2014年6月23日月曜日

漂流

日本丸。経済はうまくいってるように見える。押したり引いたり、いろいろの工夫があるように見える。だがその手法を憲法にまで持ち込むというのはどういうことだろう。

憲法は国民が持つ哲学を表すもの。その憲法の改定を必要と感じている人たちが少なからずいることは確かだ。そして、政権は真正面から改定をしようと試みた。しかし、そう簡単ではなかった。現憲法は与えられたものとはいえ、年月を経て定着しているのだろう。
その先に出てきた政権の行動が、一体どういう精神構造からきてるのかと思ってしまうのだが、そんならと、解釈変更という手を考え付いた。あまりにも姑息ではないか?
憲法は、経済と違って、結果オーライとはいかないものだ。国民が持つべき哲学をそんな姑息な手でいじくって良いものだろうか?もしこれが通ってしまうと、政権が変わると解釈も変わり得るわけで、国の基本的な考え方がふらふらと漂流し始めてしまいそうな不安に駆られる。そして、そんな国が他国から尊敬されるだろうか?

今日の朝日新聞の世論調査記事では、出来るだけ早く結論を出そうとする政権に、80%もの人が急ぎ過ぎだといっているという。なのに政権側は急いでいるようだ、あたかも、国民がサッカー・ワールドカップで沸き返っている間にやってしまおうとしてるかのように。

もっと哲学がしっかりしてる人たちなら、こんなあやふやなことはするまい。哲学があやふやな人達に政権運営を任せるのだからこそ、その行動に対する規範たる憲法でしっかり縛らなくってはならないのではないか?憲法に改定すべき点があると考えるなら、しっかり国民に訴えて、合意形成の努力をすべきだ。それも、国論を二分するような形ではなく。

我々国民もしっかり考えるべき時にあるのではないか?例えば第9条の問題。日本が戦争放棄の孤塁でいることの意味を深く考えねばなるまい。もっと積極的に、他国を説得して、軍縮、いや戦争放棄へと考え方を変えさせる努力をせずに孤塁を守れるだろうか?守る守らない、いずれにしろ大変なエネルギーを要することだと思う。

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