寶光寺の前身である向西庵には、関東管領、山内上杉氏の守護代、大石定久にまつわる話が伝わる。
大石氏(木曽義仲の後裔と称し、源左衛門と名乗った)は本拠を武蔵国多摩郡に定め、地域的領主としての基盤を固めていた。上溝付近もその支配下にあった。
関東管領山内上杉憲政は全く力を失い、関東から越後に逃げ、長尾景虎(後の上杉謙信)に家督を譲るありさまで、大石定久も武田信玄と小田原の(後北条)北条氏康との狭間で奮闘していたが、北条氏康の3男の氏照を養子に受け入れる形で、後北条の軍門に下り、守護代から戦国大名にという出世はならなかった。氏照は大石源左衛門を名乗った時期もある。
定久は多摩の戸倉(あきる野市)に出家して隠棲し、終わったとされているが、寶光寺には定久は出家後、娘の向西尼とともに向西庵に住み修業したと伝わる。おそらく悲劇の武将の話が上溝にも伝わり、その名を惜しむ人たちに向西尼にプラスした形で伝承されたのではないだろうか。大石定久の墓は多摩の京王堀之内近くの永林寺にある。
北条氏照は八王子城を作り、武蔵への進出の拠点としようとしたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、八王子城は激しい戦闘の末、前田利家、上杉景勝の連合軍に落され、本拠小田原城も落ち、北条のエースになっていた氏照は兄氏政とともに切腹した。
後北条の滅亡により、室町時代の初めころからずーっと続いていた関東の戦乱状態に終止符が打たれ、徳川の支配が始まった。
北条の対甲斐の重要拠点になっていた津久井城は、小田原攻めの際、徳川家康の家臣、本多忠勝により落城した。番田に伝わる穂打唄(ぼうちうた)の一節に
”津久井の城が落ちたげな
弓と矢と 小旗がながれくる”
とあるそうだ。
ずーっと眺めてきた城にあがった火の手と、相模川に流れくる敗者の武具、土地の農民の哀歓がこもっているような・・・。
北条氏康の辞世の歌
”旗立てし昔を松も知るらめや 風に靡かぬ草も木もなき”
p.s. 撮影しながら境内に入って行くと、ナントうら若き女性がベンチに座ってノート片手に沈思黙考の様子。思いもかけないことにチト慌てたが、会釈して通り過ぎ、邪魔しないように撮影したつもり・・・。(映像の後半は前半の1週間前に撮ったものです、光の感じが違います)
天応院がある下溝堀之内は氏照の娘と強いかかわりがある。相模原には北条氏照の影が案外濃いのかもしれない。