2011年1月11日火曜日

前期・源平盛衰記 坂東デビュー(修正)

2008年の年末に鎌倉幕府を開いた源頼朝をめぐる三浦氏、和田氏、北条氏について書き始めて(クリック可)、すっかり止まってしまっている。三浦-和田軍団が、頼朝の旗揚げに呼応したとはいえ、合流できず、結局、頼朝一行は敗れ、船で安房に落ちのびて立て直しを図らざるを得なかった。にもかかわらず、三浦義明が一人犠牲になったことを以って、三浦党(和田氏を含む)が、後の鎌倉幕府で高い家格を獲得するのはなぜか、胸にすとんと落ちなかった。
今年になって、“もっと行きたい鎌倉歴史散歩”(奥富敬之著)を本屋で見つけ読みだして、そうだったかと思うところがあった。鎌倉市街地の大部分が海の下だったころから説き起こすこの本、なかなか面白いが、ここは坂東(桓武)平氏と河内(清和)源氏の関係について焦点を合わせてみたい。プレ源平盛衰記、即ち清盛、頼朝の登場よりずっと前に遡る。なお、ネット上ではHON氏の坂東千年王国論(クリック可)という大変詳しい著述があることを申し添えよう。

桓武平氏の登場は、桓武天皇の曾孫、平高望が子息5人を連れて、上総介として任地に赴き土着した、平安時代初めのころとなる。上総、下総、常陸に本拠を展開したが、よくあるように内紛がおこる。平将門の乱(武家政権樹立への胎動と見ることもできるが)。これは同族平貞盛を中心とした勢力によって鎮定される。次に起こる内紛は平忠常によって引き起こされ、平氏本宗家の平直方が追討使に任ぜられる。藤原氏政権としては、手先の武士団が強力になりすぎないよう、同族同士戦わせて勢いを削る意味があったかもしれない。直方は本拠を鎌倉に置くが、成果は捗捗しくなく、平直方家に近い同族の平正輔が、騒乱の地、安房の国司に任じられる。正輔は伊勢に勢力を持っていたが、その経営に忙しく動かない。遂に直方は追討使の任を解かれ、清和源氏の棟梁源頼信が追討使として登場することになる。疲弊しきっていた忠常側、同族の本家争いの意味もあったのであろう、直方に負けるわけにはいかなかったが、源頼信にはあっさり降参してしまう。

すっかり面目がつぶれた、平直方、惣領家の地位も失い、伊豆の北条に土着する。しかしこれが後の鎌倉幕府で権勢をほしいままとする北条氏の始まりとなる。平氏の本惣家は動かなかった平正輔、弟の正度に移る。伊勢平氏である。(平氏にとって伊勢=物資を坂東から畿内へ運ぶ中継地。船を使った。平家と水軍の関係もうなずける)桓武平氏は惣領家が東国での威勢を失い、平氏の庶子家が分流して関東に分散、本家との関係は薄くなる。三浦・和田氏もその中の一団である。

源家は坂東に分散した平氏庶流緒家や他の家筋などがなす武士団の棟梁となる。直方は転んでもただで起き上がらず、源頼信の嫡男、頼義を女婿として迎え、その嫡男義家(八幡太郎)が生まれると、自分が開いた鎌倉の地を譲る。生き残りの一手段なのだろう。源家と鎌倉とのかかわりはここから始まる。前九年の役前夜である。

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