2011年7月1日金曜日

責任と言う言葉 : 国の責任、大臣の責任

海江田経産大臣は国が責任を持つからと、原発の再開を促した。その時、素直に思った事はいったいどんな責任をとるつもりなのだろうか?ということだった。
案の定、今日(7月1日)の天声人語で、同じようなことに言及していた。

福島原発の問題に関して国はどんな責任を取ろうとしているのか?今やってることは対処療法的なことであって、責任をとっているというようなものではない。
世が世なら、大臣はじめ原発を推進した人たちは切腹して国民に詫びなくてはならない状況の筈である。それぐらいの緊張感を持って、やるべき性質のことだ。

海江田大臣が国の責任と言った時、本当にそれ相当の緊張感を持って言ったのであろうか?何かあったら、国が適当にうまくさばいてやるから、地方の首長は”責任”に思い悩まなくってもいいよ、とでもいうような調子だったのではないかと疑いたくなる。そうであれば、住民を守る義務を負う首長も何と軽い判断力か!ということになるが。

責任と言う言葉、軽々しく使ってほしくないなーという思いである。

第二次世界大戦に関するA級戦犯の中の唯一の文官、広田弘毅のことが、本に書かれた文章を通してのみ知る人であるが、なぜか思い出された。

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