この一族の一部が別れ、世田谷豪徳寺辺りから奥沢のあたりまでを領有したようで室町時代には、関東では鎌倉公方(足利氏)、関東管領家(上杉氏)に次ぐ家格を有していたらしい。世田谷勝光院や目黒の東光寺に一族の墓がある。
しかし戦国時代末期になると、小田原の後北条家に組み込まれることになり、横浜の蒔田に城を作って本拠を移し、蒔田御殿と呼ばれたらしい。城跡の丘には横浜英和という学校がたっているが、丘のふもとには竜禅山勝国寺が菩提寺としてなごりを残すこの吉良氏は、江戸時代には蒔田氏と改姓して徳川家に高家として仕え、吉良上野介義央の代で吉良の本宗家が断絶した後は、蒔田氏が吉良に復姓した。
蒔田の地をちょっとブラっとした後、弘明寺に出た。弘明寺は座間の星谷寺と同じく坂東三十三観音の一つで、第十四番霊場であるが、それとは知らず、私は小学校にあがった頃はこの辺をかけずり回っていたのだった。
門前をまっすぐ伸びる商店街も、アーケードつきとなって賑わっていたが、ちょっと東にあった、立派な太ーい欅が無くなってたのは残念至極。