2020年3月24日火曜日

アスリートファーストって言ってるけど、政治経済ファーストだなー

今度の事は、「政治経済の、政治経済による、政治経済の為の、スポーツの祭典」から脱却する良い 機会ではないだろうか。
商業主義で華やかになったオリンピックが段々と肥大化して、政治経済に翻弄される オリンピックとなってしまった。アスリートは商品、競技場は陳列棚だろう。 東京オリンピックだというのに、商品の劣化を恐れて、お客さんさえ世界中どこからでも見ることが出来ればどこだっていいとばかりに、 陳列棚を東京から札幌に移したのはとても象徴的に感じる事象だった。
航空路線ネットワークの整備・拡充は人々の大量で迅速な移動が可能になり、オリンピックに世界中から多くの人が来場可能となり、それに 依って大量のお金が落ちる。それをあてにして、大きな競技場(陳列棚)、宿泊施設、その他もろもろの施設を準備することになる。 つまり、お金が回り、経済が活性化する。そこには政治も顔を出す。大金を動かすとなれば、政治経済の都合が優先する。
テレビネットワークの全世界的拡充も、大ネットワークが放映権なるものを創作して、独占配給する権利をIOCから買い取り、オリンピックの運営 にまで口を出し、実施時期まで決めてしまう。
アスリートの都合などどこにも考えられていない。アスリートファーストなんて微塵も感じられない。新型コロナウイルス感染症禍が世界的な 騒ぎになって、ようやくアスリートファーストなんて言ったって、ご都合主義にしか聞こえない。
「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、 友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という近代オリ ンピックの創始者クーベルタンの言葉は何処へ行ってしまったのか。 政治経済に支配されるオリンピックはもうやめるべきではないだろうか。今のままでは、経済的に豊かな特定の地域でしかオリンピックは実施でき なくなってしまう。
今回は延期されるだろう。だけど、ただ単に今の延長線上で延期するだけでなく、オリンピックを冷静に見直してみる 必要があるのではないだろうか。スポーツは政治経済のためのみに在るのではない。 私は「政治経済の、政治経済による、政治経済のための、スポーツの祭典」から少しでも「アスリートの、アスリートによる、アスリートのための スポーツの祭典」に近づけてほしいように思う。華やかさは落ちて、つましいものになっても 構わないではないかと思う次第である。

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