昔寄宿舎があったところに建てられ、つい最近まで学校として使われていた古い建物が資料館として使われていました。
光政と言う人は幼くして家督を継ぎ、どうやって藩を治めていくか大いに悩み、最終的に学問でもって藩を統治しようと考えたとのこと。その境地を若いうちに切り開いた事は素晴らしい人だったのでしょう。 藩の郡方にも庶民のための寺子屋を建て、その頂点に閑谷学校を庶民の学問所として位置付けたと書いてありました。
国宝の講堂はいまも威風堂々とした雰囲気。儒教に基づく教育がなされたのでしょう。
写真はクリックすると大きくなります。
「楷の木」:閑谷学校では『学問の木』とも呼ばれ、孔子墓所にあった「楷の木」から採集された種から育てられた木で、閑谷学校のほかにも日本国内の孔子や儒学にゆかりのある学校(湯島聖堂、足利学校、多久聖廟など)に配られたとありました。
閑谷学校のそばの岡山県青少年教育センターの広い部屋に布団を並べて泊る合宿でした。何年ぶりでしょうこのような事するのは。
2 件のコメント :
ナンバンハゼ(南蛮櫨)とナンキン櫨とは
違うのですね。
和蝋燭の材料? と思ったのですが
ナンバンハゼ(南蛮櫨)は聖木なのですね。
かつての閑谷学校からは著名な人も
でているのでしょうか?
楷の木=ナンバンハゼ(南蛮櫨)は蝋とは縁がないみたいですね。
出身著名人については資料館に展示してあったような記憶がありますが、疎いもんでどういう人か記憶なしです。済みません。
幕末近くになって有名人、たとえば頼山陽など、が来て視察して行ったという記事は印象に残ったのですが。
コメントを投稿