2008年7月28日月曜日

日曜講演会 丹沢山地の地質 (青池寛博士)

こんな講演会があるよ、と連れ合いさんが教えてくれた。即ち27日(お祭りの日の午後2時から4時まで)市立博物館で独立行政法人海洋研究開発機構の青池 寛博士による表記の講演会で、丹沢の形成にも話が及ぶと云う。全くの門外漢だが、陸地の移動を知ってからと云うもの、斜めにではあったが、興味を持ってきた。一も二もなく行くことにした。つれあいも行くと云う。行ってみるとかなり多くの参加者が所謂、シニアであった。
お話はかなり専門的だった。地質学は疎い私には全く暗く、なかなかお話の意図がつかめなかったが、後半に入って、ああこれが前に話されたことと結びつくのかと思って聞くところもあった。
後半を簡単に云うと、丹沢山塊はフィリピン海プレート上の伊豆・小笠原弧と本州との衝突の産物で,地震の時に良く紹介されるように、衝突によってフィリピン海プレートが沈み込むが,火山帯と重なる伊豆・小笠原弧は暖かく、その場合はなぜか単に沈み込むだけでなく、境目にある地底の岩石を押し上げるらしい。これが丹沢山塊を形成したと言われたように思う。とても詳しく紹介する能力を持ち合わせないが、富士箱根、御坂山地、丹沢山地、伊豆半島も、上から見渡すと案外面白い構造だ。青池博士が示されたビューグラフのうち一般的と思われるものを写した写真をスライド5枚にした。5枚目は多分グリーンの部分がいまの陸地(Mt. Fuji-->を入れたのは私)で、太平洋には伊豆・小笠原弧が広い範囲に広がっている。この地帯は暖かい地域である故、今後も押し寄せて来るのだから、沈み込むだけでなく陸地を増やしていくことになりやしないだろうか。版図拡大!ただし年3cm(聞き間違えてなければ)の速さらしいが。
(話は、プレート移動衝突による大陸形成の機構にまで及んだ)










次回の市立博物館の 日曜講演会は8月24日(14-16時)で演題と演者は「丹沢のカエルやサンショウウオ」で首都大学東京の助教の草野 保氏とのこと。

上溝夏祭り

27日の宵は最高潮となりました。宵の7時半ころから、神輿揉みが行われる本町T字路に陣取って撮影しました。

説明なしで楽しみましょう。

2008年7月25日金曜日

横笛第7号

子供たちと理科、工作をする最初の試みは横笛で一段落します。子供のころに作ったことがあるから、大したことないだろうなんて気楽に考えていましたが、研究に全力を挙げてる方がおられるくらいです。何事も奥が深いですネ。自分で吹けなきゃ教える訳にもいかず、ごそごそいじくり、ようやく注意点などをある程度は分かった気がしました。横山公園で会った音楽大好きシニアーの方は尺八を100も作ったとか。それに比べりゃ第7号なんて屁みたいなものですが、ようやく今までに比べて滑らかに音が出るようになりました。7号器は管頭約3cmの部分には湿らせたティシューペーパーが圧縮してつめてあります。本当は和紙を使うのだそうです。


笛を作るのに使った工具です。大きなお菜箸は紙やすりをつけて中を磨いたり、ティシュウペーパーを突きこむのに使いました。そのほかに、テーブルにのってるのは、糸鋸、紙やすり、やすり、彫刻刀(小刀可)、ドリルは高かったのでファイルソーと云うのを買いました。錐、ねずみ錐、音叉、敷物としての板と段ボールです。
本当は大人も随分楽しめるような気がします。作るのも楽しいし、きっと吹き方も工夫する楽しさがありそうです。ちょっとしたものでも楽器店で買うと5千円から1万円近くします。見映えは多少悪くても楽しめればと云う方はおられるでしょう。講習会と云うほどしっかりしたものは出来そうも有りませんが、一緒に楽しむ気持ちの方たちがあったらWさんが示唆されてるようなことをやってもいいなーと思います。

子どもたちは自分の手で作って遊ぶことに大変強い意欲を持っています。残念なのは、自分たちでモーターを組み立てるとか、ベルをつくるとか、材料が手軽に手に入らないことでしょう。
やりたくて始めたことですが、一人でやってるとつらいものもあります。種が切れそうですし、他のことでも相談できる方が居ると有難いなーと思うことがあります。そんな相談の手がかりが出来たら、なお有難いです。

2008年7月22日火曜日

暑中お見舞い申し上げます


毎日ひどい暑さが続きますが、皆さん良く食べ、良く運動し、良く寝てこの暑さを乗り越えましょう。
さっぽろ雪まつりの記念はがきから取り込みました。自衛隊第11特科連隊の作品(2000年雪まつり)とのことです。

2008年7月20日日曜日

もうヒグラシ蝉が鳴いてました

昨日はひどく暑く、昼間買い出しに付き合ったらすっかりグロッキーになり、夕方やっと横山公園に作った横笛の練習も兼ねて出かけました。9寸の横笛ですが低音の音がかすれてうまく出ません。
競技場付近を歩いていると鶯が鳴くのが聞こえます。とうとうお山を忘れてしまったようですね。方向は築山の向こうの方。なんとなく惹かれてそちらに行くとナント、ヒグラシが2匹カナカナカナと鳴きだしました。ちと早すぎないか。地中でも異変が起こっているのでしょうか。
そのまま上溝中のグランドの横を抜けて上溝駅に廻って帰りました。途中どこかの自治会館から太鼓と笛の音が聞こえます。つられて見に行くと、多分、尺2寸の長い横笛を持った少女が会館の玄関入り口に座って練習しています。わが9寸の笛と見比べ、これ難しいんだろうなと感心するやら。見とれてました。 
上溝のお祭りも、もうすぐですね。

p.s. 上溝駅からからグリーンプールの方に抜けるには上溝中のグランド脇(相模線そば)を通るのが便利ですが、薄暮になって人通りが途切れがちになったら、女性一人で通るのはやめた方がいいかもですね。

2008年7月18日金曜日

秀珍山 寶光寺 (大石源左衛門)

曹洞宗のお寺で下溝天応院の末寺。上溝小学校のすぐ南に位置する。上溝本郷(上溝駅の南、姥川の北側、今は宅地となり見る影もないが、昔は久保が谷戸と呼ばれる地域であったと伝わる)にあった向西庵を慶長年間(1596-1615)に名主の佐藤対馬が現地に移して寶光寺として開基した。
寶光寺の前身である向西庵には、関東管領、山内上杉氏の守護代、大石定久にまつわる話が伝わる。




大石氏(木曽義仲の後裔と称し、源左衛門と名乗った)は本拠を武蔵国多摩郡に定め、地域的領主としての基盤を固めていた。上溝付近もその支配下にあった。
関東管領山内上杉憲政は全く力を失い、関東から越後に逃げ、長尾景虎(後の上杉謙信)に家督を譲るありさまで、大石定久も武田信玄と小田原の(後北条)北条氏康との狭間で奮闘していたが、北条氏康の3男の氏照を養子に受け入れる形で、後北条の軍門に下り、守護代から戦国大名にという出世はならなかった。氏照は大石源左衛門を名乗った時期もある。
定久は多摩の戸倉(あきる野市)に出家して隠棲し、終わったとされているが、寶光寺には定久は出家後、娘の向西尼とともに向西庵に住み修業したと伝わる。おそらく悲劇の武将の話が上溝にも伝わり、その名を惜しむ人たちに向西尼にプラスした形で伝承されたのではないだろうか。大石定久の墓は多摩の京王堀之内近くの永林寺にある。

北条氏照は八王子城を作り、武蔵への進出の拠点としようとしたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、八王子城は激しい戦闘の末、前田利家、上杉景勝の連合軍に落され、本拠小田原城も落ち、北条のエースになっていた氏照は兄氏政とともに切腹した。
後北条の滅亡により、室町時代の初めころからずーっと続いていた関東の戦乱状態に終止符が打たれ、徳川の支配が始まった。

北条の対甲斐の重要拠点になっていた津久井城は、小田原攻めの際、徳川家康の家臣、本多忠勝により落城した。番田に伝わる穂打唄(ぼうちうた)の一節に
”津久井の城が落ちたげな
 弓と矢と 小旗がながれくる”
とあるそうだ。
ずーっと眺めてきた城にあがった火の手と、相模川に流れくる敗者の武具、土地の農民の哀歓がこもっているような・・・。

北条氏康の辞世の歌
”旗立てし昔を松も知るらめや 風に靡かぬ草も木もなき”

p.s. 撮影しながら境内に入って行くと、ナントうら若き女性がベンチに座ってノート片手に沈思黙考の様子。思いもかけないことにチト慌てたが、会釈して通り過ぎ、邪魔しないように撮影したつもり・・・。(映像の後半は前半の1週間前に撮ったものです、光の感じが違います)

天応院がある下溝堀之内は氏照の娘と強いかかわりがある。相模原には北条氏照の影が案外濃いのかもしれない。

2008年7月16日水曜日

Re : 食糧危機に備えよう

忙しさにかまけtatter'sさんのブログ「食糧危機に備えよう」にコメントしそこない、時遅いので、気がついたことをここにちょっと触れてみたいと思います。

生協で’芋がら’(ずいき、里芋の茎を干したもの)を売っていたのを見つけて、物好きね~と云われながら買ったことがありました。連れ合いは油揚げと一緒に煮てくれました。これ江戸時代の下級武士の主菜として時代小説などに登場しますが、普通は油揚げは入っていなかったのじゃないでしょうか。(映画’武士の一分’で盲目となった主人公が女中として帰ってきた女房を、味付けでそれとわかる場面もこれではなかったでしょうか)今の食料品と比べると信じられないような違いです。栄養が悪く、病気もしやすかったでしょうし、寿命も短かったわけですね。
こんな真似は必要ないわけですが、材料の贅沢にも気を使うようになりました。また、売る側のスーパーなども、効率を考えるのでしょうが、パックして売ります。我々はスーパーで、二人には多すぎるけどぜひ食べたいパックした商品があると、店の人に頼んで、中身を減らしてもらうように交渉します。案外気持ちよくやってくれます。これは使いまわしたって賞味期限さえクリヤーしていれば問題ないでしょうから、心配せずに交渉していいと思っています。

その使いまわしですが、レストランで料理を出す側の使いまわしは論外として、使いまわしを促してしまうほど、残す人が多いということを意味してないでしょうか。残すほどの注文をスルナ!と云いたいです。
腹8分目と教えられ、お百姓さんの大変な農作業を思えば、残すなんてもってのほかと教えられた者にとって、困ったことだと思います。マスコミも使い回しだけを取り上げ、残す人たちが多いことを取り上げないなんて、片手落ちだと思いますヨ。

2008年7月10日木曜日

都立大学駅

都立大学と云う大学は今はない。いくつかの都立の大学を統合して首都大学東京と改組してしまった。その本拠は、都立大学が統合前にあった京王相模線の南大沢にある。しかし、都立大学駅は東急東横線の渋谷から5つ目の駅として存在している。父が建てたお墓のあるお寺が当駅の近くにあり、昨日、施餓鬼会とて、行ってきた。
さてその都立大学駅である。開業時は地名を反映して柿の木坂駅だったそうで、府立高等前駅、府立高等駅、そして都立高校駅、都立大学駅と変遷したが、都立大学が南大沢に移ってからも駅名は変わっていない。都立大学の名残に、都立大学付属高校があるだけで、それも来年度以降は生徒の募集をしないと云う。
ついでに、お隣の駅は学芸大学。ここも学芸大は多摩地区に移ってしまって、付属高校が残っているだけと云うが、未だに学芸大学と云う駅名である。ちなみに駅名は碑文谷駅ー>青山師範ー>第一師範ー>学芸大学と変遷を遂げたそうだ。
体を表さなくなった駅名を変更しようと云う意見もあるようだが、いや今のままと云う意見もあるとのこと。かつて都立大学(学芸大学)があったという意味で、駅名をそのままにしても良いかもしれない。だがいっそのこと、振り出しに戻って、柿の木坂駅と碑文谷駅にしてはどうだろうなんて私は思うが、住民はどういう選択をされるだろうか?
私が子供のころと比べると、東急の路線はずいぶん変わった。都立大学駅-(東横線)-自由が丘-(大井町線)-二子玉川-(田園都市線)-長津田と乗り継いで帰ってきた。大井町線に急行が走ってた!たった4枚だが、スライドでどうぞ。








電車はカラフルできれいになっている。昔はTKKのマークを付けて走ってたが、われわれはよく、Tottemo Konde Korosareruと揶揄したものだった。、今はどうなんだろう。

2008年7月7日月曜日

分解のすすめ (自転車屋さんにもらったベル)

自転車屋さんで使わなくなったベルが出来たら、もらえることになった翌日のことです。連れ合いが買物の帰りに自転車屋さんに寄ったら、ご主人がちょっと待ってと言って、裏から一個のベルを取ってきてくれたとのこと。翌日、私もアジサイ大学の帰りにお礼を言ったら、「あんなのででよかったら」とにっこり。個人商店とのお付き合いを懐かしく思い出しました。(使って作品が出来たら、見せに行かなくちゃ、ですね。)

電池を使って鳴らすベルを作るには、戴いた自転車のベルの上のリンの部分だけが必要なのですが、取り外して中を見たら、そのまま捨ててしまうのはもったいない気がして、分解しながら、ムービーに撮りました。

多くの大人にとっては「なーんだ」と云うようなLow tech.かもしれませんが、小学校高学年の子供たちにとっては案外、珍しいかもしれません。子供たちが見てくれることを願ってアップします。細かい解説を書くより見て考えてくれるといいと思います。
一番下の指で動かすプラスティック板がバネで往復運動をするようになっていて、間にギアーが噛んでいていちばん上の板が一回転半することに気付いてくれるかなー。




いろんな手法に関して、その手法を分解して、再構成しているうちに、新たな発見をするということは大人になっても経験することがあると思います。
ちょっと複雑そうな仕組みを内蔵したおもちゃが動かなくなったりして、捨てるようなときには、捨てる前に、是非分解することを勧めてほしいと思います。案外頭を使うんだと思いますよ。その経験は大切な財産になると思います。

2008年7月5日土曜日

毎朝の観察:アロエが咲くまで

昨日は仕事の合間に中津川角田へ出かけ川原近くの竹やぶから竹を少しいただいてきました。Wさんありがとうございました。崖の方の真竹の林は成長した筍がすごいことになってました。 
それにしても昨日は暑かったですネ。日中に出たのが悪かったのですが、暑さにふらふらになりました。(写真をクリックすると大きくなります)







6月12日にブログにアロエが蕾を出したと書いたのですが、25日なってようやくほころび始め今朝一部花が開きました。一日置きに朝撮った写真をスライドショーにしました。










アロエはほころび始めてから花開くまで2週間と2日かかりました。ゆっくりですね。

最後はやはり6月12日にちっさな芽を出していたアボカード(アボカド)と一緒に。

2008年7月4日金曜日

国際基督教大学の湯浅記念博物館を訪れました

先週土曜日に、国際基督教大学(ICU)の湯浅記念博物館を訪れました。ICUはJRの武蔵境駅近くにあります。野川に沿った河岸段丘の上にあり、緑に包まれた落ち着いた雰囲気に包まれた大学です。キャンパスの一部の表情をスライドショーでどうぞ
1)正門から入っていく道路からキャンパス内部を望む
2)中央の芝生と大学本館
3)チャペルの塔が木の間から
4)大学食道;”なんでもランキング”で大学食道の部1位とか、安くておいしいようです。2人で夫々タイ風カレーを取り、+一人は野菜サラダ、他方は冷奴で締めて950円。ウォーキングのシニアのグループも並んでました
5)オープンキャンパスを見学の高校生も混じって案外賑やかでした。郵便局も見えてます
6-7)桐の火鉢、焼き物の火鉢、手あぶり、枕:懐かしいものばかりです(湯浅記念博物館にて)
8-9)舗装されちゃっていますが、キャンパスに残る鎌倉街道









よく調べて自分がしたいことがここで学べると思う人は入学を考えてもいいかもしれません。(http://www.icu.ac.jp/info/facilities.html)
本気の人には落ち着いて学べる良い環境の大学の一つだと思います。

2008年7月2日水曜日

廃物利用のベル II  (空き缶でも何とか)

自転車のリンを使うのは良い案と思いましたが、どうもいま一つ納得がいかず、いじってみました。空き缶をたたく棒(糸鋸)と空き缶の位置関係、糸鋸と釘(電流を切ったり、流したりする接点)の位置などの調整が悪いと思いいじくった結果。多少ベルらしく、金属をたたく音が聞こえるようになりました。もっと早く気がつかねばならないはずで、お粗末でした。自転車のリンの廃物が手に入るともっとましになるでしょうね。


改良する前の版だったのですが、昨日子供たちと会った時、見せたら、あっ!と云ってすぐベルとわかり、ダセーとはいいませんでした。「きっと鳴るよ」と期待してくれたわりには、イマイチの音でしたが、接点で「青い火花が散ってるけど、ここ触っても大丈夫?」とか、いろいろ関心を示してくれました。今度改良版を見せねばなりません。もう少し早くに改良を試みればよかったと反省しきりです。

紙飛行機については、子どもたちは作ることは作ったのですが、主翼の調整とか、垂直、水平尾翼の調整などが必要なことを理解するには、小5,6の子供たちには難しいようで、機体いじりは私にまかせ、飛ばすことだけに関心が行きました。まあしようないでしょうね~。紙を切って貼り合わせて飛行機を作ったと云う記憶が残ってくれればありがたいと思います。昨日は風が強かったので、早々に引き揚げました。