2021年10月16日土曜日

「KYな人」

もう古臭い表現になってしまったが、「KY」という文字が人々の間ではやった時期がありました。「空気を読む」というやつです。いやなフレーズで、嫌いでした。まさに「同調」者のベタベタした感じがして嫌いでした。私は自分の名前(苗字ではない)にちなんで、E-メールアドレスなどに、KYを時々使います。気持ちは「空気を読まない」のつもりで。
現役の頃の話ですが、授業が終わってから良く質問に来る学生がいました。時にとても良い質問で、他の学生達も共有出来たら良いのにと思い、「良い質問だと思うので、他の人とも共有したかったね、質問は出来るだけ授業中にしてくれないか、他の人にとっても参考になると思うんだが。」と促したのですが、彼は拒否しました。目立つからいやだというのです。彼は空気を読んだのでしょう。でも社会の改善へのほんのちょっとした一歩にも寄与してくれませんでした。すごく残念な気持ちになったことを思い出しました。
子どもの世界のいじめも、同調者同士が群れて、群れに馴染まない異質な人を疎外し傷つけたりするということのようです。質的には上記の事と同じなのかなと思います。

我々の社会はどうも、異質を嫌う傾向が強いようです。でも異質は社会にとって、とても大切だと思うのです。異質な存在があると、多くの人が気付かない別の観点に気づく可能性が多くなるはずです。
何度か紹介したことですが、「アリの世界の話で、働きアリの軍団とは別に何処をホッツキ歩いている分からないようなはずれ者のアリがいる集団の方が、優秀な働きアリだけの集団よりも栄える」というコンピュータシミュレーションがあります。ホッツキ歩いているアリが、セッセとエサを運ぶ働きアリと無関係に新しいエサの在りかを見つけてくるというわけです。

少しづつ社会の様子は変わりつつあるようですが、少しでも早くオープンな風潮の社会になってほしいとつくづく思います。特にイジメによる悲話を聴くたびに強く思います。大人がオープンな心で接する社会を形作ろうと努力し、身を持って子ども達を教育していくしかないのではないかと思うのですが。

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