2019年11月1日金曜日

一部の延期を決めたたが、まだ問題点がある

業者による英語のテストの利用を延期して再考すると、文科大臣が述べた。問題点の一つは先送りされることになった。
誤ちを改むるに憚ることなかれ、良い決断だった。しかし、今度の共通試験にはまだ大きな問題がある。延期すると文科大臣が述べた話の中で、「記述式問題の導入など大学入試改革について円滑な実施に向けて万全を期す」と強調した。

今度実施されることになった共通試験の前身は大学センター試験と呼ばれたもので、マークシート方式が採用されていた。記述式の問題はなかった。記述式の問題自体の重要性は認めるが、共通試験では約50万人が受験する。与えられた課題に対して、受験生夫々が考えをまとめて文章を作るわけで、いわゆる正解の文章などあろうはずはなく、採点者は一つ一つ深く読み込んで採点しなければならない。そして50万の解答文に対して採点の一様性を確保することが求められる。どうやって、「万全を期すのか?」、これもまた基準があやふやになってしまいそうである。

記述式の力を試すのは、各大学が二次試験を実施して、その中でその大学の特色に合わせた相応しい問題を出題すればよいのではないか?何も全国共通の試験で記述式の問題を出すという、無茶なことをしなくってもよいはずである。入試問題を作るということは、そして採点をするということは、各大学にとって最も重要で、エネルギーを要することは想像に難くない。大変な事業であろう。とわ言え、各大学がその体をなす力を持つなら、それはしっかりやれる筈である。

今般のような全国共通の入試に対して大きな改革を行うのであれば、いきなり入試の場で実施するのではなく、改革の試みがうまくいくかどうかを、全国学力テストのような、直接入試にかかわらない場で試して深い検討をくわえてから結論を出すべきではないだろうか。
今回改革しようとしていることは決して否定するものではなく、理念は良いものだと思う。しかしそれを制度として実施する前に、中身の深い検討が必要だと思う。制度を「」に譬えると、「仏作って魂入れず」のことが無いように願いたい。

なお文科大臣が「身の丈・・・」発言を撤回したからといって、また今回の業者によるテストを延期する決断をしたからといって、氏の文科大臣としての資質への疑問は消えない。見守るしかないが。

2019年10月30日水曜日

共通試験 おお虚け

いま、共通テストなるものを考えて、腹を立てている。
最も大きな問題はどのように取り扱うのが正しいかという慎重な検討もないまま 民間試験の導入をしようとしていることである。

複数の民間試験から受験者が選んで受験する。受験費用が異なるうえ、試験の内容の程度 も同程度である保証は全くない。
・どの試験を選ぶかという点において、家庭の経済状況が反映されることになろう。
・基準があやふやなまま、学生の能力が平等に判断されないという大問題が生じる。
経済格差がもたらす不平等、あやふやな基準によってもたらされる不平等が、受験生個人個人を襲う。

だけど問題はこれだけだろうか?この試験、”共通”と名打つように、国公立大学を目指す学生は皆等しく受ける 事になっている。大学に入るのに一定の能力を求められる以上、試験は一つの手段であるとしても、今回提案されたような 試験の結果 を用いて選別することは、将来を継ぐ若い人たちの勉学への機会をアヤフヤな基準で決めることであり、 とても容認できることではない。拙速は避け、もっとじっくり考えて中身をよく考えて、進めるべきである。

このまま進めることは、まさに国を危うくする、国を誤ることと言わざるを得ない。ましてや、国の教育に携わる部門の責任者たる 文部科学大臣ともあろう者が、「身の丈に応じて頑張れ」とは言語道断である。昔、元首相の故池田勇人氏が蔵相時代に 「貧乏人は麦を食え」と解釈される差別的発言(本当は、「所得の少ない方は麦、所得の多い方はコメを食うというような経済原則に沿ったほうへ持っていきたい。」と言った)をして物議をかもしたが、そんなレベルとは遥かに遠い、はるかに愚かな発言で、 文科大臣なのに、教育の機会均等をうたった教育基本法も理解しない、おお虚けというほかはない。 国民や受験生に謝って済む話ではない。国の未来に対して恥じるべき発言である。 未来のために潔く退くのがせめてもの救いであろう。

2019年7月24日水曜日

アホちゃいまっか?

何所の局を見ても、芸人さんの記者会見、その人達が所属する興業社の社長の記者会見そのものだったり、話題だったり。アホちゃうかと言いたい。
何に対してかというと、大騒ぎして取り上げているマスコミに対してである。何か忘れていませんか?
この現象を発端から整理すると、
1)反社会的勢力とかいう連中が、人をだまして巻き上げた金で堂々とパーティーを開いて、そこに芸人まで呼んだ。
2)その芸人さんたちが、金銭の授受があったかどうかで嘘をついた。
3)その嘘を謝罪する会見を開くかどうかで、興行会社との間で悶着があり、両者が会見を開くことになった。
事の重大性は一目瞭然、1)が最重大、その次が2)、そして3)はいわば社内問題、当事者たちが話し合いかたずければいいだけの事。その間に会見したっていいが、マスコミは打っちゃっておいたってかまわない話。対応すべき問題の重大さは1)にある。あの連中を野放しにしておいていいのか!警察は動いているのか!そちらの方がはるかに重大事ではないのか?ホンマ!マスコミのノーテンキさにはあきれます。アホちゃいますか?

2019年6月20日木曜日

とても横綱相撲とは言えないね。お相撲の話ではありませんが。

政治の世界で、横綱と云えば内閣総理大臣。でも彼は横綱相撲をやっているとは思えない。
ひらりとかわして、「かたすかし」、ぶつかると見せて、「けたぐり」。
ガチンコで堂々四つに組んで、相手にさんざん技を出させて、それをしのぎ、最後にいっせん大きな投げ技で倒してこそ横綱。 本来なら、上杉謙信(ヒデ-間違いをしちゃいました。訂正)みたいに相手に塩を送ってなお堂々と戦う、つまり手の内をさらしても、さあ来いとやってほしいのに、
まあ、隠してばかり。ちっちぇーなー!。

2019年6月2日日曜日

ささくれだった社会

登戸の事件の直後に、この種の事件の先進国である米国でも、銃による同種の事件が起こった。日本社会の米国化は進んでいると思っていたが、こんな事にまで米国化が急に進んでいるのか、という思いだった。
事件を受けて、いろんなことが言われている。被害にあわれた方々を思うと、何とも言いようがなく、加害者に対する激しい言葉に共感するところは多い。しかし、もう少し冷静になって考えようという意見も表明されて、こういったタイプの事件の加害者に見える”疎外”とか”孤独”といった境遇の傾向について議論されたことで、思い知ることが多かった。
本日のテレビのある局の市民意識に関する調査結果によると、「孤独は自己責任」と考える人の割合は、米国が多いだろうなと思っていたら、米国では30%台前半であったのに対し、日本ではダントツの44%だったとの事。そして、孤独感、疎外感に悩む人へ手を差し伸べたいと思う人の割合は、米英よりはるかに低く、たった17%であったという。本当に驚いた数字だった。米国化なんて言うのは米国に失礼なことになってしまう。
日本人って穏やかで、人を思いやる心が豊かな国民性の持ち主だと思っていた。どうしてこんなことになったのか?いやもともとそんな傾向の人々なのだろうか?確かに「村八分」なんて言葉を聞いた事がある。疎外はあったのだ。でも、そこら中にいつでもあったものとも思えない。こんな話になった時、私は将棋を思い出す。相手の駒を捕獲して、生かして味方につけると云うのは、チェスなど同種のゲームの中で、将棋だけではあるまいか?取って味方につけることでゲームが複雑となり面白いという面もあるが、このような発想は日本社会の穏やかさという特質を反映しているのではないかと常々思っていた。チェスなどのような殺伐とした風景はない。
この頃気になってしょうがないのが、テレビなどメディアで、成功者が目立つような取り扱いが多く、社会の底辺でも一生懸命努力している人々に光を投げかける努力は影を潜めているように見えることだ。それだけではない、非正規雇用なんて言葉が急に顕在化し、社会の分断がはっきりしてきて、社会が以前にも増してささくれだって行くように見えてならないことだ。

2019年5月24日金曜日

悔しいこと

何が悔しいって!「国民から選ばれた衆院議員があの程度のレベルの人間でしかない」とみられること。我慢ならないほど悔しい。
丸山君は国会議員という立場で、北方領土訪問団に随行したのである。立場と場をわきまえない本当に愚かな人としか言いようがない。
その彼、帰国後、言論の自由という言葉を振り回し始めた。言うのも恥ずかしいが、自由には責任が伴う。全く無責任な人と吐き捨てて無視したいところだが、彼は国会議員。それなりの責任を明らかにすべきだと思う。

2019年4月13日土曜日

令和に思う

令和の字を見て、浅学菲才の私は先ずは違和感を感じた。「令状」、「指令」、「命令」とか「号令」など、何か強制を伴う文字が浮かんだからだ。

説明を聞いて、令月なんて言葉があるんだと知り、そういえば、令嬢、令夫人、御令室なんて言葉があるなーなんて、何か言い訳がましさを感じながらも、ぼんやり受け入れた気になった。

しかし、出典など解説が2週間たった今も続いている。本日の朝日新聞の社会面(34ページ)によると、考案者と目されている国文学者がある市民講座で、令和の解説をしたそうだ。「令月」に中国の文献からの影響を指摘する人が居たそうだが、中国の文献では2月の意味であり、万葉集では1月の意味だから違うと言ったとか。なんだか言い訳がましいこと言わなきゃいいのにと思う。
その先生は令は「命令」の意味を含むとの指摘を受けて、「文脈が違えばそれぞれ際だった側面が強調される。こじつけだ。」と語られたとのことである。確かに文脈が意識されれば、当を得たものなのかなと思う。しかしである、果たして「平成」の出展、文意が大方の人に今も意識されているだろうか?私は平和とか平等といった文字と重なって、人々の意識の中にすんなり入って行ったのではないかと思う。

令和の出展の文脈が意識され続けるのはどれくらいの長さだろう。やがて薄れ、「令和」の文字だけが残るのではあるまいか?その時、令月とか令夫人とか令嬢と言った言葉と重なって意識されればそれはそれでいいかもしれないのだが、令状、指令、命令、号令なんて文字が意識されることがないように願っている。言葉は人の意識をコントロールし、人々に浸透した意識は時代の空気(風景)を決めるだろうから。