出雲を出て山口県の東萩へ向かったが、島根西部の益田と山口北部の奈古の間が列車は不通で、バスによる代替運行が行われていた。これは今年7月28日にこの地域を襲った局地的な集中豪雨による災害のためだという。
益田駅でバスに乗り換えたころはまだ明るかったのですが、10月も下旬となると、日が暮れるのも早い。バスが約45キロ離れた奈古駅に着いたころはすっかり暗くなっていた。途中、バスが走っていた国道191号線も片道通行の区間が少々あった。
途中、スーツケースを持った60代後半といった年恰好の女性がバスに乗車した。乗客は少ないので、すぐ目に入るのだが、旅行中の人とは見えなかった。
奈古駅からの列車の中は高校生が多く、その女性と我々はわずかに空いていた一隅に一緒に腰掛けることになった。
何とはなしに、我々は件の集中豪雨のことを話題にしようとしたが、その女性はむしろ、東北や大島の災害を口にする。しばらくそんな話をしたあとで、彼女は遠慮気味に件の集中豪雨のことを、ぽつぽつと語り始めた。集中豪雨の被災者だったのだ。
家が住めなくなるほどの破壊を受けたそうで、萩の息子さんのところに身を寄せて、後片付けに通っているのだとのこと。スーツケースは出てきたもので重要なものを入れるの持っていくのだという。
この災害は未曽有の東北の大災害に比べれば小さい規模のものでしょうが、7月28日から3か月経つというのに、汽車がいまだ開通していないのも驚きですが、被災者も通いながらかたずけをしているような状態に驚きました。
東萩駅で乗り合いタクシーを待つ間、観光案内所の人と家内が雑談をしたのですが、現地の人たちも復旧が遅すぎる、お金が回ってきてないと感じているようでした。
極端な言い方をすれば、列島の中心を通る山地のヘリにへばりつくようにして我々日本人は暮らしています。
関東地方は比較的広く、普段はあまり強く感じないですましていますが、気象、地象による山から、川から、海からの攻撃に晒されているという
現実を、今更ながらに強く感じました。
2013年10月31日木曜日
神在月(今日は最終日だけど)出雲にて
10月は出雲は神在月、今日は最終日になってしまいました。出雲では神々が集まって縁結びの会議をするのだそうで。
大和朝廷が統一した形で成立するにあたって、征服された有力な王圏の中心が出雲にあったということは大方の見方。被征服者の長が祀られているのが大社らしい。被征服者をこそ丁寧に祀るのが、古来からの日本文化の特徴の一つなのだろう。古代の国譲り神話では、各地から有力者が集まって会議をした(戦もあったでしょうが)ということになっています。神々の会議の話は上記と無縁じゃないのでしょう。
この辺の話はまだまだわからないことが多くって諸説が紛々としているらしいけれど、今回は歴史博物館に寄って、どんな風に考えられているか、雰囲気を感じてきたいという事がありました。
宍道湖西岸近く「荒神谷遺跡」で1984年 - 1985年の2年間の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土したというのです。銅剣は見事に整列した形で。
さらに1996年に、荒神谷遺跡から3kmぐらいしか離れてない加茂町(現雲南市)岩倉で日本最多となる39個の銅鐸が出土したというので、新聞にも出ていたことを思い出します。私たちは若い時、銅矛、銅剣文化圏、銅鐸文化圏といった二つの文化圏があったように習いましたが、ここでの発見も含めて、そのような分類の仕方は揺らいでいるようです。銅鐸の作成時期は弥生時代ですが、歴史的にはすでに天智天皇の頃に発掘されていて、その時から用途は不明だったとのこと。銅鐸インゴット説の本もあったり(笑ころ図書館)で、銅鐸は分らないことが多いようです。
昔のお社の柱と銅鐸の写真を。左の写真は太い木を三本まとめて一つの柱にして大社を作っていたらしいが、その柱の根っこのところが展示されてました。このような柱が一組ではなく多数使われていたのですから、巨大な建物が上にできていたのではないかと想像され、その建立は壮大な事業であったろうと想像されます。また、銅剣、銅鐸の展示は壮観そのものでした。
写真を撮ってくるのを忘れましたというか、壮観さに見入ってしまって撮るのを忘れましたが、360本近い数の銅剣が壁一面に展示されているのはすごかったです。加えて銅鐸が一度に出土した数も今のところ最高とのこと。これらを埋蔵したというのはどういう発想からなのか。
お墓の中から副葬品として発掘されたことはなく、村外れたの丘陵の麓、或いは頂上の少し下の方からの出土がほとんどで、しかも浅い穴を掘って横たえた場合がほとんど。個人の権力の象徴でもなさそうです。
大和朝廷が統一した形で成立するにあたって、征服された有力な王圏の中心が出雲にあったということは大方の見方。被征服者の長が祀られているのが大社らしい。被征服者をこそ丁寧に祀るのが、古来からの日本文化の特徴の一つなのだろう。古代の国譲り神話では、各地から有力者が集まって会議をした(戦もあったでしょうが)ということになっています。神々の会議の話は上記と無縁じゃないのでしょう。
この辺の話はまだまだわからないことが多くって諸説が紛々としているらしいけれど、今回は歴史博物館に寄って、どんな風に考えられているか、雰囲気を感じてきたいという事がありました。
宍道湖西岸近く「荒神谷遺跡」で1984年 - 1985年の2年間の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土したというのです。銅剣は見事に整列した形で。
さらに1996年に、荒神谷遺跡から3kmぐらいしか離れてない加茂町(現雲南市)岩倉で日本最多となる39個の銅鐸が出土したというので、新聞にも出ていたことを思い出します。私たちは若い時、銅矛、銅剣文化圏、銅鐸文化圏といった二つの文化圏があったように習いましたが、ここでの発見も含めて、そのような分類の仕方は揺らいでいるようです。銅鐸の作成時期は弥生時代ですが、歴史的にはすでに天智天皇の頃に発掘されていて、その時から用途は不明だったとのこと。銅鐸インゴット説の本もあったり(笑ころ図書館)で、銅鐸は分らないことが多いようです。
昔のお社の柱と銅鐸の写真を。左の写真は太い木を三本まとめて一つの柱にして大社を作っていたらしいが、その柱の根っこのところが展示されてました。このような柱が一組ではなく多数使われていたのですから、巨大な建物が上にできていたのではないかと想像され、その建立は壮大な事業であったろうと想像されます。また、銅剣、銅鐸の展示は壮観そのものでした。
写真を撮ってくるのを忘れましたというか、壮観さに見入ってしまって撮るのを忘れましたが、360本近い数の銅剣が壁一面に展示されているのはすごかったです。加えて銅鐸が一度に出土した数も今のところ最高とのこと。これらを埋蔵したというのはどういう発想からなのか。
お墓の中から副葬品として発掘されたことはなく、村外れたの丘陵の麓、或いは頂上の少し下の方からの出土がほとんどで、しかも浅い穴を掘って横たえた場合がほとんど。個人の権力の象徴でもなさそうです。
2013年10月28日月曜日
京王電車5000系@一畑電鉄(出雲)
あれっ!どこかで見たような電車!!!そうでした京王電鉄で5000系として走っていた、電車でした。
出雲の一畑電鉄で、姿のみならず塗装まで変えずに走っていました。形式ナンバーだけ2100系に変えて。どこの電鉄から入れるか、決定にはどんなことが決め手になるんでしょうね。京急だって広軌だけど。
一畑電車では南海電鉄からも電車を導入していました。最初、昔、東横線で走ってたやつじゃないかなんて思ったのですが、そんなはずないか、私が中学の頃のことですから。実際中に入ってみて、壁の説明を見て、南海電鉄からと知りました。東横線のはもっと濃いグリーン一色で、少し下膨れだったかな。それにそんなはずないのは、東横線は狭軌だった。
南海電鉄で21000系だったのが一畑電鉄では3000系として走っていました。
一畑電車では南海電鉄からも電車を導入していました。最初、昔、東横線で走ってたやつじゃないかなんて思ったのですが、そんなはずないか、私が中学の頃のことですから。実際中に入ってみて、壁の説明を見て、南海電鉄からと知りました。東横線のはもっと濃いグリーン一色で、少し下膨れだったかな。それにそんなはずないのは、東横線は狭軌だった。
南海電鉄で21000系だったのが一畑電鉄では3000系として走っていました。
2013年10月26日土曜日
松江城付近にて
松江城付近をぶらっと歩きました。
松江城は現在重要文化財に指定されているが、地元では国宝への昇格を狙って頑張っているとのこと。天守閣は地味ですが、すきっとした状態で建っていました。最上階からの眺めも素晴らしいものでした。ただ雲が多くて伯耆大山を見ることができませんでした。
搦め手から城外に出て、北側にある、中級武家が住んだ屋敷があるあたりに出ました。そこに小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が住んだ家、及び小泉八雲記念館がありました。記念館で心打たれたのは、夫人の小泉セツがハーンとのコミュニケーションのために猛烈な努力をしていたこと。独自に作った単語帳(英単語をカタカナで書き、日本語の意味をひらがなで書いた対照表)の展示があったりした。彼にあてたセツの手紙も展示してあったが、まるで英文のような語順でカタカナ単語が並びます。
セツとハーンの交流に触れた一文がネットに出ていたので、それを紹介した方がよいと思います。<--訪ねてみてください。胸打たれます。
お堀端のお休み処で一休みして、中級武家の屋敷、塩見家が住した、武家屋敷が公開されていました。玄関わきには応接の間、武者隠しもあり、その奥に、当主、夫人、子供の部屋が、さらに納戸、仏間、厠、風呂場といった具合。簡単なもので、100石取りクラスがこの程度だから、下級武士は大変なことだったのでしょう。 塩見氏はその才覚が認められ家老格まで上り詰めたらしく、その名が道路にまで塩見縄手として残っていました。
最後に松江歴史館に立ち寄って駅に出て、出雲へ移動しました。歴史館は城の大手門近く、旧家老屋敷跡地に建てられていました。
撮ってきた写真の一部を動画仕立てでまとめました。
松江城は現在重要文化財に指定されているが、地元では国宝への昇格を狙って頑張っているとのこと。天守閣は地味ですが、すきっとした状態で建っていました。最上階からの眺めも素晴らしいものでした。ただ雲が多くて伯耆大山を見ることができませんでした。
搦め手から城外に出て、北側にある、中級武家が住んだ屋敷があるあたりに出ました。そこに小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が住んだ家、及び小泉八雲記念館がありました。記念館で心打たれたのは、夫人の小泉セツがハーンとのコミュニケーションのために猛烈な努力をしていたこと。独自に作った単語帳(英単語をカタカナで書き、日本語の意味をひらがなで書いた対照表)の展示があったりした。彼にあてたセツの手紙も展示してあったが、まるで英文のような語順でカタカナ単語が並びます。
セツとハーンの交流に触れた一文がネットに出ていたので、それを紹介した方がよいと思います。<--訪ねてみてください。胸打たれます。
お堀端のお休み処で一休みして、中級武家の屋敷、塩見家が住した、武家屋敷が公開されていました。玄関わきには応接の間、武者隠しもあり、その奥に、当主、夫人、子供の部屋が、さらに納戸、仏間、厠、風呂場といった具合。簡単なもので、100石取りクラスがこの程度だから、下級武士は大変なことだったのでしょう。 塩見氏はその才覚が認められ家老格まで上り詰めたらしく、その名が道路にまで塩見縄手として残っていました。
最後に松江歴史館に立ち寄って駅に出て、出雲へ移動しました。歴史館は城の大手門近く、旧家老屋敷跡地に建てられていました。
撮ってきた写真の一部を動画仕立てでまとめました。
2013年10月25日金曜日
鳥取ー安来
10月19日出発の予定だったのだが、以前に属していた合唱団の演奏会を聴き終わってからでは、鳥取への最終便に間に合わすことは無理なので、19日夜、羽田前泊して翌日早朝の鳥取行に乗りました。機体は退役が間もないB737。よく頑張って飛んでくれました。
まずは、話のタネにと鳥取砂丘に。予想していたよりも規模の大きい砂丘で、風が作った岡がいくつかあり、若い人は海側の大きな丘に歩いていました。下の写真左側。右にある図の矢印のところから矢印の方向を見たのが、左側の写真です。写真はクリックすると少しは大きくなります。
すぐに汽車で安来に移動すべく、鳥取駅へ。砂丘そばの美術館では砂による像の展覧会が催されていましたがパス。駅頭にミニチュアがでていました。下の写真左。天気は悪く、大山が見えない。汽車の駅名だけでもと撮ってきました。
安来の目的は足立美術館。笑ころ図書館に登録されていた、美術館創立者足立氏に関する本をお借りして読んでいたので、興味を持って訪ねたのでした。横山大観とその仲間たちという特別展も開催されていて、楽しんだのですが、ここはお庭自慢のところで、さすがに実にがっちり作った庭は見事でした。過去五年間庭園に関するジャーナルで日本一に輝くのもなるほどと思うほど、手入れもよくて、庭に込めるエネルギーはすごいものがあると思いました。写真の合成技術ダメですが、借景の一部が以下のごとくです。
ただ、もし私が好きかどうか聞かれたら好きではないと答えます。そう広くないところに作りこみすぎていて、何かゆったりした気持ちにはなれませんでした。
喫茶室で食べた抹茶アイスにぜんざい風の暖かい小豆ソースをかけるスイーツ上品な甘さで、とてもよかったです。
夕方遅く安来から松江へ移動。松江城、武家屋敷、旧小泉八雲宅などを訪れます。
夕方遅く安来から松江へ移動。松江城、武家屋敷、旧小泉八雲宅などを訪れます。
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