フラワーパークからシャトルバスで足利市内へ。足利学校へ。創建については小野篁(平安時代)説、足利義兼(鎌倉時代)説などあるそうだが、歴史上はっきりしているのは室町時代に関東管領、上杉憲実が現在国宝に指定されている書籍を寄進して再興したころ以後のこと。足利に来ておやっと思ったことは、この地に土着して、発展しその後室町幕府を開いた足利氏なのに、この地におけるその足跡が薄いこと。勿論戦国時代、北関東は戦乱に明け暮れたらしいから、古くからのものは失われていることだろうけど。理由の一端は次のことのようだ;足利氏は源頼朝が平家に対して挙兵するとすぐ頼朝のもとに馳せ参じ、同じ河内源氏ということで重んじられ、結果足利は本願の地ではあっても中心勢力は鎌倉に常駐。頼朝の家系が滅んで実権が北条氏に移っても無理せずNo2を続け、その間に三河、尾張方面に根を下ろした。庶流の斯波氏、吉良氏、今川氏など東海道沿いに発展している。京都に上るには格好の中継拠点を作っていったといえる。
さて足利氏のことはさておいて、当の足利学校、全国から学生を集めて教育を行った。江戸時代に各藩に出来ていった藩校の範となり、江戸末期にはその役割を終えた。パンフレットからもらった図を転写しよう。クリックすると大きくなる。儒教を講じたゆえか、中心に孔子廟があり、南側に勉学の場の方丈、校長たるしょう主の部屋、書院があり、生活の場として、庫裡が隣接し、更に西の端に寄宿舎たる衆寮が再建されている。周囲は堀と土塁で囲まれていたらしく一部が再建されていた。裏手の方には昔のままの土塁の跡が見える。少し狭いが落ち着いた学びの場という雰囲気である。江戸期に庶民のために作られた、岡山池田藩の閑谷学校の佇まいを思い出した。
さて足利氏のことはさておいて、当の足利学校、全国から学生を集めて教育を行った。江戸時代に各藩に出来ていった藩校の範となり、江戸末期にはその役割を終えた。パンフレットからもらった図を転写しよう。クリックすると大きくなる。儒教を講じたゆえか、中心に孔子廟があり、南側に勉学の場の方丈、校長たるしょう主の部屋、書院があり、生活の場として、庫裡が隣接し、更に西の端に寄宿舎たる衆寮が再建されている。周囲は堀と土塁で囲まれていたらしく一部が再建されていた。裏手の方には昔のままの土塁の跡が見える。少し狭いが落ち着いた学びの場という雰囲気である。江戸期に庶民のために作られた、岡山池田藩の閑谷学校の佇まいを思い出した。
2 件のコメント :
足利氏が、足利におけるその足跡が薄いこと」
の理由が少しわかりました。
権兵衛さんの解釈(説明)にな~るほどでした。
足利学校は全国から学生を集めたようですが、
具体的にはどのようにして集めたのかしら?
向学心に燃えた入は身分に拘りなく入ることが出来たのかしら?
どのように集めたかは、残念ながら知りません。
はっきりしてることは、室町期;大名ー戦国大名の軍師たらんとする人たち、江戸期も藩校に帰って各藩の武士たちを鍛える役割をする人たちを教えたと思われます。つまり、エリートたちの学校。
閑谷学校は全く逆を向いていた。江戸期の終りの方でしたが、先見性を感じますね。
コメントを投稿