Nさんに便乗して、蝉しぐれ。8月8日頃にに上溝 横山公園で採取しました。ミンミン、アブラゼミ、ヒグラシです。クマゼミは入ってません。中頃にテニスコートのあたりで、お山を忘れた鶯が一声鳴きます。その後どうしてるかなー。
2008年8月18日月曜日
2008年8月15日金曜日
雄龍籠山の金毘羅社と川尻八幡宮そして横山荘
城山町史によると、川尻八幡宮は、応神天皇を祭神として大永五年(1525)に創建されているが(もうすぐ500年)、社伝によれば、もっと古く、舎人親王(四十代天武天皇の皇子)の子孫が奥州に降る途中、病に倒れ亡くなり、従者がこの地に葬り、土地の首長が護持していた石清水八幡宮の分霊を御神体として祠を建てたのが今の川尻八幡宮の始まりとのことである。昭和四年境内の北側からその頃(古墳時代)のものと思われる石室が発掘され、直刀や矢じり等が発掘されている。(碑文とそれらしき跡があった)
川尻八幡宮の入口から「一の鳥居」まで、一直線に延びる長い参道の延長上から年に2回(2回と云うのは当然でしょうが)、二月十九日頃の雨水の日と十月二十三日頃の霜降の日に日の出を拝むことができるとのこと。(昔は地平線から上がる赤い太陽を見ることが出来たが、今は建物があって、そうはいかない、と神主さんのお話。この御宮さんのお祭りは8月27,28日にあるそうだが、上溝とはまた趣が異なる伝統的な行事があるようだ)
さて、まっすぐ延びる長い参道を一の鳥居から西を見ると、川尻八幡の杜の奥に雄龍籠山(オタツゴ山)が見える(上の写真。クリックすると大きくなります)。この頂上近くには(城山湖の発電所傍)金毘羅社が鎮座する。文化元年(1804)に住人代表が四国の金毘羅さんをお参りして分霊を持ち帰り、この地に祀ったと伝わる。ここも川尻八幡同様、もっと古くからお社があったのではなかろうか。今は立派なお社があるが、10年前の年越しに参詣した時は階段は崩れかかり、社も今より古びたものだった。(夜景がとてもきれいで、横浜港かどこかで花火をあげるのが見えた)
松風山寶泉寺と小松城址; 雄龍籠山と川尻八幡を結ぶ線上真ん中よりは川尻八幡寄りに、松風山寶泉寺がある(地図参照;クリックすると大きくなります)真言宗のお寺だが、もともとは平安時代末からあったとされ、その時は今の南東の向かい側(ちょうどカタクリの里近く?)にあったとのこと。
現在の位置は実は1300年ごろに片倉城にあった、長井大膳太夫広秀が出城として築いた小松城の領域で、今の境内に居館があったとされている。城の郭は本堂の裏手の尾根にあった。たぶん寶泉寺は菩提寺として城の領域に移されたのであろう。長井氏は鎌倉幕府の政所で力をふるった公家出身の文官、大江広元の子孫で、和田合戦における勲功により広元には族滅した横山党の根拠地、片倉城以下横山荘が与えられていたのであった。
戦国期になるとこの地は小田原の後北条に支配される。お寺の南にある自害谷戸は敗れた長井一族が自害した場所として名前が残っている。後北条のもとでは津久井城と八王子城の連絡の城の意味を持っていた。寺から西の方奥に進むと紅葉で知られた評議原と云う場所があるが、これは今度は後北条が攻められた折に八王子城や津久井城から人が集まって評定をしたという。お寺には板碑、石灯籠や、城跡には謎めいた五輪塔や宝篋印塔など石造物が多くあるという。
横山荘;櫻井徳太郎賞を受賞した松本司氏のB5版29ページの論文「1113年から1213年の横山氏一族の勢力扶植と横山荘」『歴史民俗研究』第1輯 板橋区教育委員会発行(2004/03)において、氏は片倉、八王子あたりではないかという通説を排して、横山党本宗家の所在地として雄龍籠山麓源流地帯に横山荘の中心を求めた。それは8月8日の私のブログ「相原八幡宮と華蔵院(粟飯原(横山)時重の伝承)」で述べたように横山時重が粟飯原を名乗ったということ(相原八幡宮と川尻八幡宮は1.5粁ほどしか離れていない)、それを守るように一族が境川沿い、相模川沿い、そして甲州口に拠点を展開していったことを拠り所にしている。とても全部を紹介出来ないが、要点を述べると:川尻八幡宮の参道と雄龍籠山の金毘羅さんを結ぶ軸線に沿って
1)川尻八幡の裏手カタクリの里から少し南の辺りにかけて最近まで字名として”小野”が使われていたが、松本氏は戦国末、江戸初期の川尻検地帳に”小野”に因む地名が(若葉台の方に行く道に沿って)並ぶということに気付いた(直上の地図;論文から転載した;クリック拡大)。横山氏の本姓は小野篁につながる小野氏と云われている。
2)和田合戦で戦死した31名の横山の人々の内、多くの(多摩八王子あたりの者数名を除いて)苗字とこの地域の地名と対応づけられる。
3)軸線上にある六社明神社は一族の祭神をまとめて祭る神社で、雄龍籠山の神社が山宮に対して、六社明神社が里宮、川尻八幡は里宮本社と見ることができる。この軸線をさらに東に伸ばすと上矢部の御嶽神社(矢部氏)の西鳥居に正確に達するという。更に橋本明神社(藍原氏)の参道も雄龍籠山に向かって線で結ばれると指摘する。小倉八幡宮(小倉氏)は相模川の源流の一つの雌龍籠山(雄龍籠山の南)に向かう。更に大島諏訪神社の参道が雌龍籠山に向かっていること、大島が甲州道の入り口にあることに着目して大島諏訪神社を古郡氏の神社に対応ずけて考える。
細かい議論は省いたが、松本氏は多摩の北面地域(八王子一帯)と相原―矢部―田名を結ぶ一帯が横山荘を成すであろうと指摘した。科学論文のような論理の運びとは趣は違うが、力作であることは櫻井徳太郎賞の価値も知らない門外漢の私にもよくわかる。この論文についてHON氏は掲示板過去ログ集において、和田合戦後、横山荘を与えられた大江広元=長井氏がなぜ川尻、相原地区に本拠を置かず片倉を本拠にしたのか?と疑問を呈しておられる。私は横山一族が相原―矢部―田名を結ぶ一帯を開拓していたことは間違いないであろうと思う。しかしこれを横山荘と云い得たかどうかは別の考察を要すると思う。
実は綾瀬周辺を本拠としていた渋谷氏の渋谷荘の北端は相原地区であったという説がある。もしそうなら、渋谷氏が親戚のよしみで渋谷荘の辺境の地を横山党の人々が開拓することを問題にしなかったとしても、横山荘に組み込むことはできなかったはずである。
もしこの地域に上記のような制限がなかったとしたら、長井氏が生産性の高そうな相原地区を見逃すと云うのは不思議ではある。和田合戦の北条方の勝利は相州北条義時と大江広元の知略と協力が大いにものを云った。和田合戦の後に北条の被官から御家人になった横溝五郎太夫と云う人が上溝城を作ってここを治めたと(「相模原の史跡」;座間美都治著)いうことから見て、相州としては相模の領域分は長井氏に渡さなかったということもあり得るような気がする。(全くの素人考えゆえ、おかしなところは何なりとご指摘いただければありがたい)
関連;「相原八幡宮と華蔵院 (粟飯原(横山)時重の伝承)」、「(伝)田名氏 館址 スライドショー」 、 「(伝)野部(矢部)義兼 館址 (上矢部)」 および 「わだ坂」
さて、まっすぐ延びる長い参道を一の鳥居から西を見ると、川尻八幡の杜の奥に雄龍籠山(オタツゴ山)が見える(上の写真。クリックすると大きくなります)。この頂上近くには(城山湖の発電所傍)金毘羅社が鎮座する。文化元年(1804)に住人代表が四国の金毘羅さんをお参りして分霊を持ち帰り、この地に祀ったと伝わる。ここも川尻八幡同様、もっと古くからお社があったのではなかろうか。今は立派なお社があるが、10年前の年越しに参詣した時は階段は崩れかかり、社も今より古びたものだった。(夜景がとてもきれいで、横浜港かどこかで花火をあげるのが見えた)
松風山寶泉寺と小松城址; 雄龍籠山と川尻八幡を結ぶ線上真ん中よりは川尻八幡寄りに、松風山寶泉寺がある(地図参照;クリックすると大きくなります)真言宗のお寺だが、もともとは平安時代末からあったとされ、その時は今の南東の向かい側(ちょうどカタクリの里近く?)にあったとのこと。現在の位置は実は1300年ごろに片倉城にあった、長井大膳太夫広秀が出城として築いた小松城の領域で、今の境内に居館があったとされている。城の郭は本堂の裏手の尾根にあった。たぶん寶泉寺は菩提寺として城の領域に移されたのであろう。長井氏は鎌倉幕府の政所で力をふるった公家出身の文官、大江広元の子孫で、和田合戦における勲功により広元には族滅した横山党の根拠地、片倉城以下横山荘が与えられていたのであった。
戦国期になるとこの地は小田原の後北条に支配される。お寺の南にある自害谷戸は敗れた長井一族が自害した場所として名前が残っている。後北条のもとでは津久井城と八王子城の連絡の城の意味を持っていた。寺から西の方奥に進むと紅葉で知られた評議原と云う場所があるが、これは今度は後北条が攻められた折に八王子城や津久井城から人が集まって評定をしたという。お寺には板碑、石灯籠や、城跡には謎めいた五輪塔や宝篋印塔など石造物が多くあるという。
横山荘;櫻井徳太郎賞を受賞した松本司氏のB5版29ページの論文「1113年から1213年の横山氏一族の勢力扶植と横山荘」『歴史民俗研究』第1輯 板橋区教育委員会発行(2004/03)において、氏は片倉、八王子あたりではないかという通説を排して、横山党本宗家の所在地として雄龍籠山麓源流地帯に横山荘の中心を求めた。それは8月8日の私のブログ「相原八幡宮と華蔵院(粟飯原(横山)時重の伝承)」で述べたように横山時重が粟飯原を名乗ったということ(相原八幡宮と川尻八幡宮は1.5粁ほどしか離れていない)、それを守るように一族が境川沿い、相模川沿い、そして甲州口に拠点を展開していったことを拠り所にしている。とても全部を紹介出来ないが、要点を述べると:川尻八幡宮の参道と雄龍籠山の金毘羅さんを結ぶ軸線に沿って1)川尻八幡の裏手カタクリの里から少し南の辺りにかけて最近まで字名として”小野”が使われていたが、松本氏は戦国末、江戸初期の川尻検地帳に”小野”に因む地名が(若葉台の方に行く道に沿って)並ぶということに気付いた(直上の地図;論文から転載した;クリック拡大)。横山氏の本姓は小野篁につながる小野氏と云われている。
2)和田合戦で戦死した31名の横山の人々の内、多くの(多摩八王子あたりの者数名を除いて)苗字とこの地域の地名と対応づけられる。
3)軸線上にある六社明神社は一族の祭神をまとめて祭る神社で、雄龍籠山の神社が山宮に対して、六社明神社が里宮、川尻八幡は里宮本社と見ることができる。この軸線をさらに東に伸ばすと上矢部の御嶽神社(矢部氏)の西鳥居に正確に達するという。更に橋本明神社(藍原氏)の参道も雄龍籠山に向かって線で結ばれると指摘する。小倉八幡宮(小倉氏)は相模川の源流の一つの雌龍籠山(雄龍籠山の南)に向かう。更に大島諏訪神社の参道が雌龍籠山に向かっていること、大島が甲州道の入り口にあることに着目して大島諏訪神社を古郡氏の神社に対応ずけて考える。
細かい議論は省いたが、松本氏は多摩の北面地域(八王子一帯)と相原―矢部―田名を結ぶ一帯が横山荘を成すであろうと指摘した。科学論文のような論理の運びとは趣は違うが、力作であることは櫻井徳太郎賞の価値も知らない門外漢の私にもよくわかる。この論文についてHON氏は掲示板過去ログ集において、和田合戦後、横山荘を与えられた大江広元=長井氏がなぜ川尻、相原地区に本拠を置かず片倉を本拠にしたのか?と疑問を呈しておられる。私は横山一族が相原―矢部―田名を結ぶ一帯を開拓していたことは間違いないであろうと思う。しかしこれを横山荘と云い得たかどうかは別の考察を要すると思う。
実は綾瀬周辺を本拠としていた渋谷氏の渋谷荘の北端は相原地区であったという説がある。もしそうなら、渋谷氏が親戚のよしみで渋谷荘の辺境の地を横山党の人々が開拓することを問題にしなかったとしても、横山荘に組み込むことはできなかったはずである。
もしこの地域に上記のような制限がなかったとしたら、長井氏が生産性の高そうな相原地区を見逃すと云うのは不思議ではある。和田合戦の北条方の勝利は相州北条義時と大江広元の知略と協力が大いにものを云った。和田合戦の後に北条の被官から御家人になった横溝五郎太夫と云う人が上溝城を作ってここを治めたと(「相模原の史跡」;座間美都治著)いうことから見て、相州としては相模の領域分は長井氏に渡さなかったということもあり得るような気がする。(全くの素人考えゆえ、おかしなところは何なりとご指摘いただければありがたい)
関連;「相原八幡宮と華蔵院 (粟飯原(横山)時重の伝承)」、「(伝)田名氏 館址 スライドショー」 、 「(伝)野部(矢部)義兼 館址 (上矢部)」 および 「わだ坂」
2008年8月11日月曜日
山中湖一泊
土日と山中湖のペンション馬車道で一泊して来ました。どこも涼しかったようですが、山中湖はとても涼しく一息ついた気がしました。土曜日は道志道の駅付近から雷雨となり、昼過ぎには目的地に到着。馬に乗せてもらう約束でしたが、雨模様で動けず中止となりました。日曜日は早起きして馬に乗せてもらいそぞろ歩き、富士山がうっすらと見えました(写真では林の合間道の先の方に薄ぼんやりと)。そのあと17年ぶりに乗馬(軽早足)のレッスンを少し受けたのですが、やはりだいぶ忘れてました。年寄りの冷や水、お尻がちょっと痛くなりました。
帰りに、花の都公園に寄り、さらに忍野八海まで足を延ばして、角屋さんの美味しい豆腐(お勧め!)を買い、山中湖畔をぶらぶらして帰路へ。道志道の駅でもちょっと買い物して、気分転換の旅を終えました。
2008年8月8日金曜日
相原八幡宮と華蔵院 (粟飯原(横山)時重の伝承)
境川の名は武蔵と相模の境界とすることになった安土桃山時代についた名だそうで、その前は高座(たかくら)川、或いは田倉川と呼ばれていた。相原十字路すぐ南のところで、この川に架かる橋を二国橋と云う。二本松から華蔵院の横を通り、この橋を渡って、七国峠を越える道は平安時代からの古道といわれる。この地点はいわば交通の要衝であったであろう。この橋の東と西にわかれて、川のすぐ南側に相原八幡宮と華蔵院がある。
相原八幡宮;境内入口の所に「相原起番地」の石標が建つ。平安末期、横山党の宗家だった横山時重が粟飯原氏を名乗った。その縁からか、後に人々はこの地に八幡宮を勧請して、その境内を相原一番地と定めたらしい。境内には欅の巨木があり、市の保存樹木は数本ある。きっと鬱蒼とした地域であったであろう。
創建年代は不詳、平成8年に倒れた御神木の欅の樹齢が数百年以上といわれることから推して、栗飯原氏がこの地に進出した(横山氏のもともとの本拠地は八王子横山から片倉あたりと言われている)頃にはあったのではないかと言われている。ご神体は鏡で、華蔵院で護持されているという。
龍源山 正泉寺;天正19年に開かれたお寺で、津久井根小屋の功雲寺の末寺とのこと。400年の歴史を感じさせる、古い墓石が並べてあった。この境内は決して狭いとは言えないが、昔は吉川家の屋敷内にあったお寺とか、昔の武家の屋敷は随分と広かったことだろう。
児松山 華蔵院;真言宗のお寺。 享徳年間(1452~4)僧・秀慶の開創と伝えられ、ご本尊は阿弥陀如来。関東88か所 第62番霊場 相原八幡宮の別当寺であったため神仏習合の影響が強くのこる。境内に相原天満宮も合祀されている。市保存樹木の大銀杏の樹齢は400年とのこと。
粟飯原氏;粟飯原時重、その子時廣は平安末から鎌倉初期の横山党の当主で、横山党はもともと八王子横山、片倉あたりを本拠としていたが、南下して相模原周辺に展開した。弟の藍原孝遠がJR相原駅の東方、御殿峠古道に沿って展開、そしてその子が、上矢部に陣取った矢部義兼である。孝遠の弟、古郡忠重は甲斐への備えとして上野原市 古郡郷、その弟、経孝と子供たちは小倉、小山を拠点として開拓していった。因みに田名に拠った田名広季は時廣の子にあたる。つまり横山党は相原を中心に境川、相模川に沿って進出していた。また時重の娘が和田義盛や渋谷庄司重高に嫁し、もっと前に縁を結んだ海老名氏、また一族が愛甲、荻野に拠り、東方は町田から鶴見川流域まで進出していった。
和田義盛とともに和田の乱を戦った横山党は時重の嫡男時廣の子、重兼の横山宗家並びに上に記した人々を含む一族で、和田氏とともに戦い利あらず敗れ去り、いわば族滅の状態となった。鎌倉幕府は横山の名を残すことだけは許したようで、戦死した重兼に養子を取り(重時)後を継がせた。ただ一族は地方へ散って雌伏する。重時の系は尾張で帰農するが、後に前田利家に仕え、加賀百万石の家老の家柄となる。またその流れの中には徳川家康に器量を買われて、旗本になった者もいたという。
相原八幡宮;境内入口の所に「相原起番地」の石標が建つ。平安末期、横山党の宗家だった横山時重が粟飯原氏を名乗った。その縁からか、後に人々はこの地に八幡宮を勧請して、その境内を相原一番地と定めたらしい。境内には欅の巨木があり、市の保存樹木は数本ある。きっと鬱蒼とした地域であったであろう。創建年代は不詳、平成8年に倒れた御神木の欅の樹齢が数百年以上といわれることから推して、栗飯原氏がこの地に進出した(横山氏のもともとの本拠地は八王子横山から片倉あたりと言われている)頃にはあったのではないかと言われている。ご神体は鏡で、華蔵院で護持されているという。
龍源山 正泉寺;天正19年に開かれたお寺で、津久井根小屋の功雲寺の末寺とのこと。400年の歴史を感じさせる、古い墓石が並べてあった。この境内は決して狭いとは言えないが、昔は吉川家の屋敷内にあったお寺とか、昔の武家の屋敷は随分と広かったことだろう。
児松山 華蔵院;真言宗のお寺。 享徳年間(1452~4)僧・秀慶の開創と伝えられ、ご本尊は阿弥陀如来。関東88か所 第62番霊場 相原八幡宮の別当寺であったため神仏習合の影響が強くのこる。境内に相原天満宮も合祀されている。市保存樹木の大銀杏の樹齢は400年とのこと。
粟飯原氏;粟飯原時重、その子時廣は平安末から鎌倉初期の横山党の当主で、横山党はもともと八王子横山、片倉あたりを本拠としていたが、南下して相模原周辺に展開した。弟の藍原孝遠がJR相原駅の東方、御殿峠古道に沿って展開、そしてその子が、上矢部に陣取った矢部義兼である。孝遠の弟、古郡忠重は甲斐への備えとして上野原市 古郡郷、その弟、経孝と子供たちは小倉、小山を拠点として開拓していった。因みに田名に拠った田名広季は時廣の子にあたる。つまり横山党は相原を中心に境川、相模川に沿って進出していた。また時重の娘が和田義盛や渋谷庄司重高に嫁し、もっと前に縁を結んだ海老名氏、また一族が愛甲、荻野に拠り、東方は町田から鶴見川流域まで進出していった。和田義盛とともに和田の乱を戦った横山党は時重の嫡男時廣の子、重兼の横山宗家並びに上に記した人々を含む一族で、和田氏とともに戦い利あらず敗れ去り、いわば族滅の状態となった。鎌倉幕府は横山の名を残すことだけは許したようで、戦死した重兼に養子を取り(重時)後を継がせた。ただ一族は地方へ散って雌伏する。重時の系は尾張で帰農するが、後に前田利家に仕え、加賀百万石の家老の家柄となる。またその流れの中には徳川家康に器量を買われて、旗本になった者もいたという。
2008年8月7日木曜日
公共の物は私物以上に大切にしたいもの
今朝の朝日の地方版には、市県民税の課税ミスのことが出てましたが、取り損ねて、更に取る方が、取り過ぎで返す分より多いとのことです。一般に、取る方は熱心でも返す方は熱心でないのがお役所(課税はこちらが不熱心でもちゃんと取りますが、還付はこちらが熱心に書類を作って申請しないと返ってこない)。注意肝心ですね。ところでその隣に、なんとも残念な記事が出てました。図書館の本が、マーカーで塗られてたのはまだしも、一部切り取られていたり、ペットにかじられているものがあったりとのこと。ひどいもんです。
みんなで大声で言いましょう「図書館の本は市民の共有のもの。共有のものは、自分のもの以上に大切にしよう」と。(クリックすると大きくなります)
2008年8月4日月曜日
子供たちとの遊びを一旦終わりにしました
前にも触れましたように、ご近所の小学校5,6年生の子供達3人と、電磁石&電池で鳴らすベル、紙飛行機、横笛を作ろう と云う試みをしました。5,6年生の子供と作業をしながら遊ぶという経験は全くなかったので、私自身彼らから学ぶことも今回の試みの狙いでした。
実施してみて、最初のうち戸惑っている子もいましたが、よく分かったことは、出来合いの物の方が良いのではないかと思いきや、自分で作って遊ぶということへの希求の気持ちが強いということでした。ただ困ったことは、手軽に教材が手に入らないと云う事です。今回は私が学ぶという意味もあったので、初期投資とて、ベルはネットで探して、私の負担で購入しました。紙飛行機の型紙は昔、買ってあったものがあったので提供しました。今後に関してこの辺の手当が必要です。今後の活動の拡大も視野に、町内会の方に相談を始めましたが、どんなことになるか。
実際の実施となるとこれも工夫が必要だと思いました。ベルを作るまでは、かなり集中していましたが、後に行くにしたがい、慣れてきたこともありますが、気が散りやすくなりました。特に笛を作るための工具は1セットしかなく、同時進行で作業が出来ませんでした。第一作目はどれも出来が悪いか失敗になり、刃物を使うだけにこれ以上続けるのは危険と判断し、3人の第二号は趣旨に反しますが、私が作って渡し、吹く練習をして笛の試みは終えました。撮った写真などを挿入してB5版10ページのレジュメを作って配り、先週火曜日で一応の終止符を打ちました。
どんなことを題材とするかと云う事も大きな課題です。この活動に関心を持って下さったネットのお仲間のSさんとざっくばらんにお話をしましょうということになり、心強く思っています。
横笛これは私が一番楽しんじゃったかもしれません。反省を込めて。
横笛はWさんのご厚意に甘えて、竹を使わせていただきました。ハ長調(C調)のものを作るべきと思い、まずは自己流で指孔の位置を決めたのですが、ネットを見ているとやはりその道でいろんな追求が行われていました。その中から7穴C調(7穴8本調子)のものを選び、作りました。ある程度吹きやすいと感じる笛が出来るようになりました。写真は子供たちに配った後に作ったものを含め、手前から第3号(自己流)、以後は7号、8号、10号で、ネットの手法から学んだ方法によっています。8号が最も吹きやすく思います。まだ指の動かし方、吹き方が慣れてないのですがちょっと鳴らしてみました。まず3号。3号はドレミ・・・・のみで、指の間隔が狭かったりして吹きにくくやはり自己流は放棄です。次に最新の10号で吹いたものです。まだ音程に調整が必要のような気がしますが。音が実際より甲高くとぎれとぎれみたいになるのはなぜか?
お粗末でした!
実施してみて、最初のうち戸惑っている子もいましたが、よく分かったことは、出来合いの物の方が良いのではないかと思いきや、自分で作って遊ぶということへの希求の気持ちが強いということでした。ただ困ったことは、手軽に教材が手に入らないと云う事です。今回は私が学ぶという意味もあったので、初期投資とて、ベルはネットで探して、私の負担で購入しました。紙飛行機の型紙は昔、買ってあったものがあったので提供しました。今後に関してこの辺の手当が必要です。今後の活動の拡大も視野に、町内会の方に相談を始めましたが、どんなことになるか。
実際の実施となるとこれも工夫が必要だと思いました。ベルを作るまでは、かなり集中していましたが、後に行くにしたがい、慣れてきたこともありますが、気が散りやすくなりました。特に笛を作るための工具は1セットしかなく、同時進行で作業が出来ませんでした。第一作目はどれも出来が悪いか失敗になり、刃物を使うだけにこれ以上続けるのは危険と判断し、3人の第二号は趣旨に反しますが、私が作って渡し、吹く練習をして笛の試みは終えました。撮った写真などを挿入してB5版10ページのレジュメを作って配り、先週火曜日で一応の終止符を打ちました。
どんなことを題材とするかと云う事も大きな課題です。この活動に関心を持って下さったネットのお仲間のSさんとざっくばらんにお話をしましょうということになり、心強く思っています。
横笛これは私が一番楽しんじゃったかもしれません。反省を込めて。
お粗末でした!
2008年8月1日金曜日
駄作2首
「風鈴の 音もかそけき 夕暮れに ノウゼンカズラは ほのかに揺れて」(2日朝修正)
ついでにもう一首(季節外れですが)
「白妙の 野バラとともに 咲き乱れる ジャケツイバラの もゆる黄の花」
今年実は、生まれて初めてジャケツイバラを見たのですが、深く惹かれました。来年にまた見たいものと、楽しみにしています。
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