2013年10月31日木曜日

神在月(今日は最終日だけど)出雲にて

10月は出雲は神在月、今日は最終日になってしまいました。出雲では神々が集まって縁結びの会議をするのだそうで。
大和朝廷が統一した形で成立するにあたって、征服された有力な王圏の中心が出雲にあったということは大方の見方。被征服者の長が祀られているのが大社らしい。被征服者をこそ丁寧に祀るのが、古来からの日本文化の特徴の一つなのだろう。古代の国譲り神話では、各地から有力者が集まって会議をした(戦もあったでしょうが)ということになっています。神々の会議の話は上記と無縁じゃないのでしょう。
この辺の話はまだまだわからないことが多くって諸説が紛々としているらしいけれど、今回は歴史博物館に寄って、どんな風に考えられているか、雰囲気を感じてきたいという事がありました。
宍道湖西岸近く「荒神谷遺跡」で1984年 - 1985年の2年間の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土したというのです。銅剣は見事に整列した形で。
さらに1996年に、荒神谷遺跡から3kmぐらいしか離れてない加茂町(現雲南市)岩倉で日本最多となる39個の銅鐸が出土したというので、新聞にも出ていたことを思い出します。私たちは若い時、銅矛、銅剣文化圏、銅鐸文化圏といった二つの文化圏があったように習いましたが、ここでの発見も含めて、そのような分類の仕方は揺らいでいるようです。銅鐸の作成時期は弥生時代ですが、歴史的にはすでに天智天皇の頃に発掘されていて、その時から用途は不明だったとのこと。銅鐸インゴット説の本もあったり(笑ころ図書館)で、銅鐸は分らないことが多いようです。
昔のお社の柱と銅鐸の写真を。左の写真は太い木を三本まとめて一つの柱にして大社を作っていたらしいが、その柱の根っこのところが展示されてました。このような柱が一組ではなく多数使われていたのですから、巨大な建物が上にできていたのではないかと想像され、その建立は壮大な事業であったろうと想像されます。また、銅剣、銅鐸の展示は壮観そのものでした。
写真を撮ってくるのを忘れましたというか、壮観さに見入ってしまって撮るのを忘れましたが、360本近い数の銅剣が壁一面に展示されているのはすごかったです。加えて銅鐸が一度に出土した数も今のところ最高とのこと。これらを埋蔵したというのはどういう発想からなのか。

お墓の中から副葬品として発掘されたことはなく、村外れたの丘陵の麓、或いは頂上の少し下の方からの出土がほとんどで、しかも浅い穴を掘って横たえた場合がほとんど。個人の権力の象徴でもなさそうです。

2 件のコメント :

QQ さんのコメント...

あらら、 私達はここも歴史博物館に
入らずでした!
面白そうでしたね!

世界遺産に登録された銀山へ
急いでいて・・・

権兵衛 さんのコメント...

私たちは、背の君が足を痛めていて、銀山の中を歩くのはちょっと・・
と言うものですから、銀山には入らずじまいでした。