2008年8月15日金曜日

雄龍籠山の金毘羅社と川尻八幡宮そして横山荘

 城山町史によると、川尻八幡宮は、応神天皇を祭神として大永五年(1525)に創建されているが(もうすぐ500年)、社伝によれば、もっと古く、舎人親王(四十代天武天皇の皇子)の子孫が奥州に降る途中、病に倒れ亡くなり、従者がこの地に葬り、土地の首長が護持していた石清水八幡宮の分霊を御神体として祠を建てたのが今の川尻八幡宮の始まりとのことである。昭和四年境内の北側からその頃(古墳時代)のものと思われる石室が発掘され、直刀や矢じり等が発掘されている。(碑文とそれらしき跡があった)

 川尻八幡宮の入口から「一の鳥居」まで、一直線に延びる長い参道の延長上から年に2回(2回と云うのは当然でしょうが)、二月十九日頃の雨水の日と十月二十三日頃の霜降の日に日の出を拝むことができるとのこと。(昔は地平線から上がる赤い太陽を見ることが出来たが、今は建物があって、そうはいかない、と神主さんのお話。この御宮さんのお祭りは8月27,28日にあるそうだが、上溝とはまた趣が異なる伝統的な行事があるようだ)

 さて、まっすぐ延びる長い参道を一の鳥居から西を見ると、川尻八幡の杜の奥に雄龍籠山(オタツゴ山)が見える(上の写真。クリックすると大きくなります)。この頂上近くには(城山湖の発電所傍)金毘羅社が鎮座する。文化元年(1804)に住人代表が四国の金毘羅さんをお参りして分霊を持ち帰り、この地に祀ったと伝わる。ここも川尻八幡同様、もっと古くからお社があったのではなかろうか。今は立派なお社があるが、10年前の年越しに参詣した時は階段は崩れかかり、社も今より古びたものだった。(夜景がとてもきれいで、横浜港かどこかで花火をあげるのが見えた)

 松風山寶泉寺と小松城址; 雄龍籠山と川尻八幡を結ぶ線上真ん中よりは川尻八幡寄りに、松風山寶泉寺がある(地図参照;クリックすると大きくなります)真言宗のお寺だが、もともとは平安時代末からあったとされ、その時は今の南東の向かい側(ちょうどカタクリの里近く?)にあったとのこと。
現在の位置は実は1300年ごろに片倉城にあった、長井大膳太夫広秀が出城として築いた小松城の領域で、今の境内に居館があったとされている。城の郭は本堂の裏手の尾根にあった。たぶん寶泉寺は菩提寺として城の領域に移されたのであろう。長井氏は鎌倉幕府の政所で力をふるった公家出身の文官、大江広元の子孫で、和田合戦における勲功により広元には族滅した横山党の根拠地、片倉城以下横山荘が与えられていたのであった。

 戦国期になるとこの地は小田原の後北条に支配される。お寺の南にある自害谷戸は敗れた長井一族が自害した場所として名前が残っている。後北条のもとでは津久井城と八王子城の連絡の城の意味を持っていた。寺から西の方奥に進むと紅葉で知られた評議原と云う場所があるが、これは今度は後北条が攻められた折に八王子城や津久井城から人が集まって評定をしたという。お寺には板碑、石灯籠や、城跡には謎めいた五輪塔や宝篋印塔など石造物が多くあるという。



 横山荘;櫻井徳太郎賞を受賞した松本司氏のB5版29ページの論文「1113年から1213年の横山氏一族の勢力扶植と横山荘」『歴史民俗研究』第1輯 板橋区教育委員会発行(2004/03)において、氏は片倉、八王子あたりではないかという通説を排して、横山党本宗家の所在地として雄龍籠山麓源流地帯に横山荘の中心を求めた。それは8月8日の私のブログ「相原八幡宮と華蔵院(粟飯原(横山)時重の伝承)」で述べたように横山時重が粟飯原を名乗ったということ(相原八幡宮と川尻八幡宮は1.5粁ほどしか離れていない)、それを守るように一族が境川沿い、相模川沿い、そして甲州口に拠点を展開していったことを拠り所にしている。とても全部を紹介出来ないが、要点を述べると:川尻八幡宮の参道と雄龍籠山の金毘羅さんを結ぶ軸線に沿って
 1)川尻八幡の裏手カタクリの里から少し南の辺りにかけて最近まで字名として”小野”が使われていたが、松本氏は戦国末、江戸初期の川尻検地帳に”小野”に因む地名が(若葉台の方に行く道に沿って)並ぶということに気付いた(直上の地図;論文から転載した;クリック拡大)。横山氏の本姓は小野篁につながる小野氏と云われている。
 2)和田合戦で戦死した31名の横山の人々の内、多くの(多摩八王子あたりの者数名を除いて)苗字とこの地域の地名と対応づけられる。
 3)軸線上にある六社明神社は一族の祭神をまとめて祭る神社で、雄龍籠山の神社が山宮に対して、六社明神社が里宮、川尻八幡は里宮本社と見ることができる。この軸線をさらに東に伸ばすと上矢部の御嶽神社(矢部氏)の西鳥居に正確に達するという。更に橋本明神社(藍原氏)の参道も雄龍籠山に向かって線で結ばれると指摘する。小倉八幡宮(小倉氏)は相模川の源流の一つの雌龍籠山(雄龍籠山の南)に向かう。更に大島諏訪神社の参道が雌龍籠山に向かっていること、大島が甲州道の入り口にあることに着目して大島諏訪神社を古郡氏の神社に対応ずけて考える。

 細かい議論は省いたが、松本氏は多摩の北面地域(八王子一帯)と相原―矢部―田名を結ぶ一帯が横山荘を成すであろうと指摘した。科学論文のような論理の運びとは趣は違うが、力作であることは櫻井徳太郎賞の価値も知らない門外漢の私にもよくわかる。この論文についてHON氏は掲示板過去ログ集において、和田合戦後、横山荘を与えられた大江広元=長井氏がなぜ川尻、相原地区に本拠を置かず片倉を本拠にしたのか?と疑問を呈しておられる。私は横山一族が相原―矢部―田名を結ぶ一帯を開拓していたことは間違いないであろうと思う。しかしこれを横山荘と云い得たかどうかは別の考察を要すると思う。

 実は綾瀬周辺を本拠としていた渋谷氏の渋谷荘の北端は相原地区であったという説がある。もしそうなら、渋谷氏が親戚のよしみで渋谷荘の辺境の地を横山党の人々が開拓することを問題にしなかったとしても、横山荘に組み込むことはできなかったはずである。
 もしこの地域に上記のような制限がなかったとしたら、長井氏が生産性の高そうな相原地区を見逃すと云うのは不思議ではある。和田合戦の北条方の勝利は相州北条義時と大江広元の知略と協力が大いにものを云った。和田合戦の後に北条の被官から御家人になった横溝五郎太夫と云う人が上溝城を作ってここを治めたと(「相模原の史跡」;座間美都治著)いうことから見て、相州としては相模の領域分は長井氏に渡さなかったということもあり得るような気がする。(全くの素人考えゆえ、おかしなところは何なりとご指摘いただければありがたい)
関連;「相原八幡宮と華蔵院  (粟飯原(横山)時重の伝承)」「(伝)田名氏 館址  スライドショー」 、 「(伝)野部(矢部)義兼 館址 (上矢部)」 および 「わだ坂」

5 件のコメント :

Unknown さんのコメント...

その後(和田の乱)の和田生き残りの去就について数年前調べ出しましたが、諸般の事情により放置したままです。津久井、八王子に和田姓を名乗るおなじ家紋の旧家が点在します。上野につながる和田の足跡が残っているかもしれません。九州出身の横山一族の末裔という人が私のところまで訪ねてきたことがあり、そのころから何かしなければと思いながら・・・、権兵衛さんの調査報告に胸躍らせています。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/wada_ue.html

権兵衛 さんのコメント...

達夫さん
ひょんな事から横山党に興味を持つようになり、ほんのちょっとですが、いろんな人の調査を調べてノートを作っています。上野に和田氏の系があったとは知りませんでした。津久井、八王子に和田姓を名乗るおなじ家紋の旧家のことは貴ブログを読んで知りました。次は和田氏のことをと思っていましたので、お手伝い出来ればうれしいです。
和田合戦を引き起こすきっかけに大いにかかわった、泉親衡の伝承が番田にありますね(「相模原の史跡」)

匿名 さんのコメント...

 この前は良く通って城山にオニギリを食べに行きますが、まだ境内に入った事はありません。駐車場もあるようなので今度よって見ます。
 歴史の背景を事前に頭に入れとくと、面白さも倍増しあます。ありがとうございました。

匿名 さんのコメント...
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権兵衛 さんのコメント...

中さん
あのお寺さん本堂を新しくしました。お葬式の会館も立派です。過去には名僧がおられたと書いてありましたが、今も・・・・
雄龍籠山からの眺めは広々としてなかなかいいですね~。