相原八幡宮;境内入口の所に「相原起番地」の石標が建つ。平安末期、横山党の宗家だった横山時重が粟飯原氏を名乗った。その縁からか、後に人々はこの地に八幡宮を勧請して、その境内を相原一番地と定めたらしい。境内には欅の巨木があり、市の保存樹木は数本ある。きっと鬱蒼とした地域であったであろう。
創建年代は不詳、平成8年に倒れた御神木の欅の樹齢が数百年以上といわれることから推して、栗飯原氏がこの地に進出した(横山氏のもともとの本拠地は八王子横山から片倉あたりと言われている)頃にはあったのではないかと言われている。ご神体は鏡で、華蔵院で護持されているという。
龍源山 正泉寺;天正19年に開かれたお寺で、津久井根小屋の功雲寺の末寺とのこと。400年の歴史を感じさせる、古い墓石が並べてあった。この境内は決して狭いとは言えないが、昔は吉川家の屋敷内にあったお寺とか、昔の武家の屋敷は随分と広かったことだろう。
児松山 華蔵院;真言宗のお寺。 享徳年間(1452~4)僧・秀慶の開創と伝えられ、ご本尊は阿弥陀如来。関東88か所 第62番霊場 相原八幡宮の別当寺であったため神仏習合の影響が強くのこる。境内に相原天満宮も合祀されている。市保存樹木の大銀杏の樹齢は400年とのこと。
粟飯原氏;粟飯原時重、その子時廣は平安末から鎌倉初期の横山党の当主で、横山党はもともと八王子横山、片倉あたりを本拠としていたが、南下して相模原周辺に展開した。弟の藍原孝遠がJR相原駅の東方、御殿峠古道に沿って展開、そしてその子が、上矢部に陣取った矢部義兼である。孝遠の弟、古郡忠重は甲斐への備えとして上野原市 古郡郷、その弟、経孝と子供たちは小倉、小山を拠点として開拓していった。因みに田名に拠った田名広季は時廣の子にあたる。つまり横山党は相原を中心に境川、相模川に沿って進出していた。また時重の娘が和田義盛や渋谷庄司重高に嫁し、もっと前に縁を結んだ海老名氏、また一族が愛甲、荻野に拠り、東方は町田から鶴見川流域まで進出していった。
和田義盛とともに和田の乱を戦った横山党は時重の嫡男時廣の子、重兼の横山宗家並びに上に記した人々を含む一族で、和田氏とともに戦い利あらず敗れ去り、いわば族滅の状態となった。鎌倉幕府は横山の名を残すことだけは許したようで、戦死した重兼に養子を取り(重時)後を継がせた。ただ一族は地方へ散って雌伏する。重時の系は尾張で帰農するが、後に前田利家に仕え、加賀百万石の家老の家柄となる。またその流れの中には徳川家康に器量を買われて、旗本になった者もいたという。
11 件のコメント :
歴史を調べていくと楽しいでしょうね~。
権兵衛さん
相原の事は何にも知らなかったので、面白く読みました。
何気なく残っている地名に、歴史の痕跡が有るんですね!
また教えて下さい!!
権兵衛さん、歴史詳しいですね、
色々参考になります。
これも相模原動画百選に載せましょうよぉ~(笑)。OKが頂ければこちらでタグを勝手に取って載せます。地図も引用させて頂きます。
あれっ!相原八幡神社は我が家のすぐそばです!古い時代からあるんですね・・・二国橋なんて平安時代からあったなんて驚き!です
匿名さんは・・・A子ですぅ~
失礼しました
なんだかうまくコメントが投稿できなくってごめんなさい・・・・再度挑戦します
菊池さん
子供のころから好きだったので、ちょこちょこ調べてます。本のほかに、案外ネットに詳しい記述がありますね。よく知れベテる人がいるなーとつくづく思います。”坂東千年王国論”なんてすごいですよ。
真澄さん(まお♪さん)
このへんの話は実は川尻にも繋がります。近いうちに川尻八幡宮付近も取材しようと思っています。
相模原の歴史で最初に興味を持ったのは族滅しちゃった横山党のことで、「横山党とその一族」と云う本まで買っちゃって読んだりして、入れ込んでいます。
おがちゃん
好きなだけで、趣味に範囲を出ませんが、楽しいです。
中さん
既にHTMLファイルが出来てますので、ちょっと手を入れてお送りしますので、その時よろしくお願いします。
A子さん
座間美都治著の「相模原の史跡」を図書館から借りてます。いろんな知識を得るきっかけになっています。横山党に関しては別の情報によっています。
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