同族平貞盛を中心とした勢力によって鎮定される。次に起こる内紛は平忠常によって引き起こされ、平氏本宗家の平直方が追討使に任ぜられる。藤原氏政権としては、手先の武士団が強力になりすぎないよう、同族同士戦わせて勢いを削る意味があったかもしれない。直方は本拠を鎌倉に置くが、成果は捗捗しくなく、平直方家に近い同族の平正輔が、騒乱の地、安房の国司に任じられる。正輔は伊勢に勢力を持っていたが、その経営に忙しく動かない。遂に直方は追討使の任を解かれ、清和源氏の棟梁源頼信が追討使として登場することになる。疲弊しきっていた忠常側、同族の本家争いの意味もあったのであろう、直方に負けるわけにはいかなかったが、源頼信にはあっさり降参してしまう。

すっかり面目がつぶれた、平直方、惣領家の地位も失い、伊豆の北条に土着する。しかしこれが後の鎌倉幕府で権勢をほしいままとする北条氏の始まりとなる。平氏の本惣家は動かなかった平正輔、弟の正度に移る。伊勢平氏である。(平氏にとって伊勢=物資を坂東から畿内へ運ぶ中継地。船を使った。平家と水軍の関係もうなずける)桓武平氏は惣領家が東国での威勢を失い、平氏の庶子家が分流して関東に分散、本家との関係は薄くなる。三浦・和田氏もその中の一団である。

源家は坂東に分散した平氏庶流緒家や他の家筋などがなす武士団の棟梁となる。直方は転んでもただで起き上がらず、源頼信の嫡男、頼義を女婿として迎え、その嫡男義家(八幡太郎)が生まれると、自分が開いた鎌倉の地を譲る。生き残りの一手段なのだろう。源家と鎌倉とのかかわりはここから始まる。前九年の役前夜である。

2011年1月10日月曜日

続 シミオナート(Giulietta Simionato)

シミオナートを懐かしみ、幾つか聴いてるうちに備忘録として記録しておきたくなった。沢山あるが写真も含めて素晴らしいのを
1)チレアの作になるAdriana Lecouvreurから"Sia! Non risponde...Io son sua"。私は初めて聞いた。
テバルディーとのtwo of the greatest singersによる二重唱(クリック)。テバルディーが先に逝ってしまったが、実はシミオナートの方が12年先に生まれている。

2)セビリアの理髪師 ロジーナ役で歌う
”今の歌声は”(Una voce poco fa)(クリック)リンド-ロ(実はアルマビーバ伯爵)への思いを歌う。コロラチューラの歌唱素晴らしいと思う。

3)フィガロの結婚 ケルビーの役で歌う
”恋の悩み知る君は”(Voi che sapete che cosa è amor)(クリック)慕う伯爵夫人にいいところを見せようと、自作の詩を精一杯歌う場面。シミオナート46歳の時の歌唱。

2011年1月5日水曜日

茅ヶ崎にて

海が見たくなって、国道129号線を一路南下、途中隣席の方が、ああ富士山とのたまう。やはり富士山は何だか知らないが、見えるとうれしくなものがある。雲のためくっきりとはいかなかったが、カッコイイ。
昼食は茅ヶ崎の海辺近くにあるGARA中海岸、インド料理の店。二階に準備された室内或いはテラスで食事が出来る。私はテラスでもいいと思ったが、風があるからとて、つれあい殿は室内希望。なかなか美味しい。ナンもなかなか良かった。カレーはマイルド、もうちょっとアクセントがあってもいいかもしれない。女性客が多かった。

海岸では、ウインドサーフィンを楽しむ人たちが数人。寒いでしょうに、元気が良いです。江の島は案外平べったく見えますねー。もう少し背が高いといいのになー。



帰路は藤沢で道に迷って、結局、県道43号線、42号線、46号線で帰ってきた。

2011年1月4日火曜日

正月三が日

新年おめでとうございます。三が日はなんとなくぼんやりと過ごしました。

元日;ボーっと過ごす。朝日新聞の第一面に”教育 あしたへ”と題する記事あり。小学校でも教育の仕方について改革が進んでいるようだ。随分考えさせられることあり。
そういえば去年はハーバード大のサンデルさんの授業が随分話題となった。私もテレビで見たりしたが、アメリカでの学生の反応の仕方に着目して見たもんだった。世間ではサンデルさんの授業の進め方に強い関心を持って着目していたようだった。確かに一つの良い方法だと思った、特に多人数の学生が聴講する授業では。だが、あの方法だけが注目され高い評価を受けるとしたら、どうでしょうね?学生たちが頭を抱え込んで、考え込んでしまうような授業も必要に思うが、もう少し考えたい。

二日目;暮れから昨年の夏に結婚した姪がつれあいと一緒に里帰りしたので、弟のところに集まった。午後から夜遅くまで歓談、歓食(造語)のひと時。クリちゃん(クリストフ君)博士論文を書きながら、日本語も猛勉していて、我々の日本語の会話の一部は分かっている。祝い箸の袋には彼の筆になるひらがなで、きよしおじさんと書いてあった。除夜の鐘も一回打ったという。
もう一人の姪が父親に中国から買って来たという笛を見せてもらい借りてきた。作ってみようと思う。

三日目;お昼少し前に亀ヶ池八幡さんへ。例年は元日に行くのだが、何時もすごい行列で時間がかかるうえ、日陰に入るとひどく寒いので、スイッチ。でも思いのほかの行列だった。
帰路、ミスドへ(知らなかったなーこれ、ミスタードーナッツの略とは。かみさん、遅れてるーってあきれ顔)。コーヒーとドーナッツ、お節疲れのおなかは歓迎した模様。テークアウトで買って帰る同年輩の人が数組。
そういえば、お節作りは段々かみさんの負担になってくるので略式で行こうと言っていたが、蓋をあけると、母から習ったもの、自分が受け継いできたものそう簡単にはやめなかった。例年は元日だけは八つ頭の大きいのをそのまま味噌で煮たものがゴロンと出るのだが、これはやめにした。雑煮は元日が白みそしたて、二日目はおすまし。私が子供のころからのやり方で、白みそは父の家からの伝来、おすましは母の方からの伝来。

四日目;朝、計ったら2Kg増。歩かないとね!