登戸の事件の直後に、この種の事件の先進国である米国でも、銃による同種の事件が起こった。日本社会の米国化は進んでいると思っていたが、こんな事にまで米国化が急に進んでいるのか、という思いだった。
事件を受けて、いろんなことが言われている。被害にあわれた方々を思うと、何とも言いようがなく、加害者に対する激しい言葉に共感するところは多い。しかし、もう少し冷静になって考えようという意見も表明されて、こういったタイプの事件の加害者に見える”疎外”とか”孤独”といった境遇の傾向について議論されたことで、思い知ることが多かった。
本日のテレビのある局の市民意識に関する調査結果によると、「孤独は自己責任」と考える人の割合は、米国が多いだろうなと思っていたら、米国では30%台前半であったのに対し、日本ではダントツの44%だったとの事。そして、孤独感、疎外感に悩む人へ手を差し伸べたいと思う人の割合は、米英よりはるかに低く、たった17%であったという。本当に驚いた数字だった。米国化なんて言うのは米国に失礼なことになってしまう。
日本人って穏やかで、人を思いやる心が豊かな国民性の持ち主だと思っていた。どうしてこんなことになったのか?いやもともとそんな傾向の人々なのだろうか?確かに「村八分」なんて言葉を聞いた事がある。疎外はあったのだ。でも、そこら中にいつでもあったものとも思えない。こんな話になった時、私は将棋を思い出す。相手の駒を捕獲して、生かして味方につけると云うのは、チェスなど同種のゲームの中で、将棋だけではあるまいか?取って味方につけることでゲームが複雑となり面白いという面もあるが、このような発想は日本社会の穏やかさという特質を反映しているのではないかと常々思っていた。チェスなどのような殺伐とした風景はない。
この頃気になってしょうがないのが、テレビなどメディアで、成功者が目立つような取り扱いが多く、社会の底辺でも一生懸命努力している人々に光を投げかける努力は影を潜めているように見えることだ。それだけではない、非正規雇用なんて言葉が急に顕在化し、社会の分断がはっきりしてきて、社会が以前にも増してささくれだって行くように見えてならないことだ。